「おい、本当に押しかける気か……?」
 叡正は、前を歩く信に声を掛けた。
「ああ」
 信は前を向いたまま答えた。
「ああって……、押しかけたところでたぶん会わせてもらえないぞ?」

 佑助の長屋を訪れてから三日が経っていた。
 茜が住んでいた屋敷に、信が押しかける気だと弥吉から聞き、叡正は慌てて長屋を訪ねた。
 出かけようとしていた信を呼び止め、ときどき声を掛けながら、叡正はずっと信の後をついて歩いていた。

「野田家が今どうなっているかは知らないが、知らない人間を屋敷に上げるような家じゃないはずだ」
 叡正が野田家を訪ねたことはなかったが、野田家の当主はどちらかといえば保守的で頭が堅いことで有名だった。
 慎重で警戒心が強い人物として知られていたため、知らない人間をむやみに屋敷に上げるとは思えなかった。

 信は何も応えず、ただ前を向いて歩き続けている。

「……どうして茜の屋敷に行こうと思ったんだ? もしかして、佑助が地獄絵の鬼は茜の両親だと言ったからか……?」
 叡正の言葉に、信は何も応えなかった。

 地獄絵は茜が死んだときの光景を描いたものだと、佑助は言った。
 そして描かれた鬼は、茜の両親、佑助の屋敷の奉公人、佑助の両親だと話したが、佑助はそれ以上何も言わなかった。

(一体佑助と茜に何があったんだ……)
 叡正は静かに目を伏せる。

 そのとき、前を歩く信が足を止めた。

 叡正は不思議に思い、信に駆け寄る。
「どうした? ここはさすがに違……」
 叡正はすぐ横にある門を見て、目を見開く。
 門には野田家の家紋があった。
「いや、でもここは……」

 叡正は門から離れ、屋敷全体を見た。
 門や屋敷を取り囲む塀は蔦で覆われ、もう何年も人の手が入っていないかのように荒れ果てていた。
 屋敷に人のいる気配もなく、ここが野田家だとは叡正には思えなかった。

「ここだ」
 信はそう言うと門に近づき、強く門を叩いた。

 屋敷は静かだった。

「なぁ、やっぱり……」
 叡正がそう言いかけたとき、軋む音を立てながら門が開いた。

「どちら様ですか?」
 門を開けたのは白い髪をした初老の男だった。
「野田家の当主に会いに来た」
 信は淡々と言った。
 初老の男は目を見開く。
「だ、旦那様ですか……? 旦那様は病を患いもう誰かとお会いできるような状態では……」
「誰なら会える?」
 信は初老の男の言葉を遮るように聞いた。
「あ……この屋敷には、もうほかに誰も……。奥様は数年前に心を病んでしまい三年ほど前にお亡くなりになりました……。それに、娘の茜様も……」
 初老の男は苦しげに目をそらした。
 そのとき、初老の男がふと叡正に目を留めた。
「ああ……、もしや経を上げに来てくださったのですか……?」

 叡正は思わず自分の服装を見た。
 弥吉から知らせを受けて慌てて寺を出てきたため、叡正は法衣を着たままだった。
(ああ、そうか……。俺、法衣で……)

「あ……はい……。……そうです。その……茜……様とは生前ご縁もあったので……」
 叡正はなんとかそれだけ口にした。
「ああ、そうでしたか……! それでしたら茜様もお喜びになるでしょう……! ただ……今日は旦那様の調子が悪く……。また後日、ぜひお越しいただければと思います……!」
 初老の男は嬉しそうに言った。
「ああ、はい。わかりました……」
 叡正は笑顔でそう言うと、信の脇腹を小突いた。
「では、出直しますことにいたします」
 叡正はそう言い、どこか不服そうな信の着物の袖を引く。

「はい、お待ちしております! ええっと……お名前だけお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「あ、はい。叡正と申します。では、私たちはこれで……」
 叡正はそう言うと一礼して、信を引っ張っていった。

 やがて後ろで門が閉まる音がすると、二人は自然と立ち止まった。
「いろいろ……予想外ではあったが……やっぱり会えなかっただろ?」
 叡正の言葉に、信は何かを考えるように目を伏せた。

「まぁ、また来てくれと言われたんだ、そのときにでも……」
 叡正の言葉が終わるのを待たず、信はひとり塀に沿って歩き始めた。
「あ、おい!」
 叡正は慌てて信の後を追う。
「どこに行く気だよ!」

 信は少しだけ叡正を振り返る。
「あっちに壊れて上りやすそうな塀があった」
 信の言葉に、叡正は目を丸くする。
「た、頼む! 本当にやめてくれ!」
 叡正は渾身の力を込めて、信の腕を引いた。
「今回は本当にやめてくれ! 一応知り合いの屋敷なんだ……。今度来てくれと言われたんだ! 頼むから、今回だけは!!」

 信は足を止めると、じっと叡正を見た。
(頼む! 今回だけは言うことを聞いてくれ……!)
 叡正は信を見つめ返す。

 しばらく叡正を見つめた信は、静かに目を閉じると身をひるがえした。
「……わかった」

 叡正は驚いて、自然と掴んでいた信の腕を離した。
(は、初めて言葉が通じた……!)
 叡正はよくわからない感動を覚えた。

 信はおとなしくもと来た道を引き返し始めていた。
(前は何言っても聞かなかったのに……! 信も変わってきてる……のか……?)
 叡正はわずかに口元に笑みを浮かべ、急いで信の後を追った。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「旦那様、お食事はまたこちらに置いておきますね。食べられそうでしたら、また隣の部屋におりますのでお声がけください」
 襖の細い隙間から光が差し込んでいた。
 今が昼なのか夜なのかすら、男にはわからなかった。
「……ああ……」
 男はかすれた声で、長年仕える奉公人の言葉に応えた。

「ああ、それから今日、僧侶の方が屋敷に来てくださいました。奥様と茜様のために経を上げに寄ってくださったようです」
 奉公人は明るい声で言った。

(僧侶……?)
 男は布団に横たわったまま、わずかに首を動かし光の方に目を向けた。

「叡正様という方だそうで、茜様ともお会いしたことがあるのだとか……。そういう方に経を上げていただければ茜様もさぞお喜びになるでしょう」
 奉公人は少し涙ぐんでいるようだった。

(えいせい……。えい……せい……? 永世……)
 男は目を見開いた。

「ハッ……ハハ……」
 男の口から乾いた笑いが込み上げる。
 それと同時に男は激しく咳込んだ。

「だ、旦那様!? 今お水を持ってまいります!」
 奉公人が水を取りに廊下を走っていく音が響く。

「……はぁはぁ……ハッ……。永世様が……」
 息を整えると、男は静かに目を閉じた。
「すべてを知り……復讐にでも……いらっしゃったのですか……?」
 男は涙と笑いが同時に込み上げてくるのを感じた。

「いつでも……いらしてください……。この命など……いつでも……差し上げましょう。私にはもう……何も……何も残っていないのですから……」
 堪え切れず、男は顔を歪めた。
 目から溢れ出るものがじっとりと布団を濡らしていた。