「……もうすべて終わったのでしょう……?」
 不安げな表情をした女がこちらを見ていた。
(ああ……(さと)が目の前に……。では、これは夢なのか……)

「怖いのです……。橋本様があのようなことになって……。もう……あの方々に関わるのはやめた方がいいのではありませんか……?」
「しかし、それでは……」
 男の意思とは関係なく、男は記憶にある通りの言葉を口にしていた。

「私は茜が幸せに暮らせるのなら、それで良いのです……。跡継ぎの男児を生めなかったのは私の責任ですし……。私のことはお気になさらず、跡継ぎを生める方をこの家に迎えてください。それですべて解決するのですから……」
 女はそう言うと、そっと目を伏せた。

(やめてくれ……。もう……すべて手遅れなんだ……)

 男は耳を塞ごうとしたが、体は男の意思と関係なく動いていく。
 男は、女の両肩に手を置くと女を見つめた。
「何を言っているんだ……。もう少し……もう少しなんだよ……」
「しかし……」
 女の涙で濡れた目がこちらに向けられた瞬間、バタバタと廊下を走る音が辺りに響いた。

「旦那様……!!」
 突然、部屋の襖が開け放たれた。
「突然申し訳ございません! あ、茜様が……どこにもいらっしゃいません……。……門番に聞いたところ……どうやら笠本の家に行ったようで……」
 奉公人は、真っ青な顔でこちらを見ていた。

「なんだと!?」
 男は思わず立ち上がった。
 今日は、笠本家の小屋に火を点けるよう命じていた日だった。
 火を点けるため、すでに別の奉公人が笠本家に侵入していると、男は報告を受けていた。

「茜を外に出すなと言ってあっただろう!! おまえたちは……一体何をしていたんだ!?」
 男の声は自然と大きくなっていた。

「も、申し訳ございません……!!」
 奉公人はその場で膝をつき、畳に額を擦りつけた。
「本当に……申し訳…………」
 奉公人の肩はわずかに震えていた。

(もうやめてくれ……。もう……見たくない……)

 男がどんなに目を閉じようとしても、夢の中の男が目を閉じることはなかった。
 男は障子に視線を向ける。
 障子を通して明るい日が差し込んでいた。
 男が小屋に火を点けるように指示したのはちょうどこれくらいの時刻だった。

 男の顔から血の気が引いていく。
 茜と佑助が笠本家の小屋で一緒に遊んでいたことを、男はよく知っていた。

「あ、あなた……?」
 驚いた様子でやりとりを聞いていた女は、座ったまま男を見上げていた。
「どうしたのですか……? 笠本の家に……何かあるのですか……?」
 男のただならぬ様子に気づいたのか、女の目がしだいに見開かれていく。
「もしや……何か…………したのですか……?」

 男は女の視線に耐えきれず、目をそらすとすぐに歩き出した。
「笠本家に向かう……」
 男はそれだけ絞り出すように言うと、女を残して部屋を出た。

(もうやめてくれ……!)
 男の想いとは裏腹に、男は記憶をなぞるように笠本家に向かって進んでいく。
 男の耳には、自分の鼓動と息づかいだけが響いていた。
 目を閉じることも、耳を塞ぐこともできず、男はただあの日の出来事を繰り返していた。

 気がつくと、笠本家の前にいた。
 笠本家の敷地から立ち上る黒々とした煙が、すでに手遅れであると告げていた。
(……夢の中だけでも……どうか……誰か……茜を救ってくれ……!)
 戸惑う門番を無視して、男は門をくぐった。

 少し進むと、炎に包まれた小屋とそれを見つめる笠本家の人々が見えた。
「そんな……! 茜……、茜が……中にいるのに……!」
 笠本の息子が、小屋を見ながら叫んでいた。
 その言葉が耳に入った瞬間、男は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
 指先は凍えるように冷たくなったが、顔は高熱が出たときのように熱く、頭はぼんやりとした。
 鼓動と息づかいが、うるさいほどに大きく耳に響く。
 炎は小屋を完全に飲み込んでいた。
 崩れ落ちていないだけで、小屋の中に茜がいるとすればもう助からないことはひと目でわかった。

 男は足早に小屋に向かうと、奉公人を探した。
 小屋に火を点けた奉公人は、まだ近くに隠れていると男は知っていた。
(頼む……! 茜は逃がしたと……逃がした後に火を点けたから大丈夫だと言ってくれ……!)
 男はあの日と同じように祈った。

 男は隠れていた奉公人を引きずり出し、茜の安否を確認しようとした。
 しかし、聞く前に男はすべてを悟った。
 真っ青な顔で怯える奉公人の姿を見れば、茜を逃がしていないことは明らかだった。
 目の前が一瞬にして真っ暗になった。

「これは、違うんです……! 私は旦那様のご言いつけの通りに! これは……」
 奉公人が言い終わる前に、男は腹の底から込み上げるままに叫び、刀を抜いた。
 何も聞きたくなかった。
 振りかざした刀が奉公人を斬り裂く。
 飛び散る血の向こうで、奉公人はまだ何か言おうとしていると男は感じた。
 何度も何度も斬りつけたが、奉公人は茜の死を告げようとしているように見えた。
(もうやめてくれ……! もう何も見たくない! 聞きたくない……!!)
 男は、奉公人がもう何も言えないように、その首をありったけの力を込めて斬り落とした。

 転がった奉公人の首は、炎に包まれた小屋の前に転がり、男を嘲笑った。
「もう手遅れだ」
 男はそう言われた気がした。

 そのとき、悲痛な叫びが辺りに響く。
「あぁああああああああ」
(里…………)
 屋敷に残してきたはずの女が、髪を振り乱しながら小屋に駆け寄っていた。
「茜!! そこにいるの!? ……茜!!」
 燃え盛る小屋に向かっていく女を、笠本の奉公人が止めた。
「茜!! 嫌よ……こんなの……茜!! 茜!! 離して!! 茜を助けないと……!!」
 女の金切り声が辺りに響く。

(もう本当に……やめてくれ……)
 男は茫然と女を見つめることしかできなかった。

 ふいに、女が男を振り返った。
 今までに見たことのない女の鋭い眼差しに、男は思わずたじろいだ。
 女は懐から何か取り出すと、忌々しげに奥歯を噛みしめた。
「……あなたのせいで……!」
 憎しみに満ちた視線が男に突き刺さる。
(何もかも……手遅れだった……。私は自分の手ですべて壊したんだ……)

 女が握りしめた短刀の刃先を見ながら、男はあの日と同じ地獄の中にいた。