経を上げ終えた叡正は、信とともに奉公人に屋敷の中へと案内された。
 佑助の父親は、経を聞き終えると自分の部屋へと戻っていった。

「旦那様は悪くないのです……。あの場にいた屋敷の者たち全員が、突然のことで思うように動けませんでしたから……」
 屋敷の部屋に通された二人は、奉公人が持ってきたお茶に口をつけた。
「その場に、あなたもいたのですか?」
 叡正は手に持っていた湯飲みを置くと、奉公人に聞いた。
「はい……」
 奉公人は畳に膝をついたまま、静かに視線を落とした。
「何が起こったのか、いまだにまだよく理解できていません……。あの日、突然の来客があり、屋敷の奉公人は総出でその準備をしていました。小屋はあのように離れた場所にあるため、あの日誰も小屋のそばにいませんでした。茜様がときどきこっそり屋敷に遊びに来ていたことを知っていた奉公人もいましたが、あの日茜様が来ていたことは誰も知りませんでした……」
「こっそり……遊びに来ていたのですか……?」
 叡正は、茜が隠れて野田家を訪れる意味がわからず、奉公人を見た。

「はい……。もともと野田家と笠本家は親しくしておりましたし、野田様も茜様を連れて、よくこの屋敷に遊びに来ていました。だから、お二人も仲良くなったのですが……あるときから野田様のよくない噂を耳にするようになり、旦那様が距離を置くようになったのです……」
「よくない噂……ですか」
「はい。あまり評判の良くない者が野田家の屋敷に出入りしている、と……。私はそれくらいしか知りませんが……。野田様も、茜様がこの屋敷に行くことを禁じたと聞いています。……しかし、仲の良いお二人でしたから、茜様がこっそりこの屋敷にいらっしゃり、屋敷の奉公人も微笑ましくそのご様子を見ていました」
「そうだったのですね……」
 叡正は、静かに息を吐いた。
(そんな中で火事が起こったということか……)

「あの日、最初はお二人で小屋にいたようですが、何かを取りに来られたのか佑助様が屋敷に戻られ、たまたま佑助様を見つけた旦那様がお客様の相手をするように言いつけました。茜様がいらっしゃっていることを旦那様に言うわけにはいきませんから……、佑助様もしぶしぶお引き受けになり、お客様と話しているあいだに火が……」
 奉公人はゆっくりと目を閉じた。
「小屋の異変に気づいたときにはもう……小屋は完全に火に包まれていました」

 重苦しい沈黙が部屋を包んだ。

「火に包まれた小屋を見て、佑助様が飛び出していかれて……茜様が中にいるとおっしゃって、それで初めて茜様が来ていたのだと皆が知りました……。それなのに……なぜか次の瞬間、どこで話を聞かれたのか……野田様が……ひどい形相で小屋の方へ走ってこられました……」
「え……、それはどういう……」
 叡正は困惑して、奉公人を見た。
 本当に火を点けるよう命じたのが茜の父親なら、その場にいるのはあまり得策とは思えなかった。

(そもそも笠本家で隠れていたなら、茜が来ていることもわかっただろうしな……)
 叡正は首を傾げる。
「奉公人の誰かが、実は茜が来ていることを知っていて、野田様を呼びに行った……ということでしょうか?」

「ええ……、普通に考えればそうなのですが……。とにかくその場は皆が混乱していて、何もわからないのです……。後日聞いたときには奉公人は、誰も茜様が来ていることを知らなかったと言っていましたし……、野田様を呼びに行ったという者もいませんでした……」
「そう……なのですね……」
 叡正はそう言うと、目を伏せた。

「いらっしゃった野田様は、呼び止める奉公人の声も聞こえていないご様子でした……。そして、淡々と辺りを見渡し、茂みに隠れていた見知らぬ男を皆の前に引きずり出したのです」
「それが放火の犯人だったのですか……?」
「ええ……、おそらく……」
 奉公人はゆっくりと頷いた。
「その男は野田様に縋りついて言っていました。『これは、違うんです……! 私は旦那様のご言いつけの通りに!』と……。野田様は、何か言葉にならない声を上げられて……刀を抜き……男を斬りつけました。それはもう……無残に……何度も何度も……」
 奉公人はそのときの光景を思い出したのか、強く目を閉じ、体を振るわせた。
「最後には男の首を斬り落とし……その男の首が……小屋の前に転がっていきました……」

 叡正は言葉を失った。
 佑助がそのとき見た光景は、佑助が描く地獄絵以上に凄惨なものだったことは、簡単に想像できた。

「あまりに突然のことで……誰も動くことができませんでした……。旦那様だけが『この火事はおまえがやったのか……?』と野田様に近づいていきましたが、野田様は茫然としていて……何もお答えにはなりませんでした……。そうしているうちに野田家の奥様もいらっしゃって……泣き叫びながら小屋の中に飛び込もうとしました……。奉公人たちはなんとかそれは止めたのですが……」
 奉公人はそこで少し言い淀んだ。
「暴れる奥様が突然懐刀を取り出して……腕を抑えていた奉公人を斬りつけた後……野田様に斬りかかったのです……」
「え……!?」
 叡正は、もはや何がどうなっているのかまったくわからなかった。
 奉公人は少しだけ顔を上げると、叡正を見て首を横に振った。
「私にも……どういうことなのかわかりません……。何度も申しますが……とにかく皆、訳がわからない状態でした。野田様のそばにいた旦那様が咄嗟に奥様の手首を掴んで止めたのですが……。奥様は錯乱されているご様子で……。『あなたのせいで……!』と暴れ続けていました……」

(一体どうしてそんなことに……)
 叡正は呆然と奉公人を見ていた。

「いまだにわからないことだらけです……」
 奉公人は小さく息を吐いた。
「あのことがきっかけで、佑助様は屋敷を出ていきました……。佑助様はずっと茜様を助けてほしいと、私たちや旦那様に訴え続けていましたから……。佑助様はあのときすぐに消火に動いていれば、茜様は助かったかもしれないと思っているのかもしれません……。火事に気づいた段階で、すでに手遅れではあったのですが……。もちろん消火に動いた者もいました。ただ、野田様とその奥様のこともありましたから、旦那様を守ることを優先せざるを得なかったというのはあります……」

 話を聞き終えた叡正は、静かに視線を落とした。
(そんなことが起こっていたなんて……)
 叡正が出家した後の出来事は、叡正の耳にはほとんど入っていなかった。
 耳に入ったとしてもできることは何もなかったが、叡正は何も知らなかったことを申し訳なく感じた。

「ああ、長々とお話ししてしまってすみません! こちらにご案内したのは、佑助様にお渡ししてほしいものがあるからなのです。少々お待ちいただけますか?」
 奉公人はそう言うと立ち上がり、足早に部屋を出ていった。

 叡正は隣に座っていた信を見る。
 あまりにも静かだったので叡正は眠っているのかと思っていたが、信は目を開けたままただ一点を見つめていた。
「どういうことなんだろうな……」
 叡正の言葉に、信はチラリと叡正を見たがすぐに視線を戻した。
「わからない」
 信は叡正の予想通りの返事をした。
「だよな……」

 そうしているうちに、奉公人が部屋に戻ってきた。
「お待たせいたしました。こちらです」
 叡正は、奉公人が手に持っていたものを見て、目を見開いた。
「これは……」
 奉公人は悲しげな笑みを浮かべる。
「旦那様は、佑助様にあの出来事を早く忘れてほしくて渡せずにいたのです……。ただ、渡した方がいいのだろうと、先ほど旦那様が……」
「そう……ですか……」
 叡正はそう言うと、奉公人が差し出したものを慎重に受け取った。
「必ず渡します」
 叡正は奉公人の目を真っすぐに見ると、強く頷いた。