目を覚ました信は、布団の上でゆっくりと体を起こした。
(また……同じ夢か……)
 信は片手で顔を覆うと、息を吐いた。
 長屋の中は静かだった。
(弥吉は……仕事か……?)

 そのとき、長屋の外からかすかに声が聞こえた。
(弥吉……?)
 弥吉は誰かと話しているようだった。
 戸の障子には、弥吉の影が映っている。
(弥吉は誰と……)
 信はゆっくりと立ち上がると、戸に近づいた。

「……帰ってきたら、母にも聞いてみますね」
 障子越しに弥吉の声が聞こえる。
(母……?)
 信は眉をひそめる。
「いえ、ぜひ直接お話しが聞きたいです。中で待たせてもらえませんか?」
 弥吉とは別の声が、信の耳に届く。
 その声色はひどく冷たかった。
(この声……)
 信は目を見開く。

『よくもお父様を……!』
 信の頭の中で憎しみに満ちた声が響く。
(この声は……あのときの……)
 信は静かに目を閉じた。
(俺を……追ってきたのか……)

「あの……、それは……!」
 弥吉の声はうわずっていた。

(ああ、俺を隠そうとして……)
 信はゆっくりと目を開ける。
 信は心を決めると静かに戸を開けた。

「もういい、弥吉」
 信は弥吉の背中にそう言うと、弥吉と向かい合うように立っていた少年に目を向けた。
 少年の目は見開かれ、その顔が憎悪で歪んでいく。

(ああ、やはり……)
 少年はあの日、信に刀を向けた子どもだった。
 信は弥吉の肩に手を置き、もう一度弥吉に声を掛けると、静かに弥吉の前に出た。

 少年は警戒するように後ずさり、信と距離をとる。
「やはり……ここに……!」
 少年が憎しみのこもった眼差しを信に向ける。
「生きていたんだな……! この人殺しが……!」

 信は静かに目を伏せた。

「ずっとおまえに聞きたかった……。どうして、おまえはお父様を殺したんだ……?」
 少年は怒りを押し殺した声で言った。
「あの優しいお父様が、おまえに一体何をしたって言うんだ……? お父様が死んだことで、お母様は心を病んで倒れた……。屋敷を支えてくれていたはずの人たちも離れていって、屋敷はもうめちゃくちゃだ……。なぁ、一体お父様にどんな恨みがあったっていうんだ……?」

 信は目を閉じた。
 信には何も答えることができなかった。
 重苦しい沈黙が辺りを包む。
 少年は奥歯を噛みしめた。

「……ふざけるな! ちゃんと答えろよ!! せめて納得できる理由なら……それなら……」
 少年は震える手を着物の懐に入れる。
 懐から出した少年の右手には、短刀が握られていた。
 短刀の鞘がゆっくりと地面に落ちる。
「こんなことしなくてもって……少しだけ……思っていたのに……!」
 短刀の刃先が信に向けられる。

「信さん……!」
 信の後ろで弥吉が声を上げる。

「もう一度だけ聞く……。どうして……殺したんだ……?」
 少年は両手で短刀を握りしめ、信を睨む。
 信はやはり何も答えられなかった。
「そうか……わかった……」
 少年は短刀を握る手に力を込めた。

 少年が一歩踏み出したとき、信は勢いよく後ろに腕を引かれた。
 信は突然のことに、思わず後ろによろめく。
(……!?)
 気がつくと、信の前には弥吉が立っていた。
「……弥吉?」
 信は目を見開く。
 弥吉は信を庇うように、少年と信のあいだで両手を広げた。

 その様子を見て、少年はハッとしたように足を止める。
「おい……! おまえは……何も関係ないだろ! 邪魔するな……!」
 少年が叫んだ。
 弥吉は首を横に振る。
 呆気に取られていた信は、ようやく我に返った。
「弥吉、もういい……」
 信が弥吉の肩を掴むと、弥吉は勢いよく振り返った。

「何がいいんだよ!?」
 弥吉の目には涙が溢れていた。
 信は目を見開く。
「ひとりで納得して死のうとするなよ!? もういいって何がいいんだ!? 俺はよくない! 全然よくない!!」
 弥吉の頬を涙が伝う。

 呆然としていた少年は、戸惑いながら口を開く。
「そいつが何をしたか……知らないからそんなことが言えるんだ……」
 弥吉は少年に視線を戻した。
「知らねぇよ! ……何も知らないけど……大事なんだから仕方ないだろ! 目の前で死なれるくらいなら……俺が死んだ方がマシだって……そう思っちまうんだから!」

 弥吉の言葉に、少年の顔が歪む。
「……ふざけるなよ……。お父様を殺したそいつに……生きる資格なんてあるはずないだろ……!」
 少年はそう言うと、短刀を握りしめて駆け出した。

「……弥吉!」
 信は強く弥吉の左腕を引くと、首の後ろを叩き弥吉の意識を奪った。
「すまない……」
 信は絞り出すように小さく呟くと、弥吉を庇うように抱きしめ、少年に背中を向けた。

(これでよかったんだ……)
 信は静かに目を閉じ、そのときを待った。