「信に絵の補修を?」
 咲耶は鏡越しに弥吉を見た。
 女が訪ねてきた翌日、弥吉は咲耶に長屋での出来事を話した。

「それで明後日屋敷に行くことになった……と」
 昼見世の準備をしていた咲耶は、髪を結われているため鏡越しに口を開く。
「それに何か問題があるのか? 竜さんという知り合いの娘から依頼されたんだろう?」

「そう……です、たぶん……。そう名乗ってはいました……」
 弥吉はそう答えると、静かに目を伏せた。
「名乗っていた……ということは違ったのか?」
 咲耶は振り返って弥吉を見る。
 咲耶の髪を結っていた男も咲耶の様子に、静かに手を止めた。

 弥吉はおずおずと顔を上げる。
「違うかどうか……わからないんです……。竜さんは数日前からどこかに出かけているそうで……確認ができなくて……。でも、信さんは何か疑っているようで、様子がいつもと……」

 咲耶は珍しく不安げな表情を浮かべていた。
「信は……何か言っていたか?」
「いえ、何も……。ただ、あれからいつも以上に口数が少なくて……」
 弥吉はそれだけ言うと、静かにうつむいた。
 咲耶はしばらく何か考えているようだったが、やがて口を開いた。

「弥吉に頼みがあるのだが……玉屋の男衆を何人か同行させてくれないか?」
 咲耶の言葉に弥吉は目を丸くする。
「玉屋の……?」
「ああ、私がその皿に興味を持っているから、とでも言ってくれ。弥吉が玉屋の文使いなのは、その女も知っているのだろう?」
「そうですね……。本当に竜さんの娘なら……知っているはずです……」
「それなら、その理由で押し通してくれ。本当に絵の修復が目的なら、人数が増えたところで問題はないはずだ」
 咲耶はそう言うと、弥吉を真っすぐに見つめた。
「もし男衆の同行も拒否するようなら……そのときは、行くのはやめるよう信に言ってくれ」
「わ、わかりました」
 弥吉は咲耶を見つめると、力強く頷いた。

「まぁ、おそらく……」
 咲耶は小さく息を吐いた。
「行くことにはなるのだろうが……何かあったとしても最悪の事態は避けられるはずだ」
 咲耶の言葉に、弥吉はこぶしを握りしめる。

 咲耶はそれだけ言うと静かに鏡台に向かって座り直し、背後に控えていた男は再び咲耶の髪を結い始めた。
「弥吉……」
 咲耶は鏡越しに弥吉に視線を向ける。
「屋敷に着いたら絶対に信から離れるな」
「え?」
 弥吉は意味がわからず、思わず咲耶を見つめた。
「とにかく絶対に離れるな。いいな、わかったか?」
 咲耶はいつになく強い口調で言った。
「あ……はい……」
 弥吉は戸惑いながらも小さく頷いた。
 弥吉が頷くのを確認すると、咲耶は微笑む。

「引き留めて悪かったな。仕事に戻ってくれ」
 咲耶はそう言うと、目を伏せた。
「あ、いえ、こちらこそ忙しいときに申し訳ありませんでした! 失礼します」
 弥吉はそう言うと、一礼して咲耶の部屋を後にした。



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 弥吉が部屋から出ていくと、咲耶は息を吐いた。
(狙いはなんだ……?)
 咲耶は鏡に映る自分の顔を見つめる。
 鏡の中の咲耶の顔色は決していいとはいえなかった。
(弥吉に……気づかれただろうか?)

 咲耶は強く目を閉じた。
(明らかに罠だ。しかし、こんなあからさまな手を使って、信を屋敷に来させる理由は一体なんだ……? 三日後などと、あえて猶予を与えたのはなぜだ?)

 咲耶は片手で顔を覆った。
(弥吉も一緒に行くのか……)
 咲耶は深く息を吐いた。
(弥吉は自分が殺されるところだったことを知らないからな……。むしろ狙いは弥吉の方なのだろうか……?)
 どれだけ考えても答えは出なかった。

(関係のない人間を同行させれば、人目を気にして、正面から信と弥吉を殺しにかかることはないだろうが……)
 咲耶はゆっくりと目を開ける。

(信なら大丈夫だ……。きっと何があったとしても……)
 咲耶は何度も自分に言い聞かせたが、咲耶の不安が消えることはなかった。