「あ~あ、あいつもう死んだのか」
 菊乃屋の楼主は、鈴を売った切見世からの手紙を受け取るとおかしそうに笑った。
「どいつもこいつもすぐ壊れちゃうなぁ。まぁ、またすぐ新しいのが入るからいいけど」
 楼主は首を掻きながら、張見世を見る。
「今日も家族のためにしっかり働けよ」
 楼主は小さく呟くと、自分の部屋に向かって歩き出した。
 楼主の部屋は見世の一番奥にあるため、見世の賑わいとは対照的に、奥へと続く廊下は薄暗く、しんと静まり返っていた。

 部屋の前にたどり着くと、楼主は背後に気配を感じて振り返る。
「気のせいか……」 
 廊下には誰もいなかった。
(気味が悪いな……)

 楼主は再び部屋の襖に手をかける。
 すると、襖に影が差した。
 驚いて楼主が振り返ろうとすると、突然首が締まり体が浮く。
(な、……なんだ!?)
 楼主が慌てて首を絞めている何かを振り解こうとしたとき、首が一層強く締まり楼主の意識はそこで途切れた。


 楼主は波に揺られているような奇妙な感覚に目を覚ました。
 喉には何か砂のようなものが詰まっている。
 楼主は砂のようなものを唾でゆっくりと飲み込んだ。
 慎重に横に手をついて体を起こすと、その瞬間に楼主の体が揺らぐ。
 楼主は辺りを見回した。
(ここは舟の上なのか!?)
 楼主の前には笠を被った男が立っており、竿で小舟の舵をとっていた。
 突然の光景に、楼主はふと自分は死んだのではないかと思った。
(ここは三途の川か……?)
 楼主は川のように波打っている水面を見た。
 暗いせいか水面はどす黒く沼のように見える。
 楼主はもう一度辺りを見回した。
(いや、ここは……)
「お歯黒どぶか……?」
 楼主が小さく呟いた。
 笠を被った男がゆっくりと振り返る。
「ああ」
 笠の影になり、男の表情はまったく見えなかった。
「おまえが女を捨てていたお歯黒どぶだ」

「な!?」
(なぜ知っている……)
 楼主は混乱しながら、男の目的を考えていた。
「俺をどうする気なんだ……?」
 男は何も言わずにまた前を向いた。

(今、この男さえ突き落としてしまえば!)
 楼主は男の背中を見ながら、静かに立ち上がった。
 そのとき足元が揺らぎ、男は舟に倒れこむ。
 波によろけたのかと思ったが、男の視界がぐにゃりと歪んでいた。
「なんだ……これは……」
 男は楼主が倒れたのに気づき、振り返った。
「ああ、薬だ」
 男は懐から楼主にも見覚えのある薬包紙を取り出す。
「まだあんなにあったんだな。棚にあったものはこのひとつ以外、すべておまえに飲ませておいた」
 楼主の顔がみるみる青ざめていく。
(残りを全部だと……)
 阿片を一度に大量に摂取すれば死ぬことは、楼主も十分に理解していた。
(早く水で胃を洗わないと!)
 楼主は小舟から身を乗り出して水面を見る。
 楼主の目にはお歯黒どぶが澄んだ川に見え始めていた。
 お歯黒どぶに顔をつけて楼主はどぶ水を飲む。
 しかし、ひどい悪臭にすぐにむせて吐いた。
「な……んで……、こんなに綺麗なのに……」
 楼主はどぶの水をすくいあげて眺める。

 男は静かに楼主を見ていた。
 楼主が視線を感じて男の方を見ると、いつのまにか隣に遊女らしき女がいるのに気がついた。
「おまえ……誰だ? いつからそこにいる……?」
 遊女は音もなく楼主に近づくと、楼主の首を絞める。
 そのまま遊女は楼主に馬乗りになった。
 遊女の重みで肺も潰され息ができなかった。
(苦しい……)
 気がつくと十人以上の遊女が楼主を見下ろしていた。

「た、た…すけ……て……!」
 楼主は狂ったように叫ぶと、遊女を振り払いどぶに飛び込んだ。
 着物が泥水を吸って重くなり、楼主が顔を出そうともがくたび、引っ張られるように沈む。
 楼主が手をばたつかせると、ふと白い手が目に入った。
 たくさんの遊女の手が楼主の腕や着物の袖をつかみ、泥水の中に引きずり込もうとしている。
 楼主が叫ぼうと口を開くと、大量の泥水が口に入った。
「ごぼっ、た……すけ……」

 男は静かにお歯黒どぶに沈む楼主を見下ろしていた。
「ほら、おまえのよく言う『家族』が呼んでるぞ」
 男がうっすらと微笑みを浮かべる。
 雲の切れ間からのぞく月明かりに照らされて、男の薄茶色の瞳が妖しく光っていた。
 楼主は目を見開くと、そのまま何かに引き込まれるように深く沈んでいった。

 翌朝、お歯黒どぶに浮かぶ菊乃屋の楼主の遺体が発見された。
 どぶの中でひどくもがいたせいか、楼主の腕や足には黒く長い髪が大量に巻きついていた。