五日後、叡正は弥吉とともに絵師の長屋に向かっていた。

「叡正様、わざわざ来ていただきましたけど、本当に無駄足になるかもしれませんよ?」
 弥吉は隣を歩く叡正を見上げて言った。
「絵師だと言っていたので、基本的には家にいるとは思いますが留守にすることもあるでしょうし……」
 弥吉は申し訳なさそうに叡正を見る。

「あ、いや……、いないこともあるだろうと思っていたから、それは大丈夫だ。むしろ付き合わせて悪いな……」
「俺は大丈夫ですけど……。叡正様はどうしてそんなに地獄の絵がお好きなんですか?」
 弥吉は不思議そうに首を傾げる。
「え? あ、ああ……、一応僧侶だからな……。興味があって……。その……ほら、僧侶として見ておくべきかなと……」
 叡正が目を泳がせながら言った。

「ああ、なるほど! そういうことでしたか! 仏の道を究めるために地獄についても深く理解しておきたいということですね! てっきり悲惨な絵を見るのが趣味なのかと、人間性を疑ってしまいました! それなら納得です」
 弥吉はようやく理解できたというように大きく頷いた。
「あ、ああ……。わかってもらえてよかった……」
 叡正は引きつった顔で笑った。

「あ、でも、そういうことなら……」
 弥吉は何かを思い出したように叡正を見た。
「すみません、叡正様……。咲耶太夫にはわかりやすく地獄絵と話したんですが、正確には地獄絵ではないそうなんです……」
 弥吉は申し訳なさそうな顔で目を伏せた。
「え? 地獄の絵じゃないのか?」
「はい……。俺の目には地獄に見えたんですが、その絵師の方が言うには、これはこの世を描いた絵だと……」
「この世の絵?」
 叡正は首を傾げる。
「地獄のように見えるけど、この世を描いた絵ってことか?」
「そうです。『私の目に映るこの世を描いた絵』だとおっしゃっていました。なので、叡正様の地獄の学びにはつながらないかもしれません……」
「いや、まぁ、それはいいんだが……。その……どちらにしろ興味はあるから……」
 叡正は苦笑しながら、なんとかそれだけ口にした。

(地獄のようなこの世の光景……か……)
 叡正はふいに脳裏に浮かんだものを消し去ろうと、静かに目を閉じた。

「あ、叡正様、ここです」
 弥吉が叡正の袖を引いた。
 叡正は弥吉が指さした長屋を見る。
 外観は、信と弥吉が住んでいる長屋と何ら変わりはなかった。

 弥吉は戸に近づくと、軽く戸を叩く。
 しばらく待ったが、中から返事はなかった。
 弥吉は叡正を振り返る。
「留守でしょうか……?」
 弥吉は戸に向き直るともう一度戸を叩き、口を開いた。
「すみません! いらっしゃいませんか?」
 中からはやはり何の返事もなかった。

「あの……どちら様ですか?」
 ふいに後ろから声が響き、二人は慌てて振り返る。
 そこには、優しげな目をした男が、水桶を持って立っていた。

「あ、君はあのときの……」
 男は弥吉に視線を向けると、目尻を下げた。
「私に何かご用でしたか?」

「あ、こんにちは。突然すみません! 今日はその……絵を見せていただきたくて……」
 弥吉が慌てて口を開く。
「絵……ですか?」
 男は目を丸くする。
「はい、この方がぜひあなたの絵を見てみたいと……」
 弥吉はそう口にしながら叡正を見た。

「こちらの方が……?」
 男は叡正に視線を向けた。
 叡正が挨拶しようと一歩前に出る。

 そのとき、男が目を見開いた。
「……永世様?」
「え?」
 叡正は男の顔を見た。
「永世様ですよね……? 出家されたと伺いましたが……その髪……還俗されたのですか?」
 男は目を丸くしたまま、上から下まで叡正のことを見ていた。

『永世様……』
 叡正の頭の中で、自分の名を呼ぶ声が響く。
 記憶の中で名を呼ぶ少年の顔と、今目の前にいる男の顔が重なった。

「佑助……?」
 叡正の言葉に、男は小さく頷いた。
 叡正は目を見開く。
「おまえがどうしてここに……? 絵師って……おまえ、家はどうしたんだよ……」
 叡正の言葉に、佑助は悲しげに微笑んだ。

「立ち話もなんですから、ひとまず中に入りましょう……」
 佑助はそう言うと、二人の横を通り抜け、長屋の戸を開けた。
「何のおもてなしもできませんが、どうぞお入りください」

 叡正と弥吉は顔を見合わせた後、お互い小さく頷くと、長屋の中に入っていった。