咲耶が大門まで頼一を見送り、玉屋に戻ると見世の中がざわついていた。
「花魁!」
 緑が見世に戻ってきた咲耶に駆け寄る。
「聞きましたか? 菊乃屋の楼主が……亡くなったそうです」
 咲耶は静かに目を伏せる。
「そうか……」
「自殺みたいです……。お歯黒どぶに浮かんでいるところを見つかったようで……」
 緑は顔をうつむいた。
「これから菊乃屋はどうなるんでしょうか? 見世の遊女もたくさんいるのに……」
(緑は優しいな)
 咲耶は少し微笑むと、緑の頭をそっとなでた。
「大丈夫だ。新しい楼主を迎えて、またすぐ再開されるさ」
「そう……なんでしょうか?」
「ああ。楼主が変わって遊女たちの環境も良くなるといいんだが……」
「玉屋みたいになるといいですね!」
 緑が無邪気に笑う。
 咲耶も緑を見て微笑んだ。
「そうだな」

 咲耶と緑が玉屋の戸口で話していると、にわかに周囲が騒がしくなった。
 咲耶がざわめきに気づき振り返ると、玉屋の入り口に叡正が立っていた。
 叡正は咲耶と目が合うと、慌てたように目が泳ぎ出す。
「こんな時間にすまない……。昨日礼も言わず出ていってしまったから、礼だけ言えればと思って……。すまない……出直す……」
 叡正は早口でそう言うと踵を返して去っていこうとした。
「おい」
 咲耶は叡正を呼び止める。
「茶でも飲んでいくか?」
 叡正が恐る恐るといった様子で振り返った。
 叡正の顔色は悪く、昨日から寝ていないのがわかる。
 咲耶は軽くため息をついてから、優しく微笑んで叡正を手招きで呼んだ。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 叡正は咲耶に促されるまま部屋に入った。
「少し待っていろ」
 咲耶はそれだけ言うと部屋を出ていった。

(常識外れの時間に来てしまった……)
 叡正はすでに後悔していた。
 鈴が亡くなってから叡正は茫然と夜を明かし、信が明け方に埋葬すると鈴を連れていくまで、叡正はずっと動けずにいた。
 ふと咲耶に礼も言っていないことに気づき、医者に礼を言ってからふらふらと吉原まで来たが、こんな時間に訪ねるなど迷惑以外の何ものでもないと咲耶の姿を見るまでまったく気づかなかった。
(どうかしている……)
 叡正は両手で顔を覆った。
 
 襖が開く音がして、怒られる前に咲耶に謝ろうと叡正が顔をあげると、咲耶は叡正の前に何か置いた。
 叡正が視線を向けると、そこには鈴の絵柄が彫られた飴色の(くし)があった。
(これは……)
「妹の形見だ」
 咲耶は叡正に向かって言った。
 この櫛は昔、叡正が鈴に贈ったものだった。
「これを……どこで……?」
「妹と同じ見世の美津という遊女から預かった。鈴がずっと大切にしていた櫛だそうだ。兄と会うなら渡してほしいと頼まれた」
(まだ持っていたのか……)
 叡正はそっと櫛を手に取る。
 贈ったときには薄い色だった櫛が、今はしっかりとした飴色に変わっていた。
 鈴がどれだけ大切に使っていたかが叡正にはわかった。

 咲耶が叡正の顔をのぞき込む。
「泣く資格がないと思っているのか?」

 叡正は何も言えず、ただ咲耶を見つめ返した。
 咲耶はため息をつく。
「そんなに堅苦しい頭で、生きづらくないのか? おまえが笑ったり泣いたりすることで、誰がおまえのことを責める? みんな過去を抱えて生きてはいるが、おまえは囚われすぎだ。おまえ出家したんだろう?」
 叡正は目を伏せると困ったように微笑んだ。

 咲耶はもう一度ため息をついた。
「緑に茶を持ってこさせるから、ゆっくりしていけ。私は寝る。何かあれば緑を呼べ」
 咲耶はそう言うと立ち上がり、部屋から出ていった。
 
 叡正は櫛を見つめる。
「鈴、ごめん……」

 叡正がそう呟くと同時に襖が開く。
 緑がお茶とお茶請けの菓子を持って入ってきた。
「朝早くに本当にすまない……」
 叡正は緑に深々と頭を下げた。
「私は大丈夫ですよ。それに……叡正様、本当に顔色が悪いのでちょっと休んでから帰った方がいいと私も思ってましたし……」
 緑は心配そうに叡正を見る。
 叡正は苦笑した。
(この子にも心配をかけるなんて……)
 緑は一礼をすると部屋を出ていった。

(二人はああ言ってくれたが、迷惑にならないように早くいただいて帰らないと……)
 叡正は粉のまぶされた菓子を口に入れると一気にかみ砕いた。

「!??」
 その瞬間、舌と喉に強い痛みを感じて叡正は派手にむせた。
 慌ててお茶を一気に流し込むと、お茶の熱さでまた一層咳き込む。
 口の中も喉も熱くて痛かった。舌は少ししびれはじめてもいる。
(毒か!??)
 叡正がずっと咳き込んでいると、異変に気づいた緑が慌てて部屋に駆け込んできた。
「大丈夫ですか!?」
 緑は叡正の背中をさする。
 叡正は礼を言いたかったが、咳が止まらなかった。
「今、お茶お持ちしますから!」
 緑は慌ててお茶を入れに部屋を出ていく。
(これは一体……)
 叡正は咳き込みながら、残っているお茶請けを手に取る。
 手に取って軽くすり潰し、少しだけ舐める。
(これは七味唐辛子……? しかもそれだけを固めているのか……?)
 緑がお茶を持って戻ってきた。
「あり……がとう……」
 叡正はなんとかお礼を言うと、お茶を一気に飲み干した。
「大丈夫ですか……?」
 緑は心配そうに叡正を見た。
「ああ……。今、江戸ではこういう菓子が流行っているのか……?」
「いいえ!」
 緑は慌てて首を振った。
「これは花魁に送られてきた嫌がらせの菓子です」
「は!?」
 叡正は目を見開いた。
「あ、いえ、叡正様は辛いものがお好きだから、叡正様なら気に入るだろうと、花魁が……。お茶もグツグツ煮えたぎったお茶がお好きだから出すようにと……。違いましたか……?」
 緑は上目づかいで叡正を見た。
 叡正は言葉を失う。
(俺はどこまで嫌われているんだ……)
 迷惑な時間に訪れたこともあり、叡正は何も言えなかった。

「やはりよほど辛かったんですね……」
 緑は懐から布を取り出した。
「叡正様、どうぞ。涙、拭いてください」
 叡正は目を見開いた。
 そっと頬に触れると、頬は涙で濡れていた。
 ずっと気を張っていただけに、一度溢れると涙はとめどなく流れる。

 胸の奥から何かがこみ上げてきた。
「叡正様……?」
「いや……、辛いが……クセになる味だから…。もう少し味わっていてもいいだろうか?」
「え、はい。大丈夫ですけど……」
 緑は不思議そうな顔で叡正を見た。
「では……お茶がほしくなったら、おっしゃってくださいね……」
 緑はそれだけ言うと布を叡正の横に置き、部屋から出ていった。

 ひとりになった部屋で、叡正の視界に櫛が映る。

『櫛を女性に贈るのは、苦・死にかけて、一生苦労も死も一緒にって求婚の意味なんだよ! それを妹に贈るなんて』
 幼い鈴は叡正が贈った櫛を見ながら、呆れたようにため息をついた。
『そんなの知るか』
 永世は面倒くさそうに言った。
 誕生日のお祝いに鈴の絵柄の櫛を見つけたから贈っただけで、幼い永世にそんな知識はなかった。
 鈴はそんな永世の様子に微笑む。
『しょうがない。可愛い妹が一生一緒にいてあげる!』
 呆れた顔の叡正を見て、鈴はまたおかしそうに笑った。

 叡正の目から涙が溢れる。
 胸が、喉が痛かった。
 叡正の口から嗚咽が漏れる。
 叡正はお茶請けの菓子をひとつ手に取り、口に入れた。
「はぁ……。辛ぇな……」
 叡正は手で目元を覆い、奥歯を嚙みしめていた。