「どうしたの? 最近元気がないけど……」
 佑助は茜を見つめ、心配そうな顔で聞いた。
 茜は慌てて首を振る。
「そんなことないよ。ただ、ちょっと考え事があって……」
 茜は目を伏せた。
 父親が橋本家に何かしようとしているのを知ってから、まもなく一年が経とうとしていた。
 茜は、叡正にこのことを伝えようと手を尽くしたが、叡正と会える機会が少ないうえ、二人になれる時間などあるはずもなく、ただ時間だけが過ぎていた。
(早く伝えなければいけないのに……)

「本当に大丈夫?」
 佑助はもう一度茜に聞いた。
「今からでも花見はやめて帰ろうよ。人も多いし……」

「ううん、本当に大丈夫だから」
 茜は佑助の気づかいに、思わず微笑む。

 今日は花見のために、奉公人とともに桜の名所である隅田川沿いへ向かっていた。
「大丈夫よ。佑助に桜を描いてもらいたいし」
 茜は遠くを見つめながら言った。
「桜は……わざわざ見に行かなくても描けるよ?」
「私と一緒に見た桜を描いてほしいのよ」
 茜はゆっくりと佑助の方を向いた。

「え、……誰と見ても桜は桜だと思うけど……」
「何もわかってないのね」
 茜は呆れ顔で佑助を見る。
「誰と見るかで景色の見え方は違うのよ。まだ若いから違いがわからないのかしら」
「若いって……。僕ら同じ年でしょ……? まぁ、いいけど……」
 佑助は苦笑する。
「茜と一緒に見た桜を描けばいいんだね……」
「そうよ」
 茜はうんうんと何度も頷く。

「あ、そうだ」
 佑助は何かを思い出したように声をあげた。
「前に頼まれてた絵を描いて持ってきたんだ……」
 佑助はそう言うと、懐から紙を取り出す。
「これなんだけど……」
 佑助が紙を広げ茜に渡そうとした瞬間、強い風が吹いた。
 風で砂埃が舞い、茜は思わず目を閉じる。

「あ……!」
 佑助の声に茜が目を開けると、佑助が手に持っていた紙は飛ばされて宙を舞っていた。
「あ、追いかけましょう!」
 茜はすばやく佑助の手首を掴むと、紙を追って走り出した。

 幸い、風はすぐに止み、紙はひらひらと地面に落ちた。
「よかった……」
 茜がそう呟いたとき、紙に誰かの手が伸びる。
「あ……」
 茜は、紙を拾った誰かに声を掛けようと顔を上げた。

「あれ? 茜……?」
 そのとき、紙を手にこちらを見た少年が茜に声を掛けた。

 茜は目を見開く。
「永世様……?」

 叡正は奉公人や家族とともに歩いていたが、ひとり立ち止まりこちらを見ていた。
(こんなところで会えるなんて……!)
 茜は自分の鼓動が早くなるのを感じた。

「これは茜が描いた絵なのか? すごく上手いな!」
 叡正は目を輝かせて、茜を見た。
「あ、いえ……。その絵は私の友人が描いたもので……」
 茜は慌てて横にいた佑助を見て耳元で囁く。
「ほら、蓮見のときに話した永世様よ」
 佑助はハッとしたように叡正を見た後、深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかります。私は佑助と申しまして……」

「おお、これはおまえが描いたのか! すごいな!」
 叡正は佑助に近寄ると、絵を見ながら微笑んだ。
「今、ほかにも絵はあるのか?」
「え、あ、はい……。少しなら……」
 佑助は懐から二枚ほど紙を取り出すと、叡正に渡した。
「ああ……。本当にすごく上手い……!」
 叡正は受け取った紙を広げながら、目を輝かせていた。
「いつか俺の絵も描いてほしいくらいだ」
 叡正はにこやかに笑った。

「あ、はい……」
 佑助は照れたように耳を赤くしながら、チラリと茜を見た。
(嬉しそうにしちゃって)
 茜は佑助に向かってクスッと笑うと、叡正に視線を戻した。
(今なら……話せるかもしれない……)
 茜は意を決して叡正を見た。

「あ、あの……! 少しお話ししたいことが……!」
 茜の言葉に、叡正は視線を上げる。
「ん? なんだ?」
 叡正は瞬きをすると、茜を真っすぐに見つめた。

「あ、あの……実は……!」

 そのとき、背後に人の気配を感じた。
「ああ、茜ちゃんじゃないか……」
 低く暗い声とともに、茜の肩に誰かの手がかかる。
 茜は顔から血の気が引いていくのを感じた。
「どうしたんだい? こんなところで」

 茜は恐る恐る後ろを振り返る。
 そこには、笑みを浮かべた男が立っていた。
 茜は目を見開く。
 その男は、最近茜の屋敷を頻繁に訪れ、父親と険しい顔で話している男だった。
「おや、永世様と何の話をしていたんだい?」
 男の顔には笑みが浮かんでいたが、その声はどこか威圧的だった。
 茜は思わず視線をそらす。
「い、いえ……。永世様が……友人の絵を褒めてくださったので……。どこの景色を描いたものか説明しようかと……」

「おお、そうだったのか。しかし、永世様はお忙しいんだ。あまりお引き留めしてはいけないよ」
 男はにっこりと笑った。
「そ、そうですね……」

「あ、いや、俺は別に……」
 叡正がそう言いかけたとき、叡正に駆け寄る影があった。

「お兄様!」
 影は颯爽と叡正の腕を取る。
「どうした? 鈴」
 叡正は不思議そうに腕を掴む鈴を見た。
「もう! 本当に気が利かないんだから! お兄様がいたら邪魔でしょ!」
 鈴は、チラリと茜と佑助を見る。
 そのとき茜は、ようやく自分が佑助の手首を掴んだままだったことに気づいた。
「あ、いえ、これは……!」
 茜は慌てて言ったが、鈴は困ったように笑い、首を横に振った。
「お兄様が本当にすみません。すぐ連れていきますから。お兄様はもう少し空気を読むことを覚えなさい!」
 鈴は、強引に叡正の腕を引いていく。

「ちょ、おい、待て……」
 叡正は急いで紙を茜に返すと、頭を下げた。
「よくわからないが、悪かったな……。話は、また今度聞かせてくれ! じゃあな!」
 叡正はそれだけ言うと引きずられるように去っていった。

「話、か……」
 茜の背後で男が呟く。
 茜の背中に冷たいものが走った。
「ええ、絵の話です」
 茜は可能な限り明るく答える。
「そうか。確かに、いい絵だな」
 言葉に反して、男の顔はひどく冷たかった。

「ねぇ、茜。もう行こう」
 佑助が茜の顔を覗き込んだ。
「そ、そうね。すみません、こちらで失礼します」
 茜は男に一礼すると、ゆっくりと歩き始めた。

「……大丈夫?」
 佑助が小さな声で茜に聞いた。
「手……震えてる……」

 茜はハッとして掴んでいた佑助の手首を離す。
 佑助の手首には、赤く跡が残っていた。
「ご、ごめん!」
 茜は慌てて頭を下げた。
「い、痛かったでしょ? 本当にごめん……」
「赤くなってるだけで全然痛くなかったから大丈夫だよ。それより今日はもう帰ろう? やっぱり調子が悪そうだから……」
 茜は佑助をしばらく見つめたが、静かに目を伏せた。

「そうね……。本当にごめん……」

(私は一体……何をやっているの……?)
 茜は唇を噛んだ。
 無力な自分が情けなくて仕方なかった。