「ど、どうして……!」
 唐突に、少年の戸惑った声が響く。
 背中に短刀が刺さるのを待っていた信は、思わず振り向いた。

 信の後ろに、少年はいなかった。
 そこには、見知らぬ男が立っていた。
 信は何が起きたのかわからず、言葉を失う。

 見知らぬ男の向こうに、青ざめた顔の少年が見えた。
 後ずさる少年の手には、血まみれの短刀が握られていた。
(この男が……俺を庇ったのか……?)
 信は男の背中を見つめる。
(誰だ……この男は……)

 そのとき、ふいに男が振り返った。
 男は信を見てフッと笑う。
「やっぱり近くで見ると……おまえら姉弟は……そっくりだな……」
 信は、男の声に聞き覚えがあった。
(あ……夢の……。あのときの……)

「あなたは……」
 信が茫然と呟くと、男は小さく微笑んだ。

 男は何も言わずに少年の方を向くと、傷口を押さえながら少年に近づいていった。
「どうして……そんな……! 私は……関係のない人を……!」
 少年の顔色はますます悪くなっていた。

「おまえは悪くない……」
 男は、短刀を握る少年の手を取った。
「実は……おまえの父親を殺すように言ったのは……俺なんだ……」
「え……?」
 少年は目を見開く。
「悪かった……。幸せそうなおまえの父親が妬ましかったんだ……。あの薄茶色の髪のやつを脅して……俺が殺させた……。本当に悪かった……。あいつの姉を人質にして、殺すように命じたのは俺だ……。あいつは関係ない……。だから、おまえの復讐は終わったんだよ……」
「復讐が……終わった……?」
 少年は茫然と呟く。
「ああ、そうだ。だから、もうおまえは逃げろ……。おまえには、まだ……守るものがあるんだろ……? 誰かに見られる前に……逃げるんだ……」
「逃げ……?」
 少年は驚き、手に持っていた短刀を落とした。
「早く逃げろ……。おまえが捕まれば……あの屋敷がどうなるか……わかるだろう……?」
 少年は弾かれたように顔を上げた。
 震える足で後ずさると、少年は視線をしばらく男に残したまま、もつれる足で走り出した。
 少年が遠ざかり背中が見えなくなると、男は地面に膝をついた。

 茫然と二人を見ていた信は、ようやく我に返り、弥吉をその場に寝かせると男に駆け寄った。
「どうして……俺を……」
 信は男を見る。
 傷自体は深くなさそうだったが、男の腹は血に染まっていた。
(刺された場所が悪いな……)
 信は男の傷口に押さえる。
「早く医者に……」
 信がそう呟くと、男は信の手首を掴み、静かに首を横に振った。

「俺は……これから行くところがあるんだ……。医者はいい……。それより伝言を……」
「伝言……?」
 信は眉をひそめる。
「百合から……。おまえの姉からの伝言だ……」
「姉……さん……?」
 信は目を見張った。

「ああ」
 男は優しげに微笑んだ。
「あいつは……おまえが仕事で失敗したから殺されたんじゃない。自分で……命を絶ったんだ。おまえを自由にするために……」
 信は目を見開いた。
(姉さんが……自分で……?)

「百合からの伝言だ。『もう自由になって』『それが私の望みで、願いだから』だとさ……」
 信は茫然と男を見つめる。
「おまえが……人の温かさに触れて……ちゃんと笑えるようになってほしいってさ……。あいつの……最期の願いだ……。だから、もう……自由になれ……。お館様のことも……鬼の刺青のやつらも……もう全部忘れろ……」
 男は信を真っすぐに見た。
「どうせ俺たちが行き着くのは地獄だ……。それなら、死ぬ前に少しくらい……自由に生きてみろ……」

 信は何も応えることができなかった。

 男はフッと笑うと、傷口を押さえゆっくりと立ち上がった。
「それじゃ、俺はもう行くよ……。間に合わなくなると……困るからな……」
 男はそう言って微笑むと、傷を負っているのが嘘のように軽やかな動きで走り出した。
 男の姿はあっという間に、信の視界から消えた。

 信はただ茫然と、男が去っていった方を見ていた。
(姉さんが……自分で命を絶った……?)
 信は自分の手を見つめる。
 信の手は、男の血が赤く染まっていた。
(俺は……)
 信は手を下ろすと、静かにうつむいた。
 自分がどうするべきなのか、もう信にはわからなかった。