鈴は夢を見ていた。
 鈴は幼い姿に戻っていて、屋敷には父や母がいて兄もいる。
 庭にある大きな桜は満開で、散っていく桜を見てはしゃぐ鈴を兄がたしなめる。
 そんな二人を見て、父と母が顔を見合わせて微笑んでいた。
 温かくて心地よくて、ずっとここにいたいと鈴が思ったとき、喉にこみ上げるものがあり鈴は咳き込んだ。

 うっすらと意識を取り戻した鈴が目を開けるとそこには見覚えのない天井があった。
(そうだ……。私はここに運んでもらって……)
「大丈夫か?」
 良庵はそう言うと鈴の顔をそっと拭いた。
 おそらく咳き込んだとき、顔に血がついていたのだろう。
「ありがとう……ございます」
 鈴はお礼を口にしたが、かすれた声しか出なかった。
(夢だと思ったけど、もしや今のは走馬灯というものなのだろうか……)
 そう考える眠ることが怖くなり、鈴は何か話さなければと口を開いた。
「もうすぐ……お兄様が来るんですか……?」
「ああ、俺はそう聞いてる」
「……お兄様には…会いたいけど……恥ずかしくて……」
 鈴はそう言うと手をゆっくりと動かし、左頬に触れた。
「こんな…ふうだし……」
 赤く腫れあがった腫瘍は梅毒の象徴だった。
「妹が死にかけてるときにそんなこと気にしないと思うが、おまえは気になるんだろうな……」
 良庵はそう言うと立ち上がり、奥に行ってしまった。
(死ぬ直前までそんなことを気にして…呆れられちゃったかな……)
 鈴が目を伏せていると、奥から良庵が戻ってきた。
 良庵はそっと鈴の頭を片手で持ち上げると、柔らかいもので包んだ。
「この布なら薄くて通気性もいいから顔に巻いてもいい。兄貴が来たら頬も口元も隠してやるから、もう気にするな」
「ありがとう……ございます……」
 鈴の瞳が涙で濡れる。
「ほら、泣くな。泣くと体力を消耗するんだよ」
 良庵が呆れたように言う。
「はい……すみません」
 鈴は泣きながら笑った。

 そんな会話をしていると、長屋の戸を叩く音が聞こえた。
 良庵は鈴の頬と口元を布で覆うと立ち上がり、戸口に向かう。
「信か?」
「ああ。連れてきた」
 良庵が戸を開ける。
 信に続いて、将高と叡正が長屋に入った。
 横になっている鈴の両側に将高と叡正がゆっくりと近づく。
 鈴は順番に二人に目を向けた。
「将高……お兄様……」
 鈴は七年ぶりに見る兄をまじまじと見つめた。
 七年前よりもずっと凛々しく美しくなったその姿を見ながら、鈴は涙とともになぜか笑いがこみ上げてくるのを感じた。
「ふ……ふふ……」
 小刻みに震え始めた鈴を見て叡正が慌てて声をかける。
「だ、大丈夫か!?」
「ふふ……大丈夫…なわけ……ないでしょう」
 鈴はついに声を出して笑い始めた。
 将高と叡正はあっけにとられた表情で鈴を見る。
「死ぬ寸前……なんだから……」
 鈴は少し咳き込みながら、それでもまだ笑っていた。
「なんで……そんなカッコいいの……。ちょっとでも……綺麗に見せようとした……私が…馬鹿みたいでしょ……。……でも、…元気そうで、安心した」
 鈴はそう言うと呼吸を落ち着けるために息を吐いた。

 鈴はまず将高の方に顔を向ける。
 よほど思い詰めていたのか、将高の顔色はとても悪かった。
「将高……ごめんなさい……。一緒に死のうって……言ってくれて嬉しかった……。でも、わがまま言っても……いい?」
 将高は鈴の手を握り頷いた。
「お願い、死なないで……。私のことを……ときどきでいいから……思い出しながら生きて。……そっちの方が……嬉しいの……」
 将高の瞳から涙がこぼれる。
「ああ……一生、鈴だけを想って生きる」
「ふふ……それじゃあ、重すぎて成仏できない……から…やめて」
 鈴の笑顔を見て、将高も泣きながら少しだけ微笑んだ。

 鈴はゆっくりと叡正の方に顔を向ける。
「お兄様……、私…今……こんなふうだけど、……悪くなかったよ……。将高にも会えたし……同じ見世で美津って……友達もできたの……。この人生じゃなきゃ……会えなかったから……。悪くなかった。だから……お兄様も……ちゃんと…生きて。悔いが残らない…ように……私の分も……笑って生きて」
 鈴はそう言うと叡正に手を伸ばした。
「抱きしめて…くれる……?お兄様……」

 叡正は鈴の体を起こしていいか確認するように良庵を見る。
 良庵は静かに頷いた。
 叡正は慎重に鈴の頭と肩を支えながらゆっくりと上半身を起こすと、壊れものに触るようにそっと抱きしめた。

「将高……、手……つないでくれる……?」
 叡正に抱きしめられたまま、鈴は将高に手を伸ばした。
「……ああ」
 将高が鈴の手を握る。

 鈴は夢を見始めていた。
『必ず鈴を自由にするから。もう少し待っていてほしい』
 とても温かい手が鈴の手を包んだ。
 少年らしいあどけない顔を少し赤らめている将高の横顔が見える。
(懐かしい夢……)

『どのようにでも生きていけるなら、私は鈴と生きていきたい!』
(ああ……夢なのに涙が出そう)

 気がつくと、幼い鈴は兄に抱きしめられている。
 兄の後ろには燃え上がる屋敷がある。
『大丈夫だ…おまえは絶対俺が守るから! 絶対に…守るから!』
(お兄様……)
 すべてが燃えていた。
 幼い鈴はそっと兄の背中に手を回す。
『お兄様は……私が守るからね』
 幼い鈴の小さな呟きは兄の耳には届いていないようだった。

『鈴!』
(あれ、お兄様の声が聞こえる)
『ほら、帰るぞ!』
 鈴のそばには、いつのまにか父と母がいた。
 二人の後ろには桜が美しく舞っている。
 兄がひとり屋敷に向かって走り出す。
『待って!』
 幼い鈴は駆け出して、兄に抱きついた。
 屋敷には微笑み合う将高や美津の姿もあった。


「ふふ……あったか…い……」
 そう呟くと、鈴の体から力が抜けた。
 叡正はずっしりとした重みに、腕の中から命がこぼれ落ちたのを感じた。
 茫然と鈴を抱きしめ続ける叡正の耳に、将高の慟哭(どうこく)だけが響いていた。