咲耶はひと月ぶりに部屋を訪ねてきた信と向かい合っていた。
「それで……その刺された男は……?」
 咲耶は自分の声が震えていることに気づいた。
 信から長屋の前で起こった出来事を聞かされ、咲耶の顔からは完全に血の気が引いていた。
 信はちらりと咲耶を見た後、静かに目を伏せると首を横に振った。
「弥吉を長屋の中に運んでいたから、後は追っていない……」
「そうか……」
 咲耶も静かに目を伏せた。

(屋敷に招かれたときに何かあるとは思っていたが、こんなやり方とは……)
 咲耶は拳を握りしめた。

「弥吉には……どう説明したんだ……?」
 咲耶は信に視線を戻した。
「何も……。何も話していない」
 信は目を伏せたまま答える。
「弥吉に何も聞かれなかったのか……?」
「ああ」
 信は小さく頷いた。

 弥吉は一日仕事を休んだが、今日はいつも通り玉屋に来ていた。
(どうりで顔色が悪いと思った……)
 咲耶は小さく息を吐く。
 弥吉は今日信が玉屋に来ることを咲耶に告げに来たが、昨日起こったという出来事については何も話さなかった。
「弥吉には……おまえのこと、話した方がいいんじゃないか?」
 咲耶の言葉に、信の瞳がかすかに揺れた。
(話すのが怖いのか……)
 咲耶は信を見つめる。
 信の口がかすかに動いたが、そこから言葉が出ることはなかった。

「大丈夫だ……。おまえが思うよりずっと、弥吉はおまえのことを想っている。何を聞いても受け入れるつもりでいるはずだ」
 咲耶はそう言うと、かすかに微笑んだ。
 信はゆっくりと視線を上げたが、その目はすぐにそらされた。

 昨日の出来事をまだ受け止めきれていないのか、信の顔はどこか苦しげだった。
(当然か……。自分が殺した男の子どもがやってきたり、姉の死の真相がわかったり、あまりにも多くのことがありすぎた……)

 咲耶は目を伏せる。
(信の姉は……殺されたわけではなかったのか……)
 信を自由にするために、姉が自ら命を絶ったという事実を、信が受け入れられていないのは明らかだった。
(信を庇って刺された男との関係はよくわからないないが……。姉の最期の言葉を伝えに来たことを考えると、信の姉のことを大切に想っていたのだろうな……)
 咲耶はため息をつく。

「信……」
 咲耶は信を真っすぐに見つめた。
「もうやめないか……? もうおまえの手を血で汚す必要はないだろう?」
 咲耶の言葉に、信の瞳が揺れる。

「おまえの姉の願いは、おまえが自由になることだ……。信を庇った男も、おそらくそれを望んで姉の最期の言葉を伝えに来たはずだ。おまえはおまえが思う以上に周りの人たちに想われていた……」
 咲耶の言葉に、信は視線を落とした。
「それに……今は弥吉も……それに私も、おまえのことを想っている……。私たちは、信に何にも縛られずに、ただ自由に笑って生きてほしいんだ……」

 信の瞳は畳を見つめたまま動かなかった。

「どう生きるかは信が決めることだ。ただ、わかっていてほしいのは、私たちはおまえの幸せを願っているってことだ。それは忘れないでくれ」
 信は下を向いたままだったが、咲耶は信に届くように強く力を込めて言った。

 信はしばらくそのまま視線を落としていたが、やがて静かに立ち上がった。
「また来る……」
 信は視線をそらしたまま、咲耶にそう言うと背を向けて襖に向かった。

「信!」
 咲耶は信を呼んだ。
 信は襖に手を掛けたまま足を止める。

「もう二度と、命を投げ出そうとするなよ」
 咲耶はそう言うとフッと笑った。
「おまえが投げ出そうとしても、死なせてなんてやらないからな」

 咲耶の言葉に、信の肩がピクリと動く。
「想われるっていうのはそういうことだ。これは、おまえが私に教えてくれたことだろう? 裏茶屋で私を助けてくれた……。弥吉も私も、おまえの手を離さない。だから、覚悟しておけよ」

 信はわずかに首を動かしたが、振り返らずにそのまま部屋を後にした。

 閉まった襖を見つめながら、咲耶は息を吐いた。
「少しは……伝わっただろうか……」
(少しでいいから伝わっていてほしい……)
 咲耶はそう願いながら、静かに目を閉じた。