「信さん、もう帰ってたんだね」
長屋に戻った弥吉は、座敷に座って漆を塗っていた信を見て言った。
信は弥吉の声に顔を上げる。
「早かったね。咲耶太夫には会えた?」
弥吉は荷物を置きながら信に聞いた。
「ああ……」
どこか歯切れの悪い信の言葉に、弥吉は思わず信を見る。
いつもならすぐに作業に戻る信が、今日は顔を上げたまま目を泳がせていた。
(なんだ……? 何か言いたいことでもあるのか?)
弥吉は首を傾げる。
「何かあった?」
「……いや」
「何? どうしたの……?」
弥吉の言葉に信は何も答えず、ただ目を泳がせていた。
長屋に隙間風の音が響くほどの沈黙が訪れる。
(一体……どうしたんだ?)
弥吉は沈黙に耐えきれず、信に近づいた。
「えっと……信さん?」
「何か……」
唐突に信が口を開く。
「気になっていることはないか……?」
「気になってること?」
弥吉は目を丸くする。
「気になってること……。え、なんだろう……。えっと、もうすぐ冬だけど、隙間風がすごいから大丈夫かな……とか? 信さんがこの前破った戸の障子は張り替えたからいいけど……」
弥吉は口元に手を当てながら、なんとか気になっていることを絞り出した。
「そうか……」
信はそう言うと漆を塗っていた椀を置き、立ち上がった。
「あ、今からやる必要はないからね! 気になってることって聞かれたから言っただけだし!」
今すぐ壁の修復をしそうな信に、弥吉は慌てて言った。
「紙とか貼るだけでいいから! 今やらなくても……まだ全然寒くないし!」
信は立ち止まると弥吉を見た。
「そうか?」
「そうだよ! あ、そうだ! 信さん、聞いた?」
弥吉は話題を変えることにした。
「ほら、何軒か先にある空いてた長屋! あそこに新しい人が入るらしいよ!」
「……そうか」
信は淡々と言った。
(全然興味なさそうだな……)
弥吉は苦笑する。
「なんか絵師らしくてさ。どんな絵を描いてるのか気になるよね……!」
「気に……なるのか?」
信の言葉に、弥吉はわずかに目をそらした。
(いや……別にそこまで気にならないけど……。話題を変えたかっただけだから……)
「そ、そうだね……。信さんとどっちが上手いのかな……なんて……」
弥吉はなんとかそれだけ口にした。
「そうか」
「う、うん」
弥吉は目を伏せる。
(気になっていること……か。信さんは何が聞きたかったんだろう……)
信はしばらく弥吉を見つめていたが、また漆を塗るために座敷に腰を下ろした。
弥吉は信を見つめる。
(一番気になってるのは、そりゃあ信さんのことだけど……。信さんが話したくないことを聞く気はないよ……)
弥吉は静かに目を閉じた。
(今の信さんがそばにいてくれたら、それで十分なんだから……)
弥吉はゆっくりと目を開けると、信に向かって微笑んだ。
「じゃあ、俺ちょっと井戸に水汲みに行ってくるよ」
信が顔を上げて何か言いかけたが、弥吉は首を横に振った。
「水くらい俺でも汲めるから。信さんにはほかにやってほしいことがあるし、それまでは漆塗ってなよ」
「……わかった」
弥吉の言葉に、信は小さく頷いた。
信が頷いたのを確認し、弥吉は水桶を持って長屋を出た。
弥吉が外に出ると、日はすでに傾き辺りは薄暗くなり始めていた。
(早く行かないと……)
弥吉は井戸に向かって足を速めた。
そのとき、ふいに脇道から男が出てきた。
「あ!」
弥吉が男に気づいたときにはすでに遅く、弥吉は男とぶつかった。
弥吉は勢いよく後ろに尻もちをつく。
「痛……。あ、大丈夫ですか!?」
弥吉は慌てて立ち上がると、横に倒れ込んだ男に駆け寄った。
男は箱に入った大きな荷物を持っていたため、倒れた瞬間に箱が開き、荷物が地面に散乱していた。
「す、すみません……。早く井戸に行かなきゃって焦ってて……」
弥吉はしゃがみ込むと、男の顔を覗き込んだ。
「いえいえ、私の方こそ前をちゃんと見ていなくて……。怪我はなかったですか?」
男は顔を上げると、心配そうに弥吉を見た。
常に微笑んでいるような優しげな目をした男だった。
「俺は全然大丈夫です! 本当にすみません……。荷物もこんなに散らばっちゃって……」
弥吉は手を伸ばして男の体を起こすと、辺りを見回した。
散らばっていたものは、ほとんどが紙だった。
弥吉の目に、紙に描かれた絵が映る。
それは地獄絵のように見えた。
炎の中で悶え苦しむ人々を中心に、笑いながら人を刺している鬼や怒りをあらわにしながら人の首を斬る鬼が描かれている。
「これは……」
弥吉は思わず呟く。
「あ、ごめん。変なものを見せてしまったね!」
男は慌てて散らばった紙を拾い始めた。
「あ、いえ……とても上手いですね……。もしかしてこの近くの長屋に入る絵師の方ですか?」
弥吉も慌てて男の隣で紙を拾い集めた。
「あ、実はそうなんだ……。ごめんね。こんな気味の悪い絵を描く人間が近くに来ちゃって……」
男は申し訳なさそうに言った。
「え、いえ全然そんなことは……! 確かに少し驚きましたけど、すごく上手いと思いました! これは、地獄絵というやつですよね?」
弥吉は絵を見つめると、そう言った。
弥吉の言葉に、男は動きを止める。
「地獄絵……か……」
男はどこか悲しげに微笑んだ。
「これは……この世の絵だよ……」
「この世?」
弥吉は眉をひそめる。
男は絵を見つめると、静かに口を開いた。
「ああ。私の目に映る……この世を描いた絵なんだ……」
苦しそうに呟く男に、弥吉は何も言うことができなかった。
長屋に戻った弥吉は、座敷に座って漆を塗っていた信を見て言った。
信は弥吉の声に顔を上げる。
「早かったね。咲耶太夫には会えた?」
弥吉は荷物を置きながら信に聞いた。
「ああ……」
どこか歯切れの悪い信の言葉に、弥吉は思わず信を見る。
いつもならすぐに作業に戻る信が、今日は顔を上げたまま目を泳がせていた。
(なんだ……? 何か言いたいことでもあるのか?)
弥吉は首を傾げる。
「何かあった?」
「……いや」
「何? どうしたの……?」
弥吉の言葉に信は何も答えず、ただ目を泳がせていた。
長屋に隙間風の音が響くほどの沈黙が訪れる。
(一体……どうしたんだ?)
弥吉は沈黙に耐えきれず、信に近づいた。
「えっと……信さん?」
「何か……」
唐突に信が口を開く。
「気になっていることはないか……?」
「気になってること?」
弥吉は目を丸くする。
「気になってること……。え、なんだろう……。えっと、もうすぐ冬だけど、隙間風がすごいから大丈夫かな……とか? 信さんがこの前破った戸の障子は張り替えたからいいけど……」
弥吉は口元に手を当てながら、なんとか気になっていることを絞り出した。
「そうか……」
信はそう言うと漆を塗っていた椀を置き、立ち上がった。
「あ、今からやる必要はないからね! 気になってることって聞かれたから言っただけだし!」
今すぐ壁の修復をしそうな信に、弥吉は慌てて言った。
「紙とか貼るだけでいいから! 今やらなくても……まだ全然寒くないし!」
信は立ち止まると弥吉を見た。
「そうか?」
「そうだよ! あ、そうだ! 信さん、聞いた?」
弥吉は話題を変えることにした。
「ほら、何軒か先にある空いてた長屋! あそこに新しい人が入るらしいよ!」
「……そうか」
信は淡々と言った。
(全然興味なさそうだな……)
弥吉は苦笑する。
「なんか絵師らしくてさ。どんな絵を描いてるのか気になるよね……!」
「気に……なるのか?」
信の言葉に、弥吉はわずかに目をそらした。
(いや……別にそこまで気にならないけど……。話題を変えたかっただけだから……)
「そ、そうだね……。信さんとどっちが上手いのかな……なんて……」
弥吉はなんとかそれだけ口にした。
「そうか」
「う、うん」
弥吉は目を伏せる。
(気になっていること……か。信さんは何が聞きたかったんだろう……)
信はしばらく弥吉を見つめていたが、また漆を塗るために座敷に腰を下ろした。
弥吉は信を見つめる。
(一番気になってるのは、そりゃあ信さんのことだけど……。信さんが話したくないことを聞く気はないよ……)
弥吉は静かに目を閉じた。
(今の信さんがそばにいてくれたら、それで十分なんだから……)
弥吉はゆっくりと目を開けると、信に向かって微笑んだ。
「じゃあ、俺ちょっと井戸に水汲みに行ってくるよ」
信が顔を上げて何か言いかけたが、弥吉は首を横に振った。
「水くらい俺でも汲めるから。信さんにはほかにやってほしいことがあるし、それまでは漆塗ってなよ」
「……わかった」
弥吉の言葉に、信は小さく頷いた。
信が頷いたのを確認し、弥吉は水桶を持って長屋を出た。
弥吉が外に出ると、日はすでに傾き辺りは薄暗くなり始めていた。
(早く行かないと……)
弥吉は井戸に向かって足を速めた。
そのとき、ふいに脇道から男が出てきた。
「あ!」
弥吉が男に気づいたときにはすでに遅く、弥吉は男とぶつかった。
弥吉は勢いよく後ろに尻もちをつく。
「痛……。あ、大丈夫ですか!?」
弥吉は慌てて立ち上がると、横に倒れ込んだ男に駆け寄った。
男は箱に入った大きな荷物を持っていたため、倒れた瞬間に箱が開き、荷物が地面に散乱していた。
「す、すみません……。早く井戸に行かなきゃって焦ってて……」
弥吉はしゃがみ込むと、男の顔を覗き込んだ。
「いえいえ、私の方こそ前をちゃんと見ていなくて……。怪我はなかったですか?」
男は顔を上げると、心配そうに弥吉を見た。
常に微笑んでいるような優しげな目をした男だった。
「俺は全然大丈夫です! 本当にすみません……。荷物もこんなに散らばっちゃって……」
弥吉は手を伸ばして男の体を起こすと、辺りを見回した。
散らばっていたものは、ほとんどが紙だった。
弥吉の目に、紙に描かれた絵が映る。
それは地獄絵のように見えた。
炎の中で悶え苦しむ人々を中心に、笑いながら人を刺している鬼や怒りをあらわにしながら人の首を斬る鬼が描かれている。
「これは……」
弥吉は思わず呟く。
「あ、ごめん。変なものを見せてしまったね!」
男は慌てて散らばった紙を拾い始めた。
「あ、いえ……とても上手いですね……。もしかしてこの近くの長屋に入る絵師の方ですか?」
弥吉も慌てて男の隣で紙を拾い集めた。
「あ、実はそうなんだ……。ごめんね。こんな気味の悪い絵を描く人間が近くに来ちゃって……」
男は申し訳なさそうに言った。
「え、いえ全然そんなことは……! 確かに少し驚きましたけど、すごく上手いと思いました! これは、地獄絵というやつですよね?」
弥吉は絵を見つめると、そう言った。
弥吉の言葉に、男は動きを止める。
「地獄絵……か……」
男はどこか悲しげに微笑んだ。
「これは……この世の絵だよ……」
「この世?」
弥吉は眉をひそめる。
男は絵を見つめると、静かに口を開いた。
「ああ。私の目に映る……この世を描いた絵なんだ……」
苦しそうに呟く男に、弥吉は何も言うことができなかった。