「いたか?」
「いや、こちらには……」
「一体どこに行かれたんだ……」
 外で男たちの声が響いていた。

 少年は物置小屋の中で、そっと息をひそめる。
(どうして自由にさせてくれないんだよ……)
 少年は目を伏せる。

 しばらくして男たちの声が遠のいていくのを感じた少年は、そっと壁にもたれかかり息を吐いた。

 普段あまり人の来ない小屋は、少年にとって秘密の場所だった。
 少年は床に散らばった紙を見つめる。
「僕はただ……絵が描きたいだけなのに……」
 少年は紙に書かれた花を見つめながら顔をふせた。

「剣の腕なんて、もうこの時代に必要ないじゃないか……」
 少年はため息をついた。

 少年は剣の稽古をサボるため、この小屋に逃げてきていた。
「父上に剣の才能があるからって僕にあるとは限らないのに……。武家に生まれたってだけでさ……」
 少年は膝を抱えると、ブツブツ呟いた。
 少年は剣の稽古が嫌いだった。
 木刀といえど当たれば痛い。
 痛い思いをするのも、痛い思いをさせるのも、少年はとにかく嫌だった。

「綺麗なものだけ見て、それを描いていられたら、それだけでいいのにな……」
 少年はため息をついた。

 その瞬間、小屋の戸が音を立てて開いた。
 少年は目を見開く。

「あ、見つけた」
 少年が戸の方を見ると、そこには見知らぬ少女が立っていた。
 見るからに上等な着物を纏っている少女は、明らかに奉公人ではなかった。

「だ、誰……?」
 少年は震える声で聞いた。

 少女は小屋の戸を閉めると、ゆっくりと少年に近づく。
「誰なの……?」
 少年はもう一度聞いた。
 少女は、少年の目の前まで来ると静かにその場にしゃがみ、少年の顔を見つめる。
「あなたでしょ? 稽古サボってどこかに行っちゃったっていう、この家の子」
 少女の丸く大きい目が、少年をジッと見つめる。
「え、あ……うん。そうだけど……。君は誰なの……?」
 少年は壁に追い詰められながら、なんとかもう一度聞いた。

「私?」
 ようやく少年の言葉が少女に届いた。
「私は(あかね)。今日はお父様と一緒にこの家に来たの。あなたのお父様と大事な話があるんですって。私はいても邪魔になるだけだから出てきたの。あなた、名前は?」
 茜は少年を見つめる。
「僕は……佑助(ゆうすけ)……」
 佑助はおずおずと口を開いた。
「佑助ね、覚えたわ。それで、佑助はここで何をしていたの?」
「あ、呼び捨て……? えっと……、その……」
 佑助は自然と床に散らばっていた紙に視線を向けていた。
 茜は佑助の視線の先を見る。

「あの絵、あなたが描いたの?」
 茜はそう言うと立ち上がり、床に散らばっていた絵の一枚を拾い上げた。
「綺麗ね……。本物よりずっと……」
 茜は小さく呟いた。

「本物より? そんなことはないと思うけど……」
 佑助は戸惑いながら言った。
 茜はまた佑助に視線を戻す。
「そう……。あなたの目から見た世界は、きっとこんなふうに輝いてるのね」
 茜はそう言うと、少しだけ微笑んだ。

「……? 誰の目から見ても花は綺麗でしょ?」
 佑助は首を傾げる。
「まぁ、いいわ。それより戻らないの?」
 茜は肩をすくめると、佑助に聞いた。
 佑助は目を泳がせる。
「えっと……僕は……」
「戻りたくないなら、別にいいの。そのかわり……」
 茜は佑助の前にしゃがみ込んだ。

 茜の丸い瞳に佑助の顔が映る。
「今度、絵を描くところを見せてくれない?」
「絵を描くところを……? 今度って……」
 佑助は思わず身を引いて、壁に軽く頭をぶつける。
「そう、今度。何? もう来ちゃダメなの?」
 茜はさらに顔を近づけた。
「い、いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあ、いいのね?」
「え……、あ、うん……」
 佑助が小さく頷くのを見て、茜は満足げに微笑んだ。

「じゃあ、今日はもう行くわ」
 茜はそう言うと立ち上がった。
「またね、佑助」
「あ、うん……」

 茜はそれだけ言うと、佑助に背を向けて小屋から出ていった。

 呆然と茜の背中を見送った佑助は、しばらくしてようやく一枚絵がなくなっていることに気がついた。
「持っていったのか……、別にいいけど……」
 佑助はそう呟くと、小さく息を吐いた。
「なんだったんだろう……、一体……」
 また来ると言った茜の言葉を思い出し、佑助はもう一度大きなため息をついた。