叡正がぼんやりと窓の外を見ると、日が高くなり始めていた。
(一体どれくらい経ったんだ……)
 叡正はうまく回らない頭で考えていた。
 そのとき、襖が開く音がして叡正は振り返る。

「なんだ、まだいたのか?」
 そこにはまだ少し眠そうな咲耶が立っていた。
「おまえ、一層ひどい顔になったな」
 咲耶が淡々と言う。
「……誰のせいだ?」
 叡正が恨みがましい目を咲耶に向けた。
「おまえのせいだろう? 私に人の顔をどうこうする能力はない」
 咲耶は軽くあくびをしながら答えた。
 確かに泣いてひどい顔になったのは自分のせいだと納得しかけていた叡正はハッとして自分の思考を止める。
(やばい……頭がおかしい……。誰がこの顔にしたかというのが問題じゃない……)
 叡正はここ数日眠れていなかったことに加え、泣いて最後の力を使い果たし、頭が回らなくなってきていた。

「すっきりしたか?」
 咲耶は叡正の横を通り過ぎて、窓辺に腰かけて叡正を見た。
「……ぼんやりしてる」
 叡正は正直に答えた。
 咲耶が軽く笑う。
「おまえは考え過ぎだから、ぼんやりしてるくらいがいいよ」
 咲耶はそう言うと窓の外を見た。
「淀んでいるものをすべて吐き出して、一度空っぽになった方がいい」

 叡正は窓辺の咲耶を見た。
 日の光に照らされた咲耶は天女のように美しかった。
「……ありがとう」
 叡正が小さく口を開く。
 咲耶が振り返った。
「全部……。おかげで亡くなる前に妹に会えた……。最後の言葉も聞けてなかったら……きっと妹に恨まれていると……ずっと思っていたと思う……。本当にありがとう」
 叡正は深々と頭を下げた。

 咲耶はゆっくりと立ち上がると、叡正の前に腰を下ろし顔を近づける。
 叡正は気配を感じて顔を上げた。
 咲耶はニヤニヤしながら口を開く。
「私に惚れたのか?」
 叡正の顔にサッと赤みが差す。
『俺に惚れたのか?』
 そう真顔で言った自分の姿を思い出し、叡正は両手で顔を覆った。
「もう勘弁してください……」
 叡正の消え入りそうな声を聞いて、咲耶はおかしそうに笑った。

「三日後の昼、またここに来い。連れていってやる」
 叡正は顔を上げる。
「……どこにだ?」
 咲耶は質問には答えずに優しく微笑んだ。
「ただし、法衣で来いよ」
 咲耶はそれだけ言うと立ち上がり、叡正の横を通り過ぎて襖に向かう。
「法衣……?」
 叡正は去っていく咲耶の方を向いた。

「叡正」
 咲耶は襖を開けると叡正の方を振り返って呼びかけた。
「ちゃんと生きろよ。妹の願いだろ?」
 咲耶はそう言って微笑むと、部屋から出ていく。
 叡正は初めて咲耶に名を呼ばれたことに驚いていた。
 そして、聞きなれたはずのその名が、なぜか今日は耳に心地良く響いて、叡正は閉まった襖をいつまでも見つめていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 三日後、叡正は言われたとおりに玉屋に来ていた。
(今日は何かあるのか……?)
 玉屋の入り口に人が集まっていた。
 遠巻きに見守る観衆とは別に見世の前には数人の男衆と客と思われる男がいた。
 精悍な顔立ちに、ひと目で上等とわかる着物を纏った男はかなり身分の高い人間なのだろう。立ち居振る舞いにも品があった。
 そんな見世の様子を観衆とともに遠巻きに見ていた叡正は、見世の奥から咲耶が出てくるのを見た。
 咲耶は客の男に笑顔を向ける。
(待ち合わせだったのか……?)
 それならなぜ自分は呼ばれたのかと、叡正は首をひねった。
 すると、咲耶の視線が叡正に向けられる。
 咲耶は笑顔で叡正を手招きした。
 観衆にどよめきが広がる。
 観衆の目が一気に自分に向いたのに気づき、叡正は慌てて咲耶に近づいた。

「来たか」
 咲耶は満足そうに笑う。
 客と思われる男は叡正をまじまじと見つめ、咲耶に問いかけた。
「兄か?」
 咲耶は微笑む。
「はい、兄です」
 叡正は訳がわからず、眉をひそめて二人を交互に見た。
「色男だな」
「ふふ、頼一様の方がよっぽど色男です」
 咲耶はそう言うと頼一の腕をとった。
「では、まいりましょう」

 咲耶はそう言うと、頼一と後ろに控えている男衆が皆、歩き始めた。
 叡正も訳がわからないまま後ろに続く。
 道中でもないのに、観衆もその後ろについてきていた。
(どこに行くんだ……?)
 やがて咲耶は頼一とともに大門を出た。
「……吉原を出ていいのか……?」
 叡正は驚きのあまり声に出して呟いた。
 叡正の前を歩いていた男衆が、その声に気づき振り返る。
「なんだおまえ、何も知らないのか? 花見のときは客と一緒なら遊女も外に出られるんだよ」
「花見?」
 叡正は今日が花見だということも知らなかった。
 咲耶と頼一は吉原を出て、どんどん前に進んでいく。
 最初の頃は後ろについてきていた観衆も、進むにつれてしだいに数が減り、ついには誰もいなくなった。
 吉原を出てかなりの距離を歩いていた。
(一体どこまで行くんだ……)
 桜で有名な隅田川提はこちらの方角ではないと叡正でも知っていた。
 さらに進むと徐々に、叡正に見覚えのある景色が増えてくる。
(この方角は……。いや、そんなまさか……)
 叡正はとまどいながら進んだ。

 しばらくして咲耶と頼一が歩みを止める。
 叡正もゆっくりと咲耶と頼一のいる場所まで近づいた。
 叡正は目を見開く。
 そこは叡正が幼いときに過ごした屋敷の跡地だった。
 屋敷は火事ですべて焼けてしまったため、草木が生い茂り何もない野原となっていたが、庭にあった桜の木だけは当時と変わらず、辺りを花びらで桜色に染めていた。
「どうして……」
 叡正は呆然と立ち尽くす。
「花見だ」
 咲耶は叡正にそう言うと、屋敷の跡地に足を踏み入れた。
「あ……入っていいのか?」
 叡正が思わず、咲耶に声をかけた。

「大丈夫だ」
 咲耶の代わりに頼一が叡正に答えた。
「許可はとってある」
(この男は何者なんだ……?)
 叡正は静かに頼一を見つめた。

「さぁ、始めよう」
 桜の木まで歩いていった咲耶が振り返ってそう言うと、男衆たちも咲耶に続いて桜のそばまで歩いていき少し離れたところに敷物を敷いた。
 敷物のうえには料理や酒が並べられ、宴の準備でもしているようだった。
 叡正もゆっくりと桜のそばまで歩みを進める。
 屋敷の面影はどこにもなかったが、桜だけは当時と何も変わっていなかった。
 頼一は敷物に腰を下ろし、男衆の酌で酒を飲み始める。

 咲耶と叡正だけが桜のすぐそばにいた。
「おまえの妹、ここに埋葬したんだ」
 叡正は目を見開いた。
「ここに……?」
 よく見ると桜の根元に掘り返したような跡があった。
 叡正は桜を見上げながら昔のことを思い出していた。
 桜が咲くたびに庭に出てはしゃいでいた鈴の姿を思い出し、叡正は少し微笑んだ。
「そうか……。わざわざ…、本当にありがとう……。いろいろ調べてくれたんだな……。でも、妹が桜を好きなことまでよくわかったな」
 叡正は咲耶の方を見て言った。
「ああ……。いや、桜の木の下に埋葬したのは、私がそう弔いたかっただけだ」
 咲耶は桜を見上げて言った。
 叡正は不思議そうに咲耶を見る。
 咲耶は叡正の視線に気づき、微笑んだ。
「玉屋の遊女が病気で亡くなったとき、いつも桜の木の下に埋葬してもらうんだ」
「……どうしてだ?」
「私たちは花見のときしか吉原の外に出られないからな。寺なんかに埋葬されたら、もう会いに行けないだろう?」
 咲耶は桜を見ながら、悲しげに言った。
「遊女はもともと身寄りがないものも多いし、寺に墓があっても誰も会いに来ることはない。死んでまでひとりなんて寂しすぎるだろう?」
 叡正はただ静かに咲耶を見ていた。
 舞い散る桜の花びらの中で、咲耶はまるで桜の精のようだった。
「桜の木なら、春になればみんなが会いに来て愛でていく。眠っている彼女たちのことを想う人がいなくなったとしても、ずっとその先もたくさんの人に愛され続けるんだ」
(桜が墓標なのか……)
 叡正は静かにそう思った。
「まぁ、いつもは桜の名所に埋めるんだが、今回は(ゆかり)の地があったしな」
 咲耶はそう言うと叡正を見た。
 叡正は、ふと千本桜と謳われる桜の名所に大量の遺体が埋まっている光景を想像し少し顔色を悪くした。
 咲耶はじとりとした目で叡正を見る。
「おまえは、考えてることがすぐ顔に出るな」
 咲耶はあきれたように言った。
「す、すまない……」
「ほら、なんのために法衣で来たんだ! さっさと経でも読め」
 咲耶はそう言うと、頼一の方に歩いていった。

「経でも読めって……出し物なのか……?」
 叡正はそう呟くと、桜の木の下に腰を下ろした。
 叡正は法衣は着てきていたが、意図がわからなかったため、ほかには何も持ってきていなかった。
(まぁ、気持ちが大事だよな……)
 叡正は目を閉じると、経を読み始めた。
(鈴……、これから桜が咲く頃、毎年会いに来るから。……毎年胸を張って会いに来られるよう、俺もちゃんと生きるよ)
 そのとき、強い風が吹いて桜の木が揺れた。
 叡正の髪や頬を花びらがそっとなでる。
 叡正の経が響く中、花びらはずっと叡正の上に降り注ぎ続けていた。