(本当に来た……)
 佑助は小屋の前に立つ茜を姿を見て、心の中で溜息をついた。
「ああ、やっと来た」
 茜は佑助に気づくと、にっこりと微笑んだ。
「やっと来たも何も……約束してたわけでもないのに……」
 佑助は下を向いてブツブツと呟く。
「約束したじゃない。今度絵を描くところを見せてくれるって」
 茜は、何を言っているんだという顔をした。

(あれは約束したとは言わないんじゃ……)
 佑助が目を泳がせていると、茜は鼻を鳴らす。
「まぁ、そんなことはどうでもいいから、小屋の中に入れて。ここに籠って絵を描くつもりなんでしょ? 私はそれを勝手に見てるから」
「勝手に見てるって……」
 佑助は茜を見つめた。
 まったく引き下がる気がなさそうな茜の様子に、佑助は気づかれないように小さく息を吐いた。

「わかったよ……。どうぞ……」
 佑助は重い足取りで小屋まで歩いていき、戸を開けた。
 茜は満足そうに頷くと、佑助より先に小屋の中に入った。

「お邪魔します。やっぱり埃っぽいわね」
 茜はなぜか楽しそうにそう言うと、佑助を振り返った。

(埃っぽいと思うなら来なきゃいいのに……)
 佑助は引きつった笑顔で、茜に応えた。
「それで今日は何を描くの?」
 茜はその場に腰を下ろした。
「ああ……えっと、描きかけの鳥を仕上げようかと……」
 佑助は棚から紙と絵具箱を取り出すと、茜から少し離れたところに腰を下ろした。

「鳥って何の鳥?」
 茜は四つん這いで佑助に近づくと、紙に描かれた絵を覗き込んだ。
「ちょ、ちょっと……!」
 佑助は思わず身を引いた。

「これは……(うぐいす)?」
「あ、ああ……」
「鶯を飼ってるの?」
 茜は目を輝かせて佑助を見た。
「あ、いや、このあいだ庭先で鳴いてたから……」
 佑助はこの近さで茜の目を真っすぐに見ることができず、顔を背けて横目で茜を見た。
「庭で鳴いてるのを見ただけで、こんなに描けたの?」
「うん……。まぁ、覚えてるから……。あの……描けないからちょっと離れてくれる……?」
 佑助がなんとかそう口にすると、茜は意外なほど素直に佑助から離れた。
 佑助はホッとして息を吐く。

 絵具箱を開けて、佑助は顔料を水で溶いた。
 美しい鶯色が広がっていくのを見ながら、佑助はこの前に見た鶯を思い出していた。
 佑助は筆を手に取ると筆先を鶯色に染める。
 茜は意外にも静かに、佑助の絵を見つめていた。
 あまりにも静かだったため、佑助は途中から茜がいることも忘れ、ただ絵を描くことに没頭していた。

 佑助が茜のことを思い出したのは、手元が暗くなり絵が見えなくなってきた頃だった。
「あ、しまった……!」
 佑助が慌てて顔を上げると、茜は瞬きもせず絵を見つめていた。

「ご、ごめん……! ぼ、僕、絵を描き始めると周りが見えなくなっちゃうから……。もう日が暮れかけてるよね……! 君のお父様が心配してるんじゃ……」
「綺麗ね……」
 慌てる佑助の言葉を遮るように、茜が言った。

「え?」
「すごく綺麗ね。この鶯は、本当にこんなに美しかったの?」
 茜は絵を見つめたまま聞いた。
「え……、そ、そうだね……。僕は見たままを描いてるだけだから……」
「そう……」
 茜は顔を上げると、今度は佑助に顔を近づけ、佑助の目を見つめた。

「な、何!?」
 佑助は思わず身を引いた。
「あなたの目が特別なのかしら……。この目を(えぐ)り出して私の目にはめたら、私もこんなふうに見えるようになるのかな……」
 茜の言葉に、佑助の顔から血の気が引いていく。
(な、なんだって……??)
 蛇に睨まれた蛙のように、佑助は茜の丸い目から視線を逸らすことができなかった。
 ふいに、その目が弧を描く。

 茜は顔をそらすと、フッと吹き出した。
「ふふ、冗談よ。そんな、真に受けないで」
 茜は楽しそうに笑った。
「抉った目をはめて、同じように見えるなんて考えるはずないでしょ? ちょっと羨ましくなっただけよ」
 佑助はただ呆然と茜を見ていた。
 笑われたのに不思議と嫌な気はしなかった。
 佑助の目には、ただ茜の笑顔だけが眩しく映っていた。

「ねぇ、いつか私のことも描いてくれない?」
 茜は笑い終えると、佑助を見つめた。
「ん? 君を……?」
「そう、私を。あなたの目に……私がどんなふうに映るのか興味があるの」
 そう言った茜の顔は、先ほどとは違いどこかぎこちない笑顔だった。
「え、あ、うん……。別にいいけど……」
 ぎこちなさが気になり、佑助は自然とそう返事をしていた。

「ありがとう。今度こそ約束よ」
 茜はそう言うとにっこり微笑んだ。
「うん、今度は本当に約束する」
 佑助は目を細めた。
 小屋は薄暗くなり始めていたが、そのときの茜の明るい顔はいつまでも佑助の頭に残っていた。