「今……なんて言った……?」
 小屋の中でいつものように百合と話していた藤吉は、思わず聞き返した。
 百合はなんでもないことのように微笑む。
「信を解放しようと思います」
「違う……! その後だ」
 藤吉の口調は自然と荒くなっていた。
「だから私は…………死ぬことにしました、と言いました……」
 百合はそう言うと、どこか申し訳なさそうに微笑んだ。

「どうして、そんな……!」
 藤吉は百合の手首を掴む。
 百合は悲しげな顔でこちらを向いたが、藤吉は続く言葉を見つけられなかった。
 信を自由にする手段がそれしかないことは、藤吉にもわかっていた。
 藤吉は奥歯を噛みしめる。

(どうして突然そんな……)
 先ほどまで藤吉と百合はごく普通の会話をしていた。
 いつも通りなんでもないことを話しをしていたとき、空を見つめて百合が世間話をするように言ったのが死ぬことだった。

「おまえに冗談の才能はねぇって言っただろ……?」
 藤吉は絞り出すように言った。
 藤吉の言葉に、百合は悲しげに微笑むと静かに首を横に振った。
「冗談を言ったつもりは……ありません」
「どうして突然……そんな……」
「ずっと考えてはいたのです……。むしろずっと先延ばしにして……ここまで来てしまいました……」
「だったら……!」
 藤吉は片手で顔を覆った。
「このままずっと先延ばしにできるだろう……。どうして今……」

「そうですね……。今話したのは……」
 百合はそう言うと、窓から空を見た。
「幸せだな……と感じたからでしょうか……」
 百合はどこか寂しげに笑った。
「意味がわからねぇ」
 藤吉はなんとかそれだけ口にした。
 百合は少しうつむくと、手首を掴んでいた藤吉の手に自分の手を重ねた。
「このままではダメなんです……。このままでは……弟が壊れます。信を、もう私から解放したいのです……。信の孤独も苦しみも、すべて原因は私です。もう自由に生きてほしい……。人の温かさに触れて……ちゃんと心から笑ってほしい……」
 百合の手の甲に雫が落ちた。
 藤吉は顔を覆った指のあいだから、百合の顔を見た。
 百合の目からは、とめどなく涙がこぼれていた。

「私が死んだ後、信に伝えていただけませんか……? 『もう自由になって』と……。それが私の望みで、願いだからと……。お願い……できませんか……?」
 百合はそう言うと、藤吉の方を向いた。

 藤吉は目を見張った後、強く瞼を閉じた。
「……わかった」
 百合は安心したように微笑む。
「ありがとうござい……」

「逃がしてやる」
 藤吉は百合の言葉を遮ると、はっきりとした声で言った。
「……え?」
 百合がわずかに目を開いた。
「俺が……おまえを逃がしてやる」
 百合の目がゆっくりと見開かれ、瞳が揺れる。
「そんなこと……」
 百合がかすれた声で呟いた。

 百合の涙が止まったのを見て、藤吉はかすかに微笑んだ。
「まぁ、おまえひとりじゃ心配だからな、俺もついていく」
「え……?」
「俺も一緒に行くって言ってんだ。ちょうど、ここでの暮らしに嫌気がさしてきたところだったからな」
 百合はこぼれそうなほど目を見開くと、藤吉の手を掴んだ。
「ダメです、そんな……! 私は……もう誰にも迷惑を掛けたくないんです! 私は……これまで何もしてこなかったので……本当に何もできません……! 私は……藤吉さんの足を引っ張る荷物にしかならないのです……」
 百合はそう言うと、静かに唇を噛んだ。
 藤吉はゆっくりと百合の手に、自分の手を重ねた。

「何も、って俺の話し相手にはなってくれるんだろう?」
 藤吉はそう言うとフッと笑った。
「別に何もしなくたっていいけど、何かしたいならこれからできるようにすればいい話だろう?」

 百合は弾かれたように顔を上げた。
 見開かれた薄茶色の瞳に、藤吉の顔が映り、涙の中で揺れていた。
 百合の唇がかすかに動いたが、百合は何も言わなかった。

「どうしてもう手遅れみたいな言い方なんだ? 俺だってできないことはあるし……。一緒にできるようにしていけばいいだけじゃねぇのか? そうやって生きていくものだろ?」

 百合は震える手で十字架を握りしめると、見開いた目を細め、少しだけ微笑んだ。
 目に溜まっていた涙が静かに頬を伝う。
「そうですね……。それは……すごく……すごく素敵なお話です……。少し……考えてみます」

「ああ、考えてみてくれ」
 藤吉はそう言うと少し笑った。
「俺と一緒が嫌だったら、ひとりでってのも別にありだから。よく考えろ」
 藤吉は百合が頷くのを確認すると、静かに手を離した。
「さぁ、そろそろ俺は戻らねぇと……」
 藤吉はゆっくりと立ち上がった。

「あ、引き留めてしまってすみません……」
 百合は涙を拭うと、申し訳なさそうに藤吉を見た。
「いや、俺が勝手にいただけだから気にするな」
 藤吉はそう言うと百合に背を向け、いつものように片手を上げて手を振った。
「じゃあな」
 藤吉が小屋の戸に向かって歩き始めたところで、後ろから声が響く。
「はい。では、また……」
 百合は静かに言った。
 藤吉は思わず足を止めて振り返る。

 窓から光が差し込み百合を照らしていた。
 微笑む百合にかすかな違和感を覚えながら、藤吉にはそれが何かわからなかった。
「ああ……、また明日来る。じゃあ、またな」
 藤吉はそう言うと、百合に再び背を向け小屋を出た。

(大丈夫……。きっとあいつは……)
 藤吉は空を見上げ、自分に言い聞かせるように、心の中で何度も何度も呟いた。