花見から戻った日の夜、茜は屋敷の廊下で父親に呼び止められた。
「おまえ……今日永世様にお会いしたのか……?」
 父親はどこか不安げな顔で言った。

 茜は自分の鼓動が速くなっていくのを感じた。
(もうお父様の耳に入るなんて……)
 茜は平静を装い、少しだけ首を傾げた。
「ええ。たまたま花見のときにお会いしましたが……。それがどうかしたのですか?」
「いや……」
 父親はわずかに視線をそらした。
「特にどうというわけではないんだが……。おまえ、何を話そうとしていたんだ……?」

 茜は、目を伏せている父親を見つめた。
(やはり……話されてはまずいことを、しようとしているのね……)
「何を……というわけではありませんが、佑助の絵を永世様が拾ってくださったので、その絵についてお話ししていただけです」
 茜は小さく微笑んだ。

「佑助……。ああ、あの家の子か……」
 父親はそう呟くと、ゆっくりと茜を見た。
「あの子と……あの家に関わるのは……もうやめなさい……」
「え?」
 茜は思わず目を見開く。
 叡正の家と関わるなと言われるのは予想していたが、佑助と関わるなと言われるとは思っていなかった。
「ど、どうしてですか……? あの家の方とは、お父様も親しくしていたでしょう……?」
 もともと佑助の家を茜が訪れたのは家同士が親しく、以前から交流があったためだった。
 なぜ今になって関わるなと言われたのか、茜には理解できなかった。

「方針の違い……というやつだ……」
「方針……?」
 茜は眉をひそめる。
「それは……お父様がやろうとしていることと、関係があるのですか……?」
 茜は我慢できず、思わず呟いていた。

「な!?」
 父親は目を見開いた。
「おまえ……やはり……聞いていたのか……!」

 父親は茜の両肩を掴むと、声をひそめる。
「何を聞いた……? いや、何を聞いていてもいい……。ただ、すべて忘れろ。おまえには関係のないことだ……。いいか、おまえは絶対に関わるな」
 父親の切迫した声に、茜は思わず身を引いた。
 父親の顔からは血の気が引いていた。

「ほとんど……何も聞こえませんでした……」
 茜は静かに目を伏せた。
「ただ……お父様たちが……何か……してはいけないことを、しようとしていることはわかりました……」
 茜の言葉に、父親の指先がわずかに震えたのがわかった。

「誰かが動かなければ……世の中は変わらないんだ……」
 父親の声はかすれていた。

「お父様……」
 茜は父親に視線を戻す。
 父親の顔は暗く、ひどく苦しげに見えた。
(お父様は一体何を……)

 父親は茜の肩から手を下ろすと、ゆっくりと息を吐いた。
「いいな……? すべて忘れろ。それから……永世様にも、佑助にももう関わるな……。それだけでいい……」
 父親はそう言うと茜に背を向け、暗い廊下を歩いていった。

「お父様……!」
 茜は父親の背中に手を伸ばしたが、その手が父親に届くことはなかった。

 茜はこぶしを握りしめる。
「お父様……、私は決めたのです……。自分の心はもう欺かないと……」
 茜は薄暗い廊下を真っすぐに見据え、静かに顔を上げた。