信はただ静かに叡正と将高を見ていた。
 二人の様子から鈴が息を引き取ったのがわかった。

『ねぇ、信……。私のことはいいから、あなただけでも逃げて』
 鈴の姿に信の記憶が重なっていく。
 懐かしい声とともに焦点の合わない瞳が信を見ていた。
『あなただけなら逃げられるでしょう? 私のために危ないことはもうしないで』
 信を探すように伸ばされた手を信がそっと掴もうとすると、その手は指先から黒い炭になって崩れ落ちた。

「おい、信。どうした?」
 良庵が怪訝な顔で信を見た。
「……なんでもない」
「……そうか? ならいいけど……。おまえも疲れてるんじゃないか?」
「大丈夫だ」
 信はそう言うと戸口に向かった。
「もう行くのか?」
「ああ。俺はこれからやることがある。鈴は明日連れていくから」
 信は振り返らずに言った。
「ああ、わかった」
 良庵の返事を聞くと、信は静かに長屋を後にした。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 咲耶は部屋で夜見世に出る準備を始めていた。
 髪を結い、化粧を終えた咲耶は、帯が崩れないようにゆっくりと立ち上がる。
(無事に会えただろうか……)
 咲耶が窓に近づこうとすると、襖の向こうから緑の声が響く。
「花魁、信様をお連れしました」
 咲耶が返事をすると、信が部屋に入った。
 信は珍しく顔色が悪そうに見えた。
 緑は信を案内すると一礼して外に出ると襖を閉める。

「信、ありがとう。……間に合ったか?」
「ああ」
 咲耶はそっと胸をなでおろした。
「信は大丈夫か? 少し顔色が悪いぞ」
 咲耶は信に近づき、顔をのぞき込む。
「問題はない」
 信は淡々と答えた。
「それならいいが……。信、本当にありがとう。かなり無理をさせてしまったから、今日はもう帰ってゆっくり休んだ方がいい」
 咲耶が微笑んで言うと、信は静かに首を横に振った。
「いや、やることがある」
 信は鋭い眼差しを咲耶に向ける。
「見つけた……」

 咲耶は目を見開く。
「……誰だ?」
「菊乃屋の楼主」
 咲耶は目を伏せた。流れてくる噂から咲耶も疑ってはいたが、ずっと確証が得られていない人物だった。
「どうしてわかったんだ?」
「美津という女が言っていた」
(ああ、美津か……)
 咲耶が美津と話したときにはその話しは出ていなかった。
「今夜、動く」
 咲耶は言葉が見つからず、ただ信を見つめた。
「……無理はするな」
 咲耶はなんとかそれだけ口にした。
 信がどのように生きてきたか少し知っているだけに、咲耶は軽々しく止めることができなかった。
「ああ。鈴は明日連れていく。どこに行けばいい?」
「あ、ああ……」
 咲耶は思い出したように、部屋の隅にある棚に向かい紙を取り出した。
「ここに頼む」
 信は紙を広げてしばらく見つめる。
「わかった」
 信はそれだけ言うと、咲耶の部屋から去っていった。
 咲耶はひとりになった部屋で息を吐く。
 どうすれば信を救えるのか、咲耶はずっと考えていた。
 しかし、答えはわかっている。救う方法などない。
 何より信が救われることを望んでいないのだ。
 咲耶はもう一度長い息を吐き、気持ちを切り替えた。
「さぁ、仕事だ」

 道中のため見世の外に出ると、すでに陽は落ちて通り沿いには灯りがともっていた。
 舞い散る桜が幻想的で妖しげな雰囲気を醸している。
(桜ももう終わりか……)
 桜の見頃は短い。しかし、その儚い美しさが人を惹きつけるのだろう。
 咲耶はいつも以上に多い観衆を意識しながら、一歩ずつ歩みを進めた。

 引手茶屋の座敷に着くと、頼一が咲耶を見て優しく微笑むと軽く手をあげた。
「今日は一段と人が多かったようだな」
 頼一は酒を飲みながら咲耶に言った。
 咲耶は頼一の横に腰を下ろす。
「桜がもうすぐ散りますからね。夜桜の中の道中はあと数回だと思うので、見に来る方も多いのでしょうね」
 咲耶は微笑んで、頼一に酌をする。
「もうそんな時期か……」
「はい」
 咲耶と頼一は窓から外を見る。
 灯りに照らされて、桜が白く妖しく揺らめいていた。
「頼一様」
 咲耶は頼一を見て言った。
「またひとつお願いがあるのですが……」
 咲耶は申し訳なさそうに頼一を見る。
 頼一は苦笑した。
「私が咲耶の願いを無下に断れないとわかっているだろう」
 咲耶は嬉しそうに微笑むと、頼一に少し無理なお願いをした。