「叡正様のお知り合いだったんですか?」
 長屋に入り、畳に腰を下ろした弥吉は横にいる叡正にそっと聞いた。
「ああ……。昔の知り合いだ……」
 叡正は弥吉に小声で答えたながら、戸惑いを隠し切れなかった。
(どうして佑助が長屋にひとりで……?)
 叡正は土間でお茶を準備している佑助を見つめた。
 優しげな目元は昔のままだったが、今の佑助は随分とやつれているように見えた。

 叡正の視線に気づいた佑助は、どこか困ったように微笑んだ。
「永世様は昔とまったく変わっていませんね」
 佑助は茶を入れた湯飲みを盆に乗せて運ぶと、叡正と弥吉の前に置いた。
「お茶くらいしか出せなくて申し訳ないですが……」
 佑助は二人を見て、そう言うと目を伏せた。

「あ、いや、そんな……。こちらこそ、突然押しかけて申し訳ない……」
 叡正がそう言うと、隣で弥吉も大きく頷いた。
「いえいえ、私はどうせ暇ですから……。あ、それで……」
 佑助は二人の前に腰を下ろすと、不思議そうな顔で口を開いた。
「今日は、私の絵を見にいらっしゃったということでお間違いないですか……?」

「あ、ああ……」
 叡正は佑助から少し視線をそらしながら頷いた。
 弥吉の長屋の近くに越してきたのが、怪しい人間でないか確かめに来たとは言えなかった。
(まぁ、佑助なら身元もしっかりしてるし、確かめる必要もないが……)

「そう……ですか……」
 佑助は静かに目を伏せた。
「私は……もう以前のような絵は描いておりません……。永世様にお見せできるようなものでは……」
 佑助はそう言うと、申し訳なさそうに背中を丸めた。

 叡正は以前、佑助の絵を見せてもらったことがあった。
 花や虫、鳥などの身近なものを繊細に美しく描いていたことは、叡正もしっかりと覚えていた。
(地獄絵か……。以前見た絵からは想像できないが……)

 叡正はうつむいた佑助の顔を覗き込んだ。
「弥吉からどんな絵かは聞いているから、一度見せてもらえないだろうか?」
 深い意味はなく、せっかくだから見てみたいと叡正は思った。

 叡正の言葉に、佑助は弾かれたように顔を上げると、一瞬泣き出しそうに顔を歪めた。

「……佑助?」
 叡正は佑助の反応に驚き、身を引いた。
「その……無理にということでは……」
「いえ……」
 佑助は叡正の言葉を遮ると、立ち上がり長屋の隅に歩いていった。
 佑助は隅にひっそりと置かれていた箱を開けると、中から紙の束を取り出す。
「こんな絵でよろしければ……。ただ……見て気持ちのいいものではないと思いますよ……」
 佑助はそう言うと、紙の束を持って叡正の元に戻ってきた。
 佑助は震える手で、叡正に紙の束を差し出した。

「その……無理を言ったようですまない……」
 叡正は頭を下げると、差し出された紙の束を受け取った。

 叡正は紙に視線を落とす。
 紙は一面真っ赤に染まっていた。
(え……?)
 叡正は目を見開く。
 紙一面に描かれていたのは、荒れ狂ったように蠢く炎と、すべてを飲み込むような血の海だった。
 鬼たちが感情を剥き出しにしながら、人間を突き刺し火で炙り、斬りつけ、切り落とした四肢を弄んでいる。
 佑助の絵の繊細さは変わっていなかった。
 ただ、繊細なだけにその絵は今にも悲鳴が聞こえてきそうなほどに生々しかった。

 叡正の記憶の中にある光景と、絵の中にある惨状が重なって見えた。

 叡正は思わず目を閉じる。
(これは……)
 叡正の呼吸は自然と荒くなっていた。

「叡正様……大丈夫ですか?」
 隣で叡正の異変に気づいた弥吉が、そっと叡正の背中をさすった。
「あ、ああ……。大丈夫だ……」
 叡正はなんとか微笑んだ。

「永世様……」
 佑助の声に、叡正は顔を上げた。
「永世様の目には……この世はどのように見えますか?」
 佑助の顔はひどく暗く、悲しげだった。
「どのように……?」
 叡正はなんと答えればいいのかわからなかった。

「永世様はなぜ何も変わっていないのですか? あんなことがあったのに……あなたが纏う空気は今も昔と変わらず澄んでいる……。一体どうして……」
 佑助は両手で顔を覆う。
 叡正は何も答えることができなかった。

「……わかっています。永世様は昔から強く真っすぐな方でした……。周りがどのように変わろうとも、その色に染まることはないのでしょうね……」
「佑助……、おまえ、一体何を……」
 叡正は佑助が何を言っているのか、まったくわからなかった。

「私はダメでした……。彼女が褒めてくれたこの目も、もう濁り切ってしまいました……。私にはもうこんな絵しか描くことができないのです……」
 佑助の声は涙でかすれていた。

 叡正は何も言うことができなかった。
 隣を見ると、弥吉も同じように茫然と佑助を見ていた。
(一体、佑助に何があったんだ……)
 叡正は、涙を流す佑助をただ見ていることしかできなかった。