蓮見から屋敷に戻ってきた茜は、屋敷の奥が騒がしいことに気がついた。
(もしや……また……?)
 茜は、お茶を持って屋敷の奥に向かっていた奉公人を呼び止める。
「今日は何か集まりがあるの?」
 茜は眉をひそめて聞いた。
「あ、茜様……。ええ、何か緊急の集まりのようで、旦那様のお部屋で皆様お話しされています」
 奉公人はそれだけ言うと、申し訳なさそうに頭を下げ、屋敷の奥へと去っていった。

「一体何の集まりなの……?」
 茜はひとり小さく呟く。
 近頃、茜の父親は頻繁に屋敷に人を招いていた。
 それ自体は珍しいことではなかったが、出入りする人間の質が以前と明らかに違っていた。
 お世辞にも感じがいいとはいえない人間が我が物顔で屋敷に出入りし、部屋の外にまで響く怒号が飛び交う日もあった。
(お父様は一体何をしているの……?)
 茜はその場に立ち尽くしたまま、拳を握りしめた。
 優しく穏やかだった父親の顔は、時が経つにつれて硬く暗いものになっていた。

(どうしてあんな人たちと関わる必要があるのよ……)
 茜を意を決して顔を上げると、屋敷の奥の部屋へと足を進める。
 奥に近づくと、人の声がところどころ茜の耳に届いた。

「……あいつは……こんなに時間をかけて……」
「もしや裏切って…………?」
「いや、そんなことは……。…………は生きている……それは……」
「それより少し強引に…………」
「…………まだ早い……。もう少し…………」
「どれだけ待ったと思っている!?」
「おい! 少し落ち着け……! そんな…………」
「しかし、このままあの家が…………」
「大丈夫…………。橋本様の家はいずれ……壊れる…………」

(橋本……?)
 茜は思わず足を止めた。
(橋本様って……永世様の家の……? 壊れるって何……?)

 そのとき、奥の部屋の襖が開き、誰かが廊下に出てきた。
「茜……?」
 廊下に出てきた人物は、茜に気がつくと固い声で言った。
「……お父様」
 茜はなんとかそれだけ口にした。
 薄暗い廊下で見る硬い表情の父親は、どこか遠く恐ろしい存在に見えた。
「どうしたんだ、茜……」
 父親はゆっくりと茜に近づく。
「……お客様に……ご挨拶を、と思いまして……」
 茜は思わず後ずさった。
「大事な話をしているんだ。挨拶はいいから、おまえはもう部屋へ戻りなさい」
 父親は茜の前に立つと、そう言って微笑んだ。
 目尻は下がっていたが、その声は依然として固いままだった。
「そうですか……。では、私は部屋に戻りますね」
 茜はそう言って一礼すると、父親に背を向けて歩き始めた。

「茜」
 茜の後ろから父親の声が響く。
「おまえ……何か聞いたか……?」

 茜の背中を嫌な汗が伝う。
「……いいえ」
 茜は精一杯、不思議そうな顔をつくって振り返った。
「何も聞こえませんでしたが……。もしや、何か娘に聞かれてはまずいことをお話しだったのですか?」
 茜はわざとらしく笑って見せた。
「そうか……。それならいいんだ」
 父親の硬い表情は少しだけ和らいだように見えた。
「それでは、失礼します」
 茜はそう言うと、再び父親に背を向けて歩き始めた。
 胸の鼓動がやたらと大きく、茜の耳に響く。
(少し……わざとらしかったかしら……)

 胸を押さえながら、茜は足早に部屋に戻った。
 部屋に入り襖を閉じると、茜はその場に崩れるように座り込んだ。
(お父様……、一体何をしようと……)
 茜は両手で顔を覆った。
 足元がぐらぐらと揺らいでいるようで、ひどく気分が悪かった。

 父親が何か企てていることには気づいていた。
 気づいていながら、何もしようとしない自分の汚さに茜はいつも吐き気を覚えていた。
(私は……。私は一体どうすれば……)
 茜は両手を下ろし、顔を上げると苦笑した。

「私は……本当に醜い人間だわ……」
 茜の呟きは、誰もいない部屋に静かに響いた。