「なぁ、咲耶、頼むよ~」
 遣り手婆(やりてばば)は咲耶を前に拝むように頭を下げた。
「ひと目、旦那を見てくれるだけでいいからさぁ」
 遣り手婆はすがるように咲耶を見上げる。

 咲耶はめんどくさそうに横目で遣り手婆を見た。
「遣り手婆の見立てで進めればいいんじゃない? 私が見る必要あるの?」
「ある! なんだか確信が持てないんだよ……。人は良さそうなんだけど、金の使い方がねぇ……。今回で三回目なんだけど、ツケが払えなくてとんずらでもされたら、たまんないからさぁ。咲耶ぁ、育ての親を助けると思って! ね?」

 咲耶は息を吐く。
「わかったよ……」
「ありがとう! 咲耶ぁ!」
 遣り手婆はそうと決まればと咲耶の手を引いた。
「そろそろ旦那が引手茶屋から見世に着く頃だから! 柱の陰からでもちょっと見ておくれ!」
 咲耶が遣り手婆に手を引かれ部屋の外に出ると、ちょうど旦那と呼ばれた男が見世に入ってくるところだった。
 目当ての遊女とともにいるからか、酒に酔っているのかその顔はすでに赤く染まっていた。

 まだ見世に出る準備を整えていない咲耶は長襦袢姿で化粧も施していないため、遠目には目立つ装いではなかったが、念のため柱の陰から男を見る。
「どうだい、咲耶」
 遣り手婆が急かすように咲耶の長襦袢の袖を引く。
「ああ……、悪くない」
「そうかい?」
 遣り手婆の目が輝く。
「確かにいろいろ舞い上がってはいるようだし、金回りが良くなったのが最近なんだろうね……金の使い方はわかってなさそうだけど、あれだけ舞い上がってても周りのことはよく見えてるみたいだ」
 顔の赤い男は、ペコペコと頭を下げながらも目は冷静に見世を観察しているようだった。
「商売の才能はありそうだし、無理させ過ぎないで吉原での賢い金の使い方でも教えてやれば信用して太い客になるんじゃない?」
 遣り手婆は一層目を輝かせた。
「恩に着るよ! 咲耶!」
 遣り手婆はそう言って咲耶の背中をバンと叩くと、軽い足取りで去っていった。

 咲耶は去っていく遣り手婆の後ろ姿を見ながら、長いため息を漏らした。
 部屋に戻ろうと身をひるがえしたそのとき、一人の男が視界に入った。
(あれは……)

「花魁、どうされました?」
 長襦袢姿で部屋から出ている咲耶を見て、緑が声をかけた。
 咲耶の視線の先には一人の男がいる。
「あれは?」
 緑は咲耶の視線の先の男を見て声をあげた。
「わぁ、男前ですね! 歌舞伎役者か何かでしょうか?」
 男は胸元まである長く真っすぐな髪で前髪をかき上げながら遊女と笑いあっていた。
 目力のある切れ長の瞳に、鼻筋の通った高い鼻、目鼻立ちが華やかで着崩した着物からは色気が漂っている。
 その佇まいは、まるで歌舞伎役者のようだった。
 男は一人の遊女の手を取っていたが、見世の中にいた遊女すべてに声をかけているようだった。
 遊女たちがうっとりとその男を見つめる中、男だけは楽しそうな笑顔を浮かべながらもひどく冷めた目をしていた。

(こっちの方がよっぽど問題だろ……)
 咲耶は深くため息をついた。
「緑、あそこにいる男、私の部屋に連れてきてくれる?」
「え!? 引手茶屋も通してないですし、初会ですよね? いいんですか? それにこの後、花魁のお客も来ますよ?」
 緑は驚いて咲耶を見つめる。
「すぐ終わる。まぁ、間夫(まぶ)ってことにしておいて」
 咲耶はそれだけ言うと身をひるがえして部屋に戻っていった。

「まぶ……って」
 一人残された緑は悲しげにそっと呟いた。
「まぶってなんですか……?」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 咲耶に言われたとおり、緑は歌舞伎役者のような男を呼びに向かう。
 男の手を引いていた遊女に会釈をしてから、緑は男に声をかけた。
「咲耶太夫があなたをお呼びです」
「え!?」
 男の手を引いていた遊女が驚きで声をあげた。
「咲耶太夫が? ……どうして?」
 男も目を見開いて驚いているようだった。
 緑は咲耶に言われたとおりに伝える。
「咲耶太夫の……まぶだそうです」


「!??」


 見世中の遊女たちがどよめいた。
 だが、間夫だと言われた男が一番驚いていた。

「私と一緒に来てください。咲耶太夫のお部屋にご案内します」
「あ、ああ……」
 驚いていた男は我に返ったようで、少し思案しているような表情を見せた後、歌舞伎役者のような華やかな笑顔で頷いた。
「よろしく頼む」

 緑は咲耶の部屋の前まで案内すると、襖ごしに咲耶に声をかけた。
「花魁、お連れしました」
「ああ」
 咲耶の返事を待ってから緑は襖を開ける。

 咲耶は座敷に座り、じっと男を見つめた。
「おまえ、誰を探している?」

「な!?」
 男は突然の質問にたじろぎながらも、緑に促されて部屋に入ると、咲耶と向かい合う形で腰を下ろした。
「……何を言って……」
「恋人か? 姉か? 妹か?」
 畳みかけるように質問を重ねた咲耶は、じっと男を見ていた。
「ああ、妹なのか…」
 咲耶は納得したように目を伏せた。
「!!? ……さっきから何を言っている……」
 男は絞り出すように口にした。
「遊郭に売られたのは確かなのか? 探したい気持ちはわかるが、さすがに僧侶がこんなところに堂々と出入りするのはまずいだろう」
「!!???」
 驚きで声も出ない様子の男のそばで、緑も驚いていた。
「花魁、すみません…。こちらの方はお坊さんなんですか?」
 緑がおずおずと聞いた。
「ああ、匂いや所作からすると僧侶だろう。ただ…」
 咲耶は緑を見た後、横目で男を見つめる。
「もともとは武家の出だろうな……」
「な!?」
 男が弾かれたように声をあげてうつむく。
「……どうして知っている?」
 男はひどく低い声で呟いた。
「知っているわけではないが……おまえの体つきは間違いなく純粋な僧侶ではない。近いところでいえば武士だ。それに、立ち振る舞いや所作はかなり僧侶らしくなっているが、ところどころに武道の所作が出ている。おまえ、出家したんだろう?」
 男はうつむいたまま答えなかった。

「まぁ、いい。妹を探してるんだろう? ……探してやろうか?」
 咲耶の言葉に男が勢いよく顔をあげた。
「……どうして」
「見つけるまで諦めるつもりはないんだろう? 吉原の中なら私の方がよく知ってる。おまえが探すよりは効率がいいんだ。ただ……」
 咲耶は少し目を伏せてから言葉を続けた。
「あまり……期待はしないでくれ」
「……ああ! もともと見つけられる可能性は低いとわかっている! それでも吉原の中から探してもらえるのは本当に有難い! 恩に着る!」
 男は先ほどとは打って変わり、瞳を輝かせて咲耶を見た。
「でも、どうしてそこまでしてくれるんだ?」

「ああ、それは……」
 咲耶が答えるより先に男が続ける。
「俺に惚れたのか?」
 男の顔は真剣だった。


「…………」


 緑は部屋の空気が一気に冷えていくのを感じた。
(これは……まずいんじゃ……)
 緑は恐る恐る咲耶の方を向く。

 咲耶は神々しいほどの笑みを浮かべながら男を見ていた。
 咲耶は微笑んでいるのに、緑は一層背筋が冷えていくのを感じた。

「おまえは、一回死んだ方がいい」
 咲耶の表情からは想像もつかない低い声が響き、部屋は重苦しい沈黙に包まれた。