叡正は久しぶりに玉屋を訪れていた。
 特に用があったわけではない。
 しばらく咲耶たちに会っていないことに気づくとどこか寂しくなり、咲耶から冷たい目で見られることを覚悟のうえで、叡正は玉屋に足を運んでいた。

「ああ、叡正!」
 予想に反して、叡正は咲耶に笑顔で出迎えられた。
(え……?)
 咲耶の部屋の前で、叡正は思わず一歩後ずさる。
 今まで咲耶にこんな笑顔で出迎えられたことは一度もなかった。
「ちょうどいいところに……。まぁ、入ってくれ」
 咲耶はにっこりと笑うと、叡正に向かって手招きした。

(ちょうどいいところに……?)
 叡正は自分の顔が引きつっていくのを感じた。
(嫌な予感しかしない……)
 叡正はなかなか襖の敷居を跨ぐことができなかった。

「何をしている? 早く入れ」
 咲耶の顔は笑っていたが、その声には拒否することを許さないような凄みがあった。
「あ、ああ……」
 叡正はようやく観念して敷居を跨いだ。

「今日はどうしたんだ?」
 叡正に座るように促しながら、咲耶は叡正を見た。
「いや……、特に用はないんだが……」
 叡正は咲耶の前に腰を下ろしながら、チラリと咲耶を見た。

「そうか」
 咲耶はなぜか満足そうに微笑んだ。
「よかった。ちょうどおまえに会いたいと思っていたんだ」
 咲耶の言葉に、叡正は目を見開いた。

(会いたいと……思っていた……?)
 叡正は言葉を失う。
 遊女の口からそんな言葉が出れば舞い上がるのが普通だが、叡正は今までの経験から咲耶がそんな色気のある意味で言っていないことを理解していた。

(どう考えても何か厄介なことを頼まれる……)
 叡正の背中を嫌な汗が伝う。

 叡正は目を泳がせながら、意を決して口を開いた。
「あ、そうだ……。今、思い出した……。これから法要があったんだった……。来て早々だが、もう……」
「心配するな」
 叡正の言葉を遮るように、咲耶が言った。
「時間は取らせない」
 咲耶はそう言うと、妖しげな笑みを浮かべた。

(おかしいな……。罠に掛かった獲物の気分だ……)
 叡正は咲耶の表情を見て、逃げることを諦めた。


「失礼します」
 そのとき、叡正の背後で緑の声が響き、襖が開いた。
「弥吉を連れてまいりました」
 叡正が振り返ると、そこには緑と弥吉がいた。

「ああ、ありがとう」
 咲耶は緑に微笑む。
「俺をお呼びでしたか?」
 緑に続いて、部屋に入ってきた弥吉が咲耶に聞いた。

「ああ、急に呼び出して悪かったな。実は叡正が前から地獄絵が好きだと言っていてな……」
「……は?」
 叡正は思わず声を出した。
(なんの話だ……? 地獄絵ってなんだ?)
 叡正は答えを求めて咲耶の顔を見た。

「地獄絵だよ、地獄絵。好きだろ、地獄絵……」
 咲耶は口元こそ笑っていたが、叡正に向けられた鋭い眼差しは明らかに『黙れ』と言っていた。
 叡正の顔から血の気が引いていく。
「あ、ああ……。そうだった……。好きだった……。遮って悪かった……。続けてくれ……」
 叡正は引きつった笑顔で、なんとかそれだけ口にした。

「え……。叡正様、地獄絵が好きなんですか? 変わってるとは思ってましたけど、絵の趣味まで変わってるんですね」
 弥吉が怪訝そうな顔で叡正を見る。
「ああ……、そうだな……」
 叡正はどこか遠くを見つめながら言った。

 咲耶は軽く咳払いをすると、再び口を開いた。
「それで、弥吉の長屋の近くに引っ越してきた男の絵もぜひ見てみたいそうなんだ。見せてもらえるように、頼んでくれないか? もちろん叡正も一緒に頼みに行くから」
 叡正は、咲耶が何を言っているのかまったくわからなかったが、もう何も口にする気になれなかった。

「別に構いませんけど……。まずは俺ひとりで行って聞いてみましょうか? その方が早いですし、断られた場合、叡正様は無駄足になってしまうので……」
 弥吉はチラリと叡正を見た。

「叡正のことは気にするな、見たくて行くんだ。無駄足になっても文句は言わないさ」
 咲耶は当然のように言った。
「それに……物騒な世の中だからな。ひとりで行くのはやめておいた方がいい」
 咲耶はわずかに目を伏せた。

(ああ、そういうことか……)
 咲耶の様子に、叡正はようやく自分が何を求められているのか理解した。
 叡正は弥吉に目を向ける。

 弥吉は少し前に命を狙われたことがあった。
 弥吉自身は知らないが、屋敷の乳母が動いていなければ、本当に命が危なかったはずだ。

(地獄絵がどうって話しじゃなくて、引っ越してきた男が怪しくないか見てきてほしいって意味か……。そういうことなら……)
 叡正は弥吉に向かって口を開いた。
「もし迷惑でなかったら……無駄足になってもいいから、ぜひ一緒に行かせてほしい」
 叡正の言葉に、弥吉は少し不思議そうな顔をしたが、それほどまでに地獄絵が見たいのだと納得したのか小さく頷いた。
「あ、はい……。叡正様がそうおっしゃるなら……」
「ありがとう、弥吉」
 叡正は弥吉に礼を言うと、チラリと咲耶を見た。

 咲耶は満足そうに微笑んでいる。

(これでよかったみたいだな……)
 叡正はそっと胸を撫でおろした。
(まぁ、ただ……普通に言ってくれればよかった気もするが……)
 叡正は小さく息を吐いた。

 なぜ信を行かせないのかという疑問がふと浮かんだが、叡正は何も聞かないことにした。
 もう咲耶に睨まれたくなかった。

 そして数日後、叡正は弥吉と絵師の長屋を訪れることになった。