蓮見に行った翌日、茜はまた佑助の屋敷を訪れた。
 茜は佑助の父親への挨拶を終えると、いつも佑助が隠れている小屋に向かった。
(また嫌がられちゃうかな……)
 茜は静かに苦笑した。
(でも、佑助の顔を見るとなんだかホッとするのよね……)
 佑助の素直な反応を見ていると、茜はいつも穏やかな気持ちになれた。

(まぁ、少し顔を出して、あまり嫌がれないうちに帰ろう……)
 茜はそう心に決めると、小屋の戸を叩いた。

「え!? あ……」
 小屋の中から佑助の声が聞こえるたのと同時に、茜は小屋の戸を開けた。
 小屋の中は薄暗かったが、佑助がうずくまって何かをしているのがわかった。
「ちょっ……、どうぞって言う前に開けないでよ……」
 佑助は慌てて何かを隠すように背中を丸めた。
 そんな佑助の姿に、茜は小さく微笑んだ。
「どうせ入るんだから、待っているだけ時間の無駄でしょ?」
 茜はそう言うと小屋の中に入った。

「どうしたの?」
 茜は、ずっとうずくまって何かを隠している佑助を見つめる。
「な、なんでもないよ……」
 佑助は顔だけ茜の方を向くと、引きつった顔で首を横に振った。
 佑助の周りには、いつものように絵具や筆が散らばっている。
 茜は首を傾げた。
「絵を描いていたんでしょ? 何を隠しているの?」
「か、隠してなんか……」
 佑助は引きつった顔で、顔を勢いよく横に振る。
「ちょっと失敗しちゃったから……恥ずかしくて……。すぐ片づけるから見ないでよ……?」
「失敗?」
 茜は佑助を見つめる。
 今まで佑助は自分が描いた絵を失敗だと言ったことは一度もなかった。
(失敗か……)
 見られたくなさそうな佑助とは反対に、茜は佑助の失敗したという絵が無性に見たくなった。

「失敗でもいいから見せてくれない?」
 茜は一歩佑助に近づく。
「え!? いや、そんな……! 見せられるようなものじゃないから……!」
 佑助は絵を庇うように、より一層背中を丸めた。
 佑助が抵抗すればするほど、茜は絵が見たくてたまらなくなった。

 茜は佑助のすぐ横にしゃがみ込むと、佑助と鼻が触れあいそうなところまで顔を近づけた。
 目の前にある佑助の目が大きく見開かれたのがわかった。
「見、せ、て……」
 茜がそう言いながら、佑助の顔に触れようと手を伸ばした瞬間、佑助は飛びのくようにその場から離れた。
「な!?」
 佑助の顔は真っ赤だったが、その顔は照れているというより、何かに襲われた後のように怯えていた。
(その反応は少し傷つくのだけれど……)
 佑助にどいてもらうという目的は果たしたが、茜は複雑な気持ちになった。
 茜は苦笑しながら佑助を見た後、佑助が隠していたものに視線を落とす。

 茜は目を見開いた。
 そこには一面の蓮の花が描かれていた。
 水面から真っすぐに伸びるその花は、泥の中から出てきたとは思えないほど白く清らかで美しかった。
 しかし、茜が見ていたのはそこではなかった。
 その絵の中には、蓮の花とともにひとりの人物が描かれていた。
 蓮の花を前に、振り返り微笑んでいるのは紛れもなく茜だった。
(私……?)
 そこに描かれていたのは、眩しいほどに楽しげに笑う茜の姿だった。
 茜が抱える仄暗い感情も、それを隠そうとする嘘くさい笑顔も、そこには映っていなかった。

「ご、ごめん……! 別にやましい気持ちで描いたわけじゃ……! その……前に私を描いてって言ってたから……! 蓮と一緒に描けばいいのかな……なんて……」
 呆然と絵を見つめている茜に、佑助は慌てた様子で言った。

 茜の頬を温かいものが伝う。
(ああ、あなたの目には……私はまだこんなふうに映っているのね……)
 茜の涙が絵に落ちそうになり、茜は慌てて手で涙を受け止めた。

「な、泣くほど嫌だった……?」
 佑助が申し訳なさそうに、茜の顔を覗き込む。
 茜は微笑んだ。
「ううん、違うの……。すごく綺麗ね……蓮も、私も……」
 茜の言葉に、佑助は少しだけキョトンとした顔をした後、慌てた様子で口を開く。
「あ……、そ、そうだね。き、君も綺麗だよね……。あ、違うよ! 茜は綺麗だよ……! ちょ、ちょっと自分で言うのか……って思っただけで……。いや、違う! そういう意味じゃなくて……」
 佑助がオドオドしながら言った。
 茜は思わず微笑んだ。
(そういう意味の綺麗ではないんだけどね……)

 茜はもう一度絵に視線を落とすと、フッと笑った。
「また……描いてくれる?」
「え? う、うん……。こんな絵でよければ……」
 佑助は戸惑ったような声で言った。
 茜は佑助を見つめる。
「約束よ……。たくさん、たくさん描いて……」
「う、うん……」
 佑助は不思議そうに茜を見ていた。
 茜は佑助に向かって微笑むと、静かに目を閉じた。
(この絵に恥じないような自分でいよう……)
 茜は自分の胸に手を当てる。
(そのために……私は私にできることをしよう……)
 茜はゆっくりと目を開けた。
 その目にもう迷いはなかった。