吉原の大門が閉まる少し前、信は吉原に入った。
信が向かったのは玉屋でも菊乃屋でもなく、吉原の端にある切見世の長屋だった。
いつもは賑っている吉原も、大門がまもなく閉まる時間とあって人影は少ない。
信は切見世のひとつの戸の前で足を止めた。
中からは激しく咳き込む音が聞こえている。
信は静かに戸を開けて中に入った。
座敷の奥で布団に横たわる人影が気配を感じて息を止めたのがわかる。
「あの……、今日は…もう休ませていただいていて……」
息を整えながら、女が言った。
「鈴か?」
信が戸口に立ったまま聞いた。
鈴はゆっくりと体を起こす。
「どなた……ですか?」
「おまえの兄が探している」
「お兄様が!?」
鈴は声を大きくした途端にまた激しく咳き込んだ。
「大丈夫か?」
信は鈴に近づいて、横にしゃがみこむ。
「は……はい……」
鈴は顔を上げる。
鈴の左頬は腫瘍によって赤く盛り上がっていた。
口元と手のひらは血で染まっている。
「お見苦しいところを……お見せして……」
鈴は力なく微笑み、枕元にあった布で手のひらと口元の血を拭った。
「見苦しくない。大丈夫か?」
鈴は信を見て微笑むと首を縦に振った。
「とりあえず、ここを出るぞ」
信が立ち上がる。
「ここをですか? ……私はまだここで働かないと……」
鈴は目を伏せる。
信はただ静かに鈴を見ていた。
「いいのか?」
信は抑揚のない声で聞く。
「おまえ、もうすぐ死ぬぞ。悔いはないのか?」
鈴は弾かれたように顔を上げた。
唇をかみしめて信を見る。
「……行くか?」
信は手を差し出した。
鈴はしばらくためらった後、そっと信の手を取った。
ゆっくりと立ち上がると信に手を引かれて長屋の外に出た。
「あ、待って」
鈴は足を止める。
「あの明日、私に会いに人が来ることになっていて……」
「ああ、美津という女から聞いている。明日俺から説明しておく」
鈴は目を見開く。
「美津に会ったんですか? 美津は……元気でしたか?」
鈴は縋るように信を見た。
「ああ、おまえよりはだいぶ元気そうだった」
信は淡々と答えた。
鈴は少し笑う。
「そうですか。よかった……」
信は長屋の裏に置いてあった荷車を持ってくると、荷台を指して鈴に横になるように言った。
鈴はためらいながら、荷台に横たわる。
「あの……これはもしかして……」
信は何も言わず上からゴザのようなものをかけた。
「あ、やっぱり……」
「おい! そこで何してる!?」
男が声を荒げて信に近づく。
「なんだこれは!?」
男は荷車を指差して言った。
「あそこの女が死んだんで、投げ込み寺に捨ててこようかと」
信はいつも通りの口調で答える。
男が少したじろぐ。
「おまえ……、よくそんな淡々と……」
「見ますか?」
信が鈴にかかったコモをめくろうとする。
「いや! いいよ! 見たくはない!!」
男が全力で止める。
「もうすぐ死ぬだろうとは思ってたし、捨ててきてくれるなら有難い……。もう行っていいぞ!」
信は頭を下げると荷車を引いて大門に向かう。
大門に着くと信は門番に止められた。
「その荷はなんだ?」
門番は怪訝な顔で荷台を見る。
「遊女が労咳で死んだので、投げ込み寺に捨ててくるように言われました」
門番はコモをめくる。
そこには着物や口元を血で汚し、髪を振り乱した土気色の顔の女が横たわっていた。その頬は腫瘍で赤く腫れ上がっている。
「こりゃ、ひどいな……」
門番は顔をしかめ、コモを元に戻すと、荷台に向かって手を合わせた。
「行っていいぞ」
信は頭を下げると荷車を引き、大門を出た。
吉原を出てしばらく進むと、鈴がコモをどけて顔を出した。
「こんなに簡単に出られるなんて……」
鈴は天を見たまま呟いた。
「おまえ、上手いな。本当に死んだかと思った」
鈴はふふっと笑う。
「本当に死にかけてますからね。咳き込んで血が出てたので、ちょうどよかったです」
「そうか」
信はそれだけ口にした。
「生きて……大門を出られるとは思っていなかったです」
「そうか」
「ああ……、風が気持ちいい……。あ、朧月……。明日は雨でしょうか?」
信も空を見上げた。
そこには雲ひとつかかっていない綺麗な満月があったが、信は何も言わなかった。
「綺麗……」
鈴の瞳からこぼれた一筋の光が、そっと荷台を濡らした。
「え……何それ?」
真夜中に叩き起こされた良庵は、戸口で信に問いかける。
視線の先にはコモが被せられた荷車があった。
「患者だ」
「え……死体だろ、それ……?」
「夜遅くに……すみません……」
どこからともなく女の声が聞こえ、良庵は辺りを見回す。
するとコモが捲れ、荷車の上で女がゆっくりと体を起こした。
着物は血で汚れ、髪は乱れ、頬を赤く腫れ上がらせた女は、申し訳なさそうに微笑んだ。
薄暗い夜道でその風貌に浮かんだ笑顔は、良庵にとって恐怖でしかなかった。
「ひぃ!!」
良庵が尻餅をついた。
「あ、すみません! 不用意に……声をかけない方がよかったですよね……」
女の慌てた声が聞こえた。
良庵は腰をさすりながら立ち上がると、もう一度そっと荷台を見る。
「何……生きてるの?」
「はい……、まだ生きてます……」
鈴は申し訳なさそうに微笑んだ。
良庵は信に視線を移すと、ため息をついて頭を掻いた。
「とりあえず、入れ。目立つから……」
良庵がそう言って促すと、信は鈴に肩を貸して長屋の中に入った。
良庵が敷いた布団の上に信が鈴を寝かせると、良庵は視線で信を呼んだ。
良庵と信は戸口まで移動する。
「おいおい、誰なんだよ、あれ! 俺は厄介ごとは御免だぞ! それに患者って、ありゃもう……いつ死んでもおかしくないだろ! 治療なんてできる段階じゃねぇよ」
良庵は声をひそめながら言った。
そのうちに死体になるだろう見ず知らずの女を置いていかれるなど冗談でも嫌だった。
信は表情を変えずに、懐に手を入れる。
「なんだ、金か? 金なんかいらねぇから、早く女を……」
良庵が言い終える前に、信が懐から手紙を出して差し出す。
「先生がそう言ったら渡せと、咲耶が」
良庵は怪訝な顔をしながら手紙を受け取ると読み始める。
しばらく文字を目で追っていた良庵は、しだいに自分の手が震え始めるを感じた。
(あり得ない! あの薬の葉が手に入ったって!? どれだけ手を回しても無理だった薬なのに……。しかもタダでくれる!? 条件は…………)
目を見開いて手紙を読んでいた良庵は、読み終えると静かに手紙を閉じた。
良庵は先ほどとは打って変わった爽やかな笑顔で信を見る。
「患者を診るのは医者の当然の仕事だ。喜んで受け入れるよ。信は疲れただろ? 茶でも飲んでいくか?」
「いや、俺は大丈夫だ。ありがとう」
「そうか。じゃあ、俺は女を診察してくる」
良庵はそう言うと軽い足取りで女の方へ歩いていった。
鈴は良庵が近づいてくる気配を感じて、布団から体を起こした。
「ごめんなさい……。ご迷惑を…おかけしてしまって……」
「ツラいだろ? 寝たままでいい。ちょっと具合だけ診させてくれ」
鈴は言われたとおり、再び布団に横になる。
「ありがとうございます……。ただ、私はもう……。今もこれがなかったらたぶん…話せる状態でもないと思うので……」
鈴はそう言うと胸元から薬包紙を取り出した。
(ああ……、そういうことか)
良庵は薬を見て、今の鈴の状態もおおよその事情も理解した。
(信が言ってた遊郭の件ね……)
良庵は静かに息を吐いた。
「あの……ご迷惑だと思うので、治療は必要ありません……。ただ少しだけ置いておいてもらえれば……。もうすぐ死ぬのは……わかっているので……」
良庵は鈴を見つめる。
良庵も人並に人間の情は持ち合わせているつもりだった。
再び息を吐いた後、良庵は鈴の乱れた髪をそっとなでる。
「……人間はみんないつか死ぬんだ。最後は死ぬのに、なんで医者なんてものが存在すると思う?」
鈴は不思議そうに良庵の顔を見つめた。
「最期の最後までちゃんと生きるためだよ。まだ会いたい奴や話したいことがあるんじゃないのか? あんまりお上品に生きてると最後に後悔するぞ。人間なら泥臭くても足掻いて生きて、薄汚くても笑って死にな」
鈴の見開かれた瞳にみるみる涙が溢れていく。
鈴は涙をこぼさないように歯を食いしばって頷いた。
「はい……!」
(あ~あ、本当にガラにもねぇ……)
良庵は頭を掻きながら、鈴の診察を始めた。
(まぁ、人生の最期に見るのが見ず知らずの薄汚いおっさんじゃ可哀そう過ぎるからな……。時間稼ぎくらいはしてやるよ……)
信はそんな二人の様子を眺めていたが、しばらくすると二人に気づかれないようにそっと長屋を後にした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
明け方、咲耶は客を大門まで見送っていた。
客に小さく手を振っていた咲耶は、客の姿が見えなくなると手を止め微笑みを消した。
「間に合ったか?」
咲耶は前を向いたままひとり呟く。
「ああ」
大門の影で信が答えた。
「そうか……」
咲耶はそっと息を吐いた。
「今は良庵が診ているのか?」
「ああ。ただ、いつまでもつかはわからない」
「……そうか」
咲耶は目を伏せた。
(約束の日が早まったのはよかったかもしれないな……)
「今日の昼……もし会えたらあいつも連れてきてくれ」
「わかった」
咲耶は信の返事を聞くと、身をひるがえして玉屋に戻っていった。
長屋の戸口にひとりの男が立ち尽くしていた。
昨夜まで鈴のいた長屋だった。
信はゆっくりと男に近づき声をかける。
「鈴を探しているのか?」
男がゆっくりと振り返った。
「……あなたは?」
鈴ほどではなかったが、男の顔色はひどく悪かった。
「一緒に死ぬつもりだったのか?」
信は男の問いかけに答えず聞いた。
男の目が見開かれる。
「どうして、それを……?」
「美津という女に聞いた」
「彼女から……?」
男は戸惑った表情を浮かべる。
「おまえは鈴の恋人なんだろう?」
「恋人……と呼べるかどうか……」
「鈴のために一緒に死のうとしたんだろう?」
将高は悲しげに微笑んだ。
「……自分のためです……。鈴を亡くして生きていく自信がなかったから……」
「そうか」
信は淡々と言った。
「生きるのも死ぬのも好きにしたらいい。ただ、鈴はまだ生きたいようだったぞ」
将高は弾かれたように顔をあげる。
「鈴は今どこにいるんですか? ……亡くなったんですか?」
将高は顔を歪める。
「まだ生きている。鈴のところに案内するから一緒に来てくれ」
信は将高に背を向けて歩き出す。
「ただ、その前に寄るところがある」
将高はとまどいながらも鈴に会うため、何も聞かず信の後を追った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
叡正は緑に案内され、咲耶の部屋に足を踏み入れた。
案内を終えた緑は、一礼して部屋を出ていく。
咲耶は窓辺に腰かけて、窓の外を見ていた。
まだ見世に出るのに時間があるためか、咲耶は長い髪を軽く後ろで束ね、長襦袢を着ていた。
「ああ、来たか」
咲耶は視線だけ叡正の方に向けて言った。
「もう少しだけ待ってくれ。……もう少しで役者が揃う」
咲耶は視線で叡正に座るように促した。
「妹は……妹は生きているのか……?」
緊張のせいか叡正の声がかすれる。
咲耶はゆっくりと立ち上がると、叡正の前に腰を下ろした。
「ああ、まだ生きている」
「……まだ?」
かすれる声で叡正が聞いた。
咲耶は少し困ったように目を伏せる。
「……生きてはいるんだな……。……会えるのか?」
叡正はすがるように咲耶を見た。
「ああ、これから案内する。詳しくは今から来る男に聞いてくれ」
「男……? 誰が来るんだ?」
咲耶は悲しげに微笑む。
「おまえがいないあいだ、妹を支え続けた恩人だ……」
咲耶がそう告げるのと同時に、咲耶の部屋の襖が開いた。
「来たか」
咲耶が小さく呟く。
そこには薄茶色の髪をした男と髷を結った若い男が立っていた。
髷を結った男は叡正の姿を見つけると、目を大きく見開く。
「永世様……?」
叡正は名を呼ばれ、髷を結った男を見つめ返した。
「……将高……なのか?」
叡正の家が取り潰しになる前に、たまに屋敷に遊びに来ていた可愛らしい少年の顔と、目の前の男の顔が重なった。
「永世様……」
将高の顔はみるみる青ざめていく。
「永世様……、誠に……誠に申し訳ありません!」
将高は崩れるように叡正の前に膝をつくと、頭を座敷にすりつけた。
「お、おい……」
訳がわからない叡正は、顔をあげてもらおうと将高の肩に手をかけた。
「鈴を守れず、誠に申し訳ありません……。母上がしたことも……私がしようとしたことも許されないことだとわかっています……。本当に、本当に申し訳ありません……」
将高は涙で声を詰まらせながら言った。
叡正はその姿に何も言えず、ただ将高を見つめる。
「将高といったか……」
落ち着いた声で咲耶が名を呼ぶと、将高は少し顔をあげた。
「こいつはまだ何も知らないんだ。妹の七年間のこと教えてやってくれ」
将高はハッとしたように叡正を見る。
将高は涙を着物の袖で拭うと、今度は真っすぐに叡正を見た。
「わかりました。私の知る範囲のことになりますが、すべてお話しします」
叡正はただ静かに将高の話しを聞いていた。
(将高は何も悪くない……。むしろ悪いのは七年も何も気づかなかった俺だ……)
将高の話しを聞き終えた叡正は、自分への怒りで震えていた。
「おい」
静まり返った部屋に咲耶の声が響く。
「後悔はあとにしろ。妹はまだ生きてるんだ。今できることをちゃんとしろ。時間はあまりないぞ」
咲耶はそう言うと信に視線を移した。
信は静かに頷くと、座り込んでいる叡正と将高の腕をとる。
「行くぞ」
信はそれだけ言うと部屋を出ていった。
将高と叡正はなんとか立ち上がると信の後を追う。
(そうだ……まだ生きている……)
叡正は顔を上げ、今度こそしっかりとした足取りで信の背中を追った。
鈴は夢を見ていた。
鈴は幼い姿に戻っていて、屋敷には父や母がいて兄もいる。
庭にある大きな桜は満開で、散っていく桜を見てはしゃぐ鈴を兄がたしなめる。
そんな二人を見て、父と母が顔を見合わせて微笑んでいた。
温かくて心地よくて、ずっとここにいたいと鈴が思ったとき、喉にこみ上げるものがあり鈴は咳き込んだ。
うっすらと意識を取り戻した鈴が目を開けるとそこには見覚えのない天井があった。
(そうだ……。私はここに運んでもらって……)
「大丈夫か?」
良庵はそう言うと鈴の顔をそっと拭いた。
おそらく咳き込んだとき、顔に血がついていたのだろう。
「ありがとう……ございます」
鈴はお礼を口にしたが、かすれた声しか出なかった。
(夢だと思ったけど、もしや今のは走馬灯というものなのだろうか……)
そう考える眠ることが怖くなり、鈴は何か話さなければと口を開いた。
「もうすぐ……お兄様が来るんですか……?」
「ああ、俺はそう聞いてる」
「……お兄様には…会いたいけど……恥ずかしくて……」
鈴はそう言うと手をゆっくりと動かし、左頬に触れた。
「こんな…ふうだし……」
赤く腫れあがった腫瘍は梅毒の象徴だった。
「妹が死にかけてるときにそんなこと気にしないと思うが、おまえは気になるんだろうな……」
良庵はそう言うと立ち上がり、奥に行ってしまった。
(死ぬ直前までそんなことを気にして…呆れられちゃったかな……)
鈴が目を伏せていると、奥から良庵が戻ってきた。
良庵はそっと鈴の頭を片手で持ち上げると、柔らかいもので包んだ。
「この布なら薄くて通気性もいいから顔に巻いてもいい。兄貴が来たら頬も口元も隠してやるから、もう気にするな」
「ありがとう……ございます……」
鈴の瞳が涙で濡れる。
「ほら、泣くな。泣くと体力を消耗するんだよ」
良庵が呆れたように言う。
「はい……すみません」
鈴は泣きながら笑った。
そんな会話をしていると、長屋の戸を叩く音が聞こえた。
良庵は鈴の頬と口元を布で覆うと立ち上がり、戸口に向かう。
「信か?」
「ああ。連れてきた」
良庵が戸を開ける。
信に続いて、将高と叡正が長屋に入った。
横になっている鈴の両側に将高と叡正がゆっくりと近づく。
鈴は順番に二人に目を向けた。
「将高……お兄様……」
鈴は七年ぶりに見る兄をまじまじと見つめた。
七年前よりもずっと凛々しく美しくなったその姿を見ながら、鈴は涙とともになぜか笑いがこみ上げてくるのを感じた。
「ふ……ふふ……」
小刻みに震え始めた鈴を見て叡正が慌てて声をかける。
「だ、大丈夫か!?」
「ふふ……大丈夫…なわけ……ないでしょう」
鈴はついに声を出して笑い始めた。
将高と叡正はあっけにとられた表情で鈴を見る。
「死ぬ寸前……なんだから……」
鈴は少し咳き込みながら、それでもまだ笑っていた。
「なんで……そんなカッコいいの……。ちょっとでも……綺麗に見せようとした……私が…馬鹿みたいでしょ……。……でも、…元気そうで、安心した」
鈴はそう言うと呼吸を落ち着けるために息を吐いた。
鈴はまず将高の方に顔を向ける。
よほど思い詰めていたのか、将高の顔色はとても悪かった。
「将高……ごめんなさい……。一緒に死のうって……言ってくれて嬉しかった……。でも、わがまま言っても……いい?」
将高は鈴の手を握り頷いた。
「お願い、死なないで……。私のことを……ときどきでいいから……思い出しながら生きて。……そっちの方が……嬉しいの……」
将高の瞳から涙がこぼれる。
「ああ……一生、鈴だけを想って生きる」
「ふふ……それじゃあ、重すぎて成仏できない……から…やめて」
鈴の笑顔を見て、将高も泣きながら少しだけ微笑んだ。
鈴はゆっくりと叡正の方に顔を向ける。
「お兄様……、私…今……こんなふうだけど、……悪くなかったよ……。将高にも会えたし……同じ見世で美津って……友達もできたの……。この人生じゃなきゃ……会えなかったから……。悪くなかった。だから……お兄様も……ちゃんと…生きて。悔いが残らない…ように……私の分も……笑って生きて」
鈴はそう言うと叡正に手を伸ばした。
「抱きしめて…くれる……?お兄様……」
叡正は鈴の体を起こしていいか確認するように良庵を見る。
良庵は静かに頷いた。
叡正は慎重に鈴の頭と肩を支えながらゆっくりと上半身を起こすと、壊れものに触るようにそっと抱きしめた。
「将高……、手……つないでくれる……?」
叡正に抱きしめられたまま、鈴は将高に手を伸ばした。
「……ああ」
将高が鈴の手を握る。
鈴は夢を見始めていた。
『必ず鈴を自由にするから。もう少し待っていてほしい』
とても温かい手が鈴の手を包んだ。
少年らしいあどけない顔を少し赤らめている将高の横顔が見える。
(懐かしい夢……)
『どのようにでも生きていけるなら、私は鈴と生きていきたい!』
(ああ……夢なのに涙が出そう)
気がつくと、幼い鈴は兄に抱きしめられている。
兄の後ろには燃え上がる屋敷がある。
『大丈夫だ…おまえは絶対俺が守るから! 絶対に…守るから!』
(お兄様……)
すべてが燃えていた。
幼い鈴はそっと兄の背中に手を回す。
『お兄様は……私が守るからね』
幼い鈴の小さな呟きは兄の耳には届いていないようだった。
『鈴!』
(あれ、お兄様の声が聞こえる)
『ほら、帰るぞ!』
鈴のそばには、いつのまにか父と母がいた。
二人の後ろには桜が美しく舞っている。
兄がひとり屋敷に向かって走り出す。
『待って!』
幼い鈴は駆け出して、兄に抱きついた。
屋敷には微笑み合う将高や美津の姿もあった。
「ふふ……あったか…い……」
そう呟くと、鈴の体から力が抜けた。
叡正はずっしりとした重みに、腕の中から命がこぼれ落ちたのを感じた。
茫然と鈴を抱きしめ続ける叡正の耳に、将高の慟哭だけが響いていた。
信はただ静かに叡正と将高を見ていた。
二人の様子から鈴が息を引き取ったのがわかった。
『ねぇ、信……。私のことはいいから、あなただけでも逃げて』
鈴の姿に信の記憶が重なっていく。
懐かしい声とともに焦点の合わない瞳が信を見ていた。
『あなただけなら逃げられるでしょう? 私のために危ないことはもうしないで』
信を探すように伸ばされた手を信がそっと掴もうとすると、その手は指先から黒い炭になって崩れ落ちた。
「おい、信。どうした?」
良庵が怪訝な顔で信を見た。
「……なんでもない」
「……そうか? ならいいけど……。おまえも疲れてるんじゃないか?」
「大丈夫だ」
信はそう言うと戸口に向かった。
「もう行くのか?」
「ああ。俺はこれからやることがある。鈴は明日連れていくから」
信は振り返らずに言った。
「ああ、わかった」
良庵の返事を聞くと、信は静かに長屋を後にした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
咲耶は部屋で夜見世に出る準備を始めていた。
髪を結い、化粧を終えた咲耶は、帯が崩れないようにゆっくりと立ち上がる。
(無事に会えただろうか……)
咲耶が窓に近づこうとすると、襖の向こうから緑の声が響く。
「花魁、信様をお連れしました」
咲耶が返事をすると、信が部屋に入った。
信は珍しく顔色が悪そうに見えた。
緑は信を案内すると一礼して外に出ると襖を閉める。
「信、ありがとう。……間に合ったか?」
「ああ」
咲耶はそっと胸をなでおろした。
「信は大丈夫か? 少し顔色が悪いぞ」
咲耶は信に近づき、顔をのぞき込む。
「問題はない」
信は淡々と答えた。
「それならいいが……。信、本当にありがとう。かなり無理をさせてしまったから、今日はもう帰ってゆっくり休んだ方がいい」
咲耶が微笑んで言うと、信は静かに首を横に振った。
「いや、やることがある」
信は鋭い眼差しを咲耶に向ける。
「見つけた……」
咲耶は目を見開く。
「……誰だ?」
「菊乃屋の楼主」
咲耶は目を伏せた。流れてくる噂から咲耶も疑ってはいたが、ずっと確証が得られていない人物だった。
「どうしてわかったんだ?」
「美津という女が言っていた」
(ああ、美津か……)
咲耶が美津と話したときにはその話しは出ていなかった。
「今夜、動く」
咲耶は言葉が見つからず、ただ信を見つめた。
「……無理はするな」
咲耶はなんとかそれだけ口にした。
信がどのように生きてきたか少し知っているだけに、咲耶は軽々しく止めることができなかった。
「ああ。鈴は明日連れていく。どこに行けばいい?」
「あ、ああ……」
咲耶は思い出したように、部屋の隅にある棚に向かい紙を取り出した。
「ここに頼む」
信は紙を広げてしばらく見つめる。
「わかった」
信はそれだけ言うと、咲耶の部屋から去っていった。
咲耶はひとりになった部屋で息を吐く。
どうすれば信を救えるのか、咲耶はずっと考えていた。
しかし、答えはわかっている。救う方法などない。
何より信が救われることを望んでいないのだ。
咲耶はもう一度長い息を吐き、気持ちを切り替えた。
「さぁ、仕事だ」
道中のため見世の外に出ると、すでに陽は落ちて通り沿いには灯りがともっていた。
舞い散る桜が幻想的で妖しげな雰囲気を醸している。
(桜ももう終わりか……)
桜の見頃は短い。しかし、その儚い美しさが人を惹きつけるのだろう。
咲耶はいつも以上に多い観衆を意識しながら、一歩ずつ歩みを進めた。
引手茶屋の座敷に着くと、頼一が咲耶を見て優しく微笑むと軽く手をあげた。
「今日は一段と人が多かったようだな」
頼一は酒を飲みながら咲耶に言った。
咲耶は頼一の横に腰を下ろす。
「桜がもうすぐ散りますからね。夜桜の中の道中はあと数回だと思うので、見に来る方も多いのでしょうね」
咲耶は微笑んで、頼一に酌をする。
「もうそんな時期か……」
「はい」
咲耶と頼一は窓から外を見る。
灯りに照らされて、桜が白く妖しく揺らめいていた。
「頼一様」
咲耶は頼一を見て言った。
「またひとつお願いがあるのですが……」
咲耶は申し訳なさそうに頼一を見る。
頼一は苦笑した。
「私が咲耶の願いを無下に断れないとわかっているだろう」
咲耶は嬉しそうに微笑むと、頼一に少し無理なお願いをした。
「あ~あ、あいつもう死んだのか」
菊乃屋の楼主は、鈴を売った切見世からの手紙を受け取るとおかしそうに笑った。
「どいつもこいつもすぐ壊れちゃうなぁ。まぁ、またすぐ新しいのが入るからいいけど」
楼主は首を掻きながら、張見世を見る。
「今日も家族のためにしっかり働けよ」
楼主は小さく呟くと、自分の部屋に向かって歩き出した。
楼主の部屋は見世の一番奥にあるため、見世の賑わいとは対照的に、奥へと続く廊下は薄暗く、しんと静まり返っていた。
部屋の前にたどり着くと、楼主は背後に気配を感じて振り返る。
「気のせいか……」
廊下には誰もいなかった。
(気味が悪いな……)
楼主は再び部屋の襖に手をかける。
すると、襖に影が差した。
驚いて楼主が振り返ろうとすると、突然首が締まり体が浮く。
(な、……なんだ!?)
楼主が慌てて首を絞めている何かを振り解こうとしたとき、首が一層強く締まり楼主の意識はそこで途切れた。
楼主は波に揺られているような奇妙な感覚に目を覚ました。
喉には何か砂のようなものが詰まっている。
楼主は砂のようなものを唾でゆっくりと飲み込んだ。
慎重に横に手をついて体を起こすと、その瞬間に楼主の体が揺らぐ。
楼主は辺りを見回した。
(ここは舟の上なのか!?)
楼主の前には笠を被った男が立っており、竿で小舟の舵をとっていた。
突然の光景に、楼主はふと自分は死んだのではないかと思った。
(ここは三途の川か……?)
楼主は川のように波打っている水面を見た。
暗いせいか水面はどす黒く沼のように見える。
楼主はもう一度辺りを見回した。
(いや、ここは……)
「お歯黒どぶか……?」
楼主が小さく呟いた。
笠を被った男がゆっくりと振り返る。
「ああ」
笠の影になり、男の表情はまったく見えなかった。
「おまえが女を捨てていたお歯黒どぶだ」
「な!?」
(なぜ知っている……)
楼主は混乱しながら、男の目的を考えていた。
「俺をどうする気なんだ……?」
男は何も言わずにまた前を向いた。
(今、この男さえ突き落としてしまえば!)
楼主は男の背中を見ながら、静かに立ち上がった。
そのとき足元が揺らぎ、男は舟に倒れこむ。
波によろけたのかと思ったが、男の視界がぐにゃりと歪んでいた。
「なんだ……これは……」
男は楼主が倒れたのに気づき、振り返った。
「ああ、薬だ」
男は懐から楼主にも見覚えのある薬包紙を取り出す。
「まだあんなにあったんだな。棚にあったものはこのひとつ以外、すべておまえに飲ませておいた」
楼主の顔がみるみる青ざめていく。
(残りを全部だと……)
阿片を一度に大量に摂取すれば死ぬことは、楼主も十分に理解していた。
(早く水で胃を洗わないと!)
楼主は小舟から身を乗り出して水面を見る。
楼主の目にはお歯黒どぶが澄んだ川に見え始めていた。
お歯黒どぶに顔をつけて楼主はどぶ水を飲む。
しかし、ひどい悪臭にすぐにむせて吐いた。
「な……んで……、こんなに綺麗なのに……」
楼主はどぶの水をすくいあげて眺める。
男は静かに楼主を見ていた。
楼主が視線を感じて男の方を見ると、いつのまにか隣に遊女らしき女がいるのに気がついた。
「おまえ……誰だ? いつからそこにいる……?」
遊女は音もなく楼主に近づくと、楼主の首を絞める。
そのまま遊女は楼主に馬乗りになった。
遊女の重みで肺も潰され息ができなかった。
(苦しい……)
気がつくと十人以上の遊女が楼主を見下ろしていた。
「た、た…すけ……て……!」
楼主は狂ったように叫ぶと、遊女を振り払いどぶに飛び込んだ。
着物が泥水を吸って重くなり、楼主が顔を出そうともがくたび、引っ張られるように沈む。
楼主が手をばたつかせると、ふと白い手が目に入った。
たくさんの遊女の手が楼主の腕や着物の袖をつかみ、泥水の中に引きずり込もうとしている。
楼主が叫ぼうと口を開くと、大量の泥水が口に入った。
「ごぼっ、た……すけ……」
男は静かにお歯黒どぶに沈む楼主を見下ろしていた。
「ほら、おまえのよく言う『家族』が呼んでるぞ」
男がうっすらと微笑みを浮かべる。
雲の切れ間からのぞく月明かりに照らされて、男の薄茶色の瞳が妖しく光っていた。
楼主は目を見開くと、そのまま何かに引き込まれるように深く沈んでいった。
翌朝、お歯黒どぶに浮かぶ菊乃屋の楼主の遺体が発見された。
どぶの中でひどくもがいたせいか、楼主の腕や足には黒く長い髪が大量に巻きついていた。
咲耶が大門まで頼一を見送り、玉屋に戻ると見世の中がざわついていた。
「花魁!」
緑が見世に戻ってきた咲耶に駆け寄る。
「聞きましたか? 菊乃屋の楼主が……亡くなったそうです」
咲耶は静かに目を伏せる。
「そうか……」
「自殺みたいです……。お歯黒どぶに浮かんでいるところを見つかったようで……」
緑は顔をうつむいた。
「これから菊乃屋はどうなるんでしょうか? 見世の遊女もたくさんいるのに……」
(緑は優しいな)
咲耶は少し微笑むと、緑の頭をそっとなでた。
「大丈夫だ。新しい楼主を迎えて、またすぐ再開されるさ」
「そう……なんでしょうか?」
「ああ。楼主が変わって遊女たちの環境も良くなるといいんだが……」
「玉屋みたいになるといいですね!」
緑が無邪気に笑う。
咲耶も緑を見て微笑んだ。
「そうだな」
咲耶と緑が玉屋の戸口で話していると、にわかに周囲が騒がしくなった。
咲耶がざわめきに気づき振り返ると、玉屋の入り口に叡正が立っていた。
叡正は咲耶と目が合うと、慌てたように目が泳ぎ出す。
「こんな時間にすまない……。昨日礼も言わず出ていってしまったから、礼だけ言えればと思って……。すまない……出直す……」
叡正は早口でそう言うと踵を返して去っていこうとした。
「おい」
咲耶は叡正を呼び止める。
「茶でも飲んでいくか?」
叡正が恐る恐るといった様子で振り返った。
叡正の顔色は悪く、昨日から寝ていないのがわかる。
咲耶は軽くため息をついてから、優しく微笑んで叡正を手招きで呼んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
叡正は咲耶に促されるまま部屋に入った。
「少し待っていろ」
咲耶はそれだけ言うと部屋を出ていった。
(常識外れの時間に来てしまった……)
叡正はすでに後悔していた。
鈴が亡くなってから叡正は茫然と夜を明かし、信が明け方に埋葬すると鈴を連れていくまで、叡正はずっと動けずにいた。
ふと咲耶に礼も言っていないことに気づき、医者に礼を言ってからふらふらと吉原まで来たが、こんな時間に訪ねるなど迷惑以外の何ものでもないと咲耶の姿を見るまでまったく気づかなかった。
(どうかしている……)
叡正は両手で顔を覆った。
襖が開く音がして、怒られる前に咲耶に謝ろうと叡正が顔をあげると、咲耶は叡正の前に何か置いた。
叡正が視線を向けると、そこには鈴の絵柄が彫られた飴色の櫛があった。
(これは……)
「妹の形見だ」
咲耶は叡正に向かって言った。
この櫛は昔、叡正が鈴に贈ったものだった。
「これを……どこで……?」
「妹と同じ見世の美津という遊女から預かった。鈴がずっと大切にしていた櫛だそうだ。兄と会うなら渡してほしいと頼まれた」
(まだ持っていたのか……)
叡正はそっと櫛を手に取る。
贈ったときには薄い色だった櫛が、今はしっかりとした飴色に変わっていた。
鈴がどれだけ大切に使っていたかが叡正にはわかった。
咲耶が叡正の顔をのぞき込む。
「泣く資格がないと思っているのか?」
叡正は何も言えず、ただ咲耶を見つめ返した。
咲耶はため息をつく。
「そんなに堅苦しい頭で、生きづらくないのか? おまえが笑ったり泣いたりすることで、誰がおまえのことを責める? みんな過去を抱えて生きてはいるが、おまえは囚われすぎだ。おまえ出家したんだろう?」
叡正は目を伏せると困ったように微笑んだ。
咲耶はもう一度ため息をついた。
「緑に茶を持ってこさせるから、ゆっくりしていけ。私は寝る。何かあれば緑を呼べ」
咲耶はそう言うと立ち上がり、部屋から出ていった。
叡正は櫛を見つめる。
「鈴、ごめん……」
叡正がそう呟くと同時に襖が開く。
緑がお茶とお茶請けの菓子を持って入ってきた。
「朝早くに本当にすまない……」
叡正は緑に深々と頭を下げた。
「私は大丈夫ですよ。それに……叡正様、本当に顔色が悪いのでちょっと休んでから帰った方がいいと私も思ってましたし……」
緑は心配そうに叡正を見る。
叡正は苦笑した。
(この子にも心配をかけるなんて……)
緑は一礼をすると部屋を出ていった。
(二人はああ言ってくれたが、迷惑にならないように早くいただいて帰らないと……)
叡正は粉のまぶされた菓子を口に入れると一気にかみ砕いた。
「!??」
その瞬間、舌と喉に強い痛みを感じて叡正は派手にむせた。
慌ててお茶を一気に流し込むと、お茶の熱さでまた一層咳き込む。
口の中も喉も熱くて痛かった。舌は少ししびれはじめてもいる。
(毒か!??)
叡正がずっと咳き込んでいると、異変に気づいた緑が慌てて部屋に駆け込んできた。
「大丈夫ですか!?」
緑は叡正の背中をさする。
叡正は礼を言いたかったが、咳が止まらなかった。
「今、お茶お持ちしますから!」
緑は慌ててお茶を入れに部屋を出ていく。
(これは一体……)
叡正は咳き込みながら、残っているお茶請けを手に取る。
手に取って軽くすり潰し、少しだけ舐める。
(これは七味唐辛子……? しかもそれだけを固めているのか……?)
緑がお茶を持って戻ってきた。
「あり……がとう……」
叡正はなんとかお礼を言うと、お茶を一気に飲み干した。
「大丈夫ですか……?」
緑は心配そうに叡正を見た。
「ああ……。今、江戸ではこういう菓子が流行っているのか……?」
「いいえ!」
緑は慌てて首を振った。
「これは花魁に送られてきた嫌がらせの菓子です」
「は!?」
叡正は目を見開いた。
「あ、いえ、叡正様は辛いものがお好きだから、叡正様なら気に入るだろうと、花魁が……。お茶もグツグツ煮えたぎったお茶がお好きだから出すようにと……。違いましたか……?」
緑は上目づかいで叡正を見た。
叡正は言葉を失う。
(俺はどこまで嫌われているんだ……)
迷惑な時間に訪れたこともあり、叡正は何も言えなかった。
「やはりよほど辛かったんですね……」
緑は懐から布を取り出した。
「叡正様、どうぞ。涙、拭いてください」
叡正は目を見開いた。
そっと頬に触れると、頬は涙で濡れていた。
ずっと気を張っていただけに、一度溢れると涙はとめどなく流れる。
胸の奥から何かがこみ上げてきた。
「叡正様……?」
「いや……、辛いが……クセになる味だから…。もう少し味わっていてもいいだろうか?」
「え、はい。大丈夫ですけど……」
緑は不思議そうな顔で叡正を見た。
「では……お茶がほしくなったら、おっしゃってくださいね……」
緑はそれだけ言うと布を叡正の横に置き、部屋から出ていった。
ひとりになった部屋で、叡正の視界に櫛が映る。
『櫛を女性に贈るのは、苦・死にかけて、一生苦労も死も一緒にって求婚の意味なんだよ! それを妹に贈るなんて』
幼い鈴は叡正が贈った櫛を見ながら、呆れたようにため息をついた。
『そんなの知るか』
永世は面倒くさそうに言った。
誕生日のお祝いに鈴の絵柄の櫛を見つけたから贈っただけで、幼い永世にそんな知識はなかった。
鈴はそんな永世の様子に微笑む。
『しょうがない。可愛い妹が一生一緒にいてあげる!』
呆れた顔の叡正を見て、鈴はまたおかしそうに笑った。
叡正の目から涙が溢れる。
胸が、喉が痛かった。
叡正の口から嗚咽が漏れる。
叡正はお茶請けの菓子をひとつ手に取り、口に入れた。
「はぁ……。辛ぇな……」
叡正は手で目元を覆い、奥歯を嚙みしめていた。
叡正がぼんやりと窓の外を見ると、日が高くなり始めていた。
(一体どれくらい経ったんだ……)
叡正はうまく回らない頭で考えていた。
そのとき、襖が開く音がして叡正は振り返る。
「なんだ、まだいたのか?」
そこにはまだ少し眠そうな咲耶が立っていた。
「おまえ、一層ひどい顔になったな」
咲耶が淡々と言う。
「……誰のせいだ?」
叡正が恨みがましい目を咲耶に向けた。
「おまえのせいだろう? 私に人の顔をどうこうする能力はない」
咲耶は軽くあくびをしながら答えた。
確かに泣いてひどい顔になったのは自分のせいだと納得しかけていた叡正はハッとして自分の思考を止める。
(やばい……頭がおかしい……。誰がこの顔にしたかというのが問題じゃない……)
叡正はここ数日眠れていなかったことに加え、泣いて最後の力を使い果たし、頭が回らなくなってきていた。
「すっきりしたか?」
咲耶は叡正の横を通り過ぎて、窓辺に腰かけて叡正を見た。
「……ぼんやりしてる」
叡正は正直に答えた。
咲耶が軽く笑う。
「おまえは考え過ぎだから、ぼんやりしてるくらいがいいよ」
咲耶はそう言うと窓の外を見た。
「淀んでいるものをすべて吐き出して、一度空っぽになった方がいい」
叡正は窓辺の咲耶を見た。
日の光に照らされた咲耶は天女のように美しかった。
「……ありがとう」
叡正が小さく口を開く。
咲耶が振り返った。
「全部……。おかげで亡くなる前に妹に会えた……。最後の言葉も聞けてなかったら……きっと妹に恨まれていると……ずっと思っていたと思う……。本当にありがとう」
叡正は深々と頭を下げた。
咲耶はゆっくりと立ち上がると、叡正の前に腰を下ろし顔を近づける。
叡正は気配を感じて顔を上げた。
咲耶はニヤニヤしながら口を開く。
「私に惚れたのか?」
叡正の顔にサッと赤みが差す。
『俺に惚れたのか?』
そう真顔で言った自分の姿を思い出し、叡正は両手で顔を覆った。
「もう勘弁してください……」
叡正の消え入りそうな声を聞いて、咲耶はおかしそうに笑った。
「三日後の昼、またここに来い。連れていってやる」
叡正は顔を上げる。
「……どこにだ?」
咲耶は質問には答えずに優しく微笑んだ。
「ただし、法衣で来いよ」
咲耶はそれだけ言うと立ち上がり、叡正の横を通り過ぎて襖に向かう。
「法衣……?」
叡正は去っていく咲耶の方を向いた。
「叡正」
咲耶は襖を開けると叡正の方を振り返って呼びかけた。
「ちゃんと生きろよ。妹の願いだろ?」
咲耶はそう言って微笑むと、部屋から出ていく。
叡正は初めて咲耶に名を呼ばれたことに驚いていた。
そして、聞きなれたはずのその名が、なぜか今日は耳に心地良く響いて、叡正は閉まった襖をいつまでも見つめていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
三日後、叡正は言われたとおりに玉屋に来ていた。
(今日は何かあるのか……?)
玉屋の入り口に人が集まっていた。
遠巻きに見守る観衆とは別に見世の前には数人の男衆と客と思われる男がいた。
精悍な顔立ちに、ひと目で上等とわかる着物を纏った男はかなり身分の高い人間なのだろう。立ち居振る舞いにも品があった。
そんな見世の様子を観衆とともに遠巻きに見ていた叡正は、見世の奥から咲耶が出てくるのを見た。
咲耶は客の男に笑顔を向ける。
(待ち合わせだったのか……?)
それならなぜ自分は呼ばれたのかと、叡正は首をひねった。
すると、咲耶の視線が叡正に向けられる。
咲耶は笑顔で叡正を手招きした。
観衆にどよめきが広がる。
観衆の目が一気に自分に向いたのに気づき、叡正は慌てて咲耶に近づいた。
「来たか」
咲耶は満足そうに笑う。
客と思われる男は叡正をまじまじと見つめ、咲耶に問いかけた。
「兄か?」
咲耶は微笑む。
「はい、兄です」
叡正は訳がわからず、眉をひそめて二人を交互に見た。
「色男だな」
「ふふ、頼一様の方がよっぽど色男です」
咲耶はそう言うと頼一の腕をとった。
「では、まいりましょう」
咲耶はそう言うと、頼一と後ろに控えている男衆が皆、歩き始めた。
叡正も訳がわからないまま後ろに続く。
道中でもないのに、観衆もその後ろについてきていた。
(どこに行くんだ……?)
やがて咲耶は頼一とともに大門を出た。
「……吉原を出ていいのか……?」
叡正は驚きのあまり声に出して呟いた。
叡正の前を歩いていた男衆が、その声に気づき振り返る。
「なんだおまえ、何も知らないのか? 花見のときは客と一緒なら遊女も外に出られるんだよ」
「花見?」
叡正は今日が花見だということも知らなかった。
咲耶と頼一は吉原を出て、どんどん前に進んでいく。
最初の頃は後ろについてきていた観衆も、進むにつれてしだいに数が減り、ついには誰もいなくなった。
吉原を出てかなりの距離を歩いていた。
(一体どこまで行くんだ……)
桜で有名な隅田川提はこちらの方角ではないと叡正でも知っていた。
さらに進むと徐々に、叡正に見覚えのある景色が増えてくる。
(この方角は……。いや、そんなまさか……)
叡正はとまどいながら進んだ。
しばらくして咲耶と頼一が歩みを止める。
叡正もゆっくりと咲耶と頼一のいる場所まで近づいた。
叡正は目を見開く。
そこは叡正が幼いときに過ごした屋敷の跡地だった。
屋敷は火事ですべて焼けてしまったため、草木が生い茂り何もない野原となっていたが、庭にあった桜の木だけは当時と変わらず、辺りを花びらで桜色に染めていた。
「どうして……」
叡正は呆然と立ち尽くす。
「花見だ」
咲耶は叡正にそう言うと、屋敷の跡地に足を踏み入れた。
「あ……入っていいのか?」
叡正が思わず、咲耶に声をかけた。
「大丈夫だ」
咲耶の代わりに頼一が叡正に答えた。
「許可はとってある」
(この男は何者なんだ……?)
叡正は静かに頼一を見つめた。
「さぁ、始めよう」
桜の木まで歩いていった咲耶が振り返ってそう言うと、男衆たちも咲耶に続いて桜のそばまで歩いていき少し離れたところに敷物を敷いた。
敷物のうえには料理や酒が並べられ、宴の準備でもしているようだった。
叡正もゆっくりと桜のそばまで歩みを進める。
屋敷の面影はどこにもなかったが、桜だけは当時と何も変わっていなかった。
頼一は敷物に腰を下ろし、男衆の酌で酒を飲み始める。
咲耶と叡正だけが桜のすぐそばにいた。
「おまえの妹、ここに埋葬したんだ」
叡正は目を見開いた。
「ここに……?」
よく見ると桜の根元に掘り返したような跡があった。
叡正は桜を見上げながら昔のことを思い出していた。
桜が咲くたびに庭に出てはしゃいでいた鈴の姿を思い出し、叡正は少し微笑んだ。
「そうか……。わざわざ…、本当にありがとう……。いろいろ調べてくれたんだな……。でも、妹が桜を好きなことまでよくわかったな」
叡正は咲耶の方を見て言った。
「ああ……。いや、桜の木の下に埋葬したのは、私がそう弔いたかっただけだ」
咲耶は桜を見上げて言った。
叡正は不思議そうに咲耶を見る。
咲耶は叡正の視線に気づき、微笑んだ。
「玉屋の遊女が病気で亡くなったとき、いつも桜の木の下に埋葬してもらうんだ」
「……どうしてだ?」
「私たちは花見のときしか吉原の外に出られないからな。寺なんかに埋葬されたら、もう会いに行けないだろう?」
咲耶は桜を見ながら、悲しげに言った。
「遊女はもともと身寄りがないものも多いし、寺に墓があっても誰も会いに来ることはない。死んでまでひとりなんて寂しすぎるだろう?」
叡正はただ静かに咲耶を見ていた。
舞い散る桜の花びらの中で、咲耶はまるで桜の精のようだった。
「桜の木なら、春になればみんなが会いに来て愛でていく。眠っている彼女たちのことを想う人がいなくなったとしても、ずっとその先もたくさんの人に愛され続けるんだ」
(桜が墓標なのか……)
叡正は静かにそう思った。
「まぁ、いつもは桜の名所に埋めるんだが、今回は縁の地があったしな」
咲耶はそう言うと叡正を見た。
叡正は、ふと千本桜と謳われる桜の名所に大量の遺体が埋まっている光景を想像し少し顔色を悪くした。
咲耶はじとりとした目で叡正を見る。
「おまえは、考えてることがすぐ顔に出るな」
咲耶はあきれたように言った。
「す、すまない……」
「ほら、なんのために法衣で来たんだ! さっさと経でも読め」
咲耶はそう言うと、頼一の方に歩いていった。
「経でも読めって……出し物なのか……?」
叡正はそう呟くと、桜の木の下に腰を下ろした。
叡正は法衣は着てきていたが、意図がわからなかったため、ほかには何も持ってきていなかった。
(まぁ、気持ちが大事だよな……)
叡正は目を閉じると、経を読み始めた。
(鈴……、これから桜が咲く頃、毎年会いに来るから。……毎年胸を張って会いに来られるよう、俺もちゃんと生きるよ)
そのとき、強い風が吹いて桜の木が揺れた。
叡正の髪や頬を花びらがそっとなでる。
叡正の経が響く中、花びらはずっと叡正の上に降り注ぎ続けていた。
桜が散って、新緑が美しい季節となりましたね。
あなたに初めてお会いしたのは紅葉の頃でしたから、もう半年近く経ったのですね。
引手茶屋であなたとお会いしたときのことは、今でも昨日のことのように覚えております。
優しく私に微笑んでくださったあなたの顔が目に焼き付いて離れませんでした。
今思えば、もうあのときから私はあなたのことをお慕いしていたのです。
十日ほど前にお会いしたばかりだというのに、もうあなたに会いたくて仕方がありません。
そんなことを言えば、きっとあなたは「仕方のないやつだな」と私のことをお笑いになるのでしょうね。
今すぐ会いに行ければいいのに。毎日そんなことばかり考えています。
今日は私の想いを込めて、あなたが褒めてくださった私の髪をひと房、手紙とともに文使いに持たせました。
髪だけでもあなたのそばにいたいと思う愚かな私をお許しください。
髪だけでなく、私の頬に首筋に体に、あなたの手で触れていただけるのを心待ちにしております。
季節の変わり目ですから、お体にはどうぞ気をつけてくださいませ。
それでは、またお会いできる日を指折り数えてお待ちしております。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
叡正は今、咲耶の部屋にいた。
叡正と向かい合う咲耶はあからさまに面倒臭そうな顔をしている。
叡正と咲耶のあいだには、桐の箱に入った女の指のようなものがあった。
「これが、うちの見世から届いた、と?」
「ああ、この手紙と一緒に」
叡正は懐から手紙を出すと咲耶に手渡した。
咲耶は部屋の片隅で様子を見ていた緑を手招きして呼んだ。
咲耶が手紙を緑に渡すと緑は手紙を開き、声に出して読み始める。
「あなたをひと目見たあの日から、私の心はあなたのものとなりました…」
「お、おい、声に出さなくても……」
叡正が緑を慌てて止める。
緑は顔を上げて、一度咲耶の方を見た。
「気にするな。続けてくれ」
咲耶はにっこりと緑に笑いかけた。
緑は頷くと、続きを声に出して読む。
「あなたが僧侶だということはわかっています。今世では結ばれることがないということも承知しております。ですから、私は決意いたしました。年季が明けたら尼となります。あなたとともに寺を守り、天寿を全うし生まれ変わったのなら来世はあなたと生涯共にいさせてください。この想いが少しでも伝わるように小指を贈ります。私の気持ちが少しでも届きますように」
叡正が伏せていた顔を恐る恐る上げると、想像通りの咲耶の顔があった。
「おまえ、誰に手を出したんだ?」
咲耶が呆れたようにため息をついた。
「手なんて出すわけないだろう!」
叡正は思わず身を乗り出した。
「まったく身に覚えがないから、こうして訪ねてきたんだ」
手紙には遊女の名前は書かれていなかった。
「それにこれの意味がわからなくて…」
叡正は桐の箱に入ったものを恐々見つめる。
「ああ、指か。愛の捧げ物だろう?」
咲耶は淡々と言った。
「これは……作り物なんだろう……?」
「ああ、指を模したしんこ細工だな」
「しんこ細工?」
「米の粉を蒸して作ってあるんだ。これはうまく作ってあるな。しっかり見なければ本物の指みたいだ」
咲耶は感心したように言って、指を手に取って眺めた。
爪や指の皺も細かく再現されていて、指を切った断面まで本物に見えるように作りこまれている。
「これと手紙を持ってきた文使いは誰かわかるか?」
「誰かはわからないが、かなり若いやつだったな……。十くらいの」
「ああ、それなら弥吉だな。この時間ならたぶん見世にいるだろう。緑、呼んできてもらえるか?」
緑は咲耶の言葉に頷くと立ち上がり、部屋を出ていった。
咲耶はじっと叡正の顔を見る。
「な、なんだ……?」
叡正が咲耶の視線に耐えきれず聞いた。
「いや、その無駄に良い顔に少し同情していただけだ」
「無駄に……」
「なんだ? 何か役に立っているのか? その顔は」
叡正が何も言えずに落ち込んでいると、襖が開いた。
緑とともに弥吉が部屋に入ってくる。
弥吉は叡正を見て、目を丸くした。
「あれ、あのときの……」
弥吉は叡正から咲耶に視線を移す。
「咲耶太夫のお客だったんですか?」
「いや、客じゃない。ただの知り合いだ」
咲耶は「ただの」の部分を強調してにこやかに答えた。
「ああ……、そうなんですね。まぁ、いいや。ところで、俺に何か用ですか? 今日は手紙なかったですよね?」
「ああ、呼んだのはこの手紙の件だ。この手紙と指をこいつに届けるように頼んだ遊女は誰だったか覚えているか?」
「え!? やっぱりダメでしたか? ……咲耶太夫の間夫だったか……」
「いや、違う。好きなだけ手紙でも髪の毛でも本物の指でも届けてくれて構わない」
咲耶は微笑んだ。
叡正が息を飲む。
「ただ、今回遊女の名前がなかったから、この男が気にしていてな。誰からの手紙か覚えているか?」
「なんだ、よかった……」
弥吉がホッとしたように息を吐いた。
「朝霧さんです」
「ああ、朝霧かぁ」
咲耶はそう呟くと、少し考えるように目を伏せた。
「弥吉、ありがとう」
咲耶は視線を叡正に移した。
「まぁ、いいんじゃないか? 今世は諦めていると書いてあるし、年季明けの希望になっていいじゃないか」
「いや、しかしできない約束は……」
「自惚れるなよ」
咲耶が叡正の言葉を遮る。
「この手紙の通りに十年二十年、想われ続けるとでも思ってるのか? 人の心なんてすぐ移ろうもんだ。愛されるのは簡単でも、愛され続けるのは簡単じゃない。わかったなら、指を持ってさっさと帰れ。この話はもう終わりだ」
叡正は返す言葉もなかった。
うなだれながら桐の箱を片付ける叡正を見ながら、咲耶が最後に付け加える。
「ただ、本物の指が届いたら教えてくれ。捧げたものが大きくなるほど、見返りに多くのものを求めるようになるからな。たとえそれが一方的なものだとしても」
咲耶の真剣な顔を見て、叡正の顔がみるみる青ざめた。
その三日後、本当に血まみれの指が届く。
ただし、それは叡正にではなかった。