藤吉は通された部屋で男を待っていた。
(遅ぇな……。どこに行ったんだお館様は……)
藤吉は思わず舌打ちをした。
昨日小屋を出てすぐ屋敷で男を探したが、出かけているようで男が屋敷に戻ってくることはなかった。
今日戻ってくる予定だと聞いた藤吉は、通された部屋でもう数刻ほど男を待っていた。
(それほど出歩く人じゃないんだけどな……)
藤吉はゆっくりと息を吐いた。
そのとき、襖が開く音がした。
「悪かったな」
藤吉が顔を上げると、恰幅のいい男がゆっくりこちらに向かって歩いてきていた。
「いえ、こちらこそ急にお伺いしてすみません」
藤吉は慌てて頭を下げる。
「気にするな。それにしても珍しいな、おまえが俺のところに来るなんて」
男はフッと笑うと、用意されていた座布団の上に腰を下ろした。
男は、目で藤吉にも座るように促した。
「ありがとうございます」
藤吉は礼を言うと、その場に腰を下ろす。
「それで、話というのは?」
男は鋭い目で、藤吉を見た。
「小屋の……小屋で暮らしている姉弟のことです……。なぜ女に毒を……? 弟に仕事をさせるための人質ではないのですか……?」
藤吉の言葉に、男はわずかに目を見張った。
「なんだ? 見てきたのか? おまえが人に興味を持つとは……驚いたな」
男はそう言うと、フッと笑った。
「安心しろ、殺す気はない。やる気を引き出すためのちょっとした脅しだ」
「脅し……?」
藤吉は眉をひそめた。
「最近、信が仕事に手間取るようになっただろう? 困るんだよ。あいつに任せている仕事は急ぎのものなんだ。何日もかかっていてはこちらの信用問題になる」
「それは……!」
藤吉は続く言葉を静かに飲み込んだ。
信の事情を説明したところで、男が受け入れるとは思えなかった。
「だから、速く仕事ができるようにちょっと脅しをかけたんだよ。これから姉の食事にはずっと毒を盛るとな」
男の言葉に、藤吉は目を見開いた。
「ずっと……ですか……?」
「ああ。信には、それが嫌ならすぐに戻っておまえが代わりに食べればいいと言ってある。信の分の食事には毒を入れるつもりはないからな」
藤吉は呆然と男を見た。
「そんなことをすれば……二人とも死んでしまいます……」
男は驚いたような顔をした後、小さく笑った。
「おまえが、人の心配とは……。今日は雨でも降るのか? ……安心しろ、すべて食べたところで死ぬほどの量の毒は盛っていない。たとえ死にたくなっても、あれぐらいの毒では死ねないさ。どちらも死んでもらっては困るからな」
「そんな……」
藤吉が反論しかけたとき、襖の向こうで人が動く気配がした。
「どうした?」
男が襖に向かって声を掛けた。
「……動きがありました」
襖の向こうにいる人物が静かに答える。
男は目を閉じると、唇を歪めた。
「そうか」
男はそう言うと、立ち上がり藤吉を見下ろした。
「悪いな。少し用事ができた。話しはここまでだ」
藤吉は呆然と男を見上げる。
「何か……あったのですか?」
男は顔を歪めて笑う。
「少し狩りに出るだけだ」
藤吉は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(狩り……?)
男はそう言うと、襖を開けて部屋を後にした。
(一体……何が……)
藤吉は速くなる鼓動を落ち着かせようと、ゆっくりと息を吐いた。
男と分かれてしばらくすると、屋敷が急激に騒がしくなった。
(なんだ? ……何かあったのか?)
様子を見に来た藤吉は、慌ただしく動く人々に流されるように騒ぎの中心となっている部屋にたどり着いた。
「清潔な布を持ってきてくれ! 早く!!」
「刀は火で熱しておけ! それから焼きごても!」
「体を押さえて! 念のため猿ぐつわも!」
部屋の中では白い装いの人々が慌ただしく出入りしていた。
(一体……何事だ……?)
藤吉は襖の隙間から中を覗き込んだ。
部屋には布団が敷かれいて、その上に誰かが寝ているだった。
(病人……か……?)
そのとき、藤吉の視界に薄茶色の髪が映った。
「……百合……?」
藤吉の口からかすれた声がこぼれた。
届くはずのないかすかな声だったが、布団に横たわった人物がピクリと動いた気がした。
藤吉は目を見開く。
「百合……!」
藤吉は襖を勢いよく開けた。
布団に青ざめた顔で横たわる百合と、それを取り囲むようにせわしなく動いていた白装束の男たちが一斉に藤吉の方を向いた。
「こ、ここはダメです……!」
白装束の男が慌てた様子で藤吉に駆け寄った。
「ダメって……これは一体……!」
藤吉は百合を見る。
青ざめた百合の顔に目がいっていたが、よく見れば百合の足首には矢のようなものが刺さっていた。
藤吉は、顔から血の気が引いていくのを感じた。
「射られたのか……!」
「毒矢です」
百合の代わりに白装束の男が答えた。
「こうしているあいだにも毒が広がってしまいます! 早く足を切断しなくてはならないのです! 外に出てください!」
「切断……だと……?」
藤吉は茫然と白装束の男を見た。
「それしか方法がないのです! 早く出てください! 早くしなければ足の付け根から切り落とすことになりますよ……!」
白装束の男はそう言うと、藤吉を外に押し出した。
「ま、待ってくれ……! 切断なんて痛みで死ぬ可能性もあるだろう……!」
白装束の男は苦しげな表情で、目を伏せた。
「気休めにしかなりませんが……朝鮮朝顔を煎じたものを飲ませました。毒性が強いので飲ませたのは微量ですが、多少は麻痺して痛みを感じにくくなっているはずです……! さぁ、もう閉めますよ! お館様からも絶対に死なせるなと言われているのです!」
白装束の男は、そう言うと勢いよく襖を閉めた。
「早く猿ぐつわを!」
「足、もっと強く縛って!」
「暴れると危ないから強く押さえて!」
部屋の中から響く緊迫した声に、藤吉は思わず後ずさった。
「刀を! 一気にいく! しっかり押さえて!!」
絶叫が辺りに響き渡る。
普段聞いていた百合からは想像がつかない声色だったが、それは確かに百合の声だった。
「押さえて!!」
「ダメだ! 血が止まらない!! 焼きごて!! 早く!!」
肉の焼ける臭いとともに、耳を覆いたくなるような叫び声が響く。
藤吉は目の前が暗くなっていくのを感じた。
かすかに見える襖が歪み、自分が今真っすぐに立っているのかもよくわからなくなった。
(どうしてこんなことに……)
藤吉は思わず耳を覆った。
『狩りに出るだけだ』
少し前に男が言った言葉が、頭の中で響いた。
(お館様……)
藤吉は気がつくと、うまく動かない足を動かして男の部屋に向かっていた。
もつれる足で廊下を走っていると、ちょうど男が部屋から出てくるところだった。
「おお、どうした?」
男は少し驚いたように藤吉を見た。
「どうしてですか……? どうして、矢を……」
藤吉は絞り出すように、なんとかそれだけ口にした。
「……ああ!」
男は少し考えた後、思い出したように何度も頷いた。
「逃げようとしたんだ、あの姉弟。酷いだろ? ここまで面倒見てやったのに、とんだ恩知らずだ」
藤吉は唇を噛みしめた。
「毒矢は……毒はやりすぎでは……?」
「甘いな」
男は冷たい声で吐き捨てるように言った。
「逃げられないと理解させるには、これぐらいがちょうどいい。これでもう逃げようなどと思わないだろう?」
藤吉はこぶしを握りしめる。
「それは……そうですが……」
男は楽しげに笑った。
「まぁ、逃げようと思ったところで、足のない女を連れて逃げるのは不可能だがな」
藤吉は込み上げる怒りを抑えるため、静かにうつむくとゆっくりと息を吐いた。
「もういいか? おまえ、顔色が悪いぞ。今日はもう休め」
男はそう言うと、藤吉の横を通り抜け廊下の向こうに去っていった。
藤吉は握りしめたこぶしを壁に叩きつける。
「クソッ……!」
藤吉は壁に寄りかかると、その場に崩れ落ちた。
吐き気がした。
すべて吐いて叫び出したい衝動に駆られたが、吐いたところでこの気持ち悪さが治まらないことは、藤吉自身が一番よくわかっていた。
翌日、藤吉は百合が休んでいる部屋を訪れた。
部屋は昨日の騒ぎが嘘のように静かで、百合以外ほかには誰もいなかった。
藤吉は部屋に入ると、百合を見つめた。
(熱がありそうだな……)
百合は眠っていたが、その顔は赤くどこか息苦しそうだった。
藤吉は百合の枕元に腰を下ろす。
(医者は大丈夫だと言っていたが……)
部屋を訪れる前に、藤吉は足の切断を行った医者に話しを聞いてきていた。
百合の足は問題なく処置できたと言っていたが、藤吉はその言葉だけでは安心できなかった。
(この熱は大丈夫なのか……?)
藤吉は手を伸ばし、百合の顔に張りついた髪をそっとよけると額に手を当てた。
百合の瞼がわずかに動く。
(あ、起こしたか……?)
「藤吉さん……ですか……?」
百合がかすれた声で言った。
藤吉は目を見張る。
「よくわかったな……」
今回、百合は藤吉の足音も聞いていないはずだった。
「あ、はい……匂いで……」
百合はわずかに微笑んだ。
藤吉は言葉を失う。
「俺……そんなに臭かったか……?」
藤吉はなんとなく気まずくなり、百合に触れていた手をどけた。
「あ、いえ……そういう意味ではなくて……!」
百合は慌てた様子で口を開く。
「ツツジの香りも……かすかにしたので……」
「ああ、そうか……」
藤吉は苦笑した。
(ツツジの香りもってことは、俺自身の臭いもしたってことか……)
藤吉は小さくため息をつくと、百合を見つめた。
百合は微笑みこそ浮かべていたが、やはりどこか苦しそうだった。
「大丈夫か? 苦しいならちゃんと言えよ? 医者を呼んでくるから」
「はい、ありがとう……ございます。でも、大丈夫です……」
百合は柔らかく微笑んだ。
「無理してもいいことはねぇぞ」
「本当に……今は大丈夫ですから……」
百合はそう言うと、悲しげに微笑んだ。
「昨日も……来てくださっていましたよね……あの……足を切ったときも……」
「ああ……」
藤吉は思わず目を伏せた。
百合の悲痛な叫びは、藤吉の耳にずっと残っていた。
「見苦しいところをお見せして……申し訳ありません……。それに、あの……叫び過ぎて吐いてしまった気がしますし……その……汚くてすみません……」
百合は消え入りそうな声で言った。
「そんなこと気にするな……。それに別に汚くねぇよ」
藤吉はそう言うと、百合を見つめた。
どこにも吐いた形跡はなく、百合も布団も清潔に保たれていた。
(ちゃんと面倒は見てもらえてるんだな……)
「あの……」
百合は申し訳なさそうに言った。
「私の足は……どうなっていますか……?」
百合の言葉に、藤吉はようやく自分が無意識に百合の足を見ないようにしていたことに気づいた。
藤吉はゆっくりと百合の右足に視線を向ける。
本来ふくらはぎの先にあるはずの足が、そこにはなかった。
ふくらはぎには布が巻かれ、血を止めるためか紐できつく縛られていた。
藤吉は思わず足から目をそらした。
「別に……普通に……処置してある……」
藤吉はかすれた声で呟いた。
「普通に……ですか……」
百合は悲しげに微笑む。
「私は……今日ほど見えなくてよかったと思った日はありません……。まだ実感がないので……」
「そうか……」
藤吉は目を伏せた。
「こんな目に遭って……世の中を呪いたくなったか……?」
百合は苦しげな顔をした後、小さく首を横に振った。
百合が微笑むと、その目尻から涙がこぼれた。
「私が呪っているとすれば……それは……お荷物でしかない……私自身です……」
百合は唇を噛みしめる。
目尻からは、とめどなく涙がこぼれ布団を濡らした。
藤吉は何も言うことができなかった。
百合はゆっくりと手を動かし、首から紐で下げていた十字架を握りしめた。
(まだ……神なんて信じてるのか……)
藤吉は小さく息を吐くと、手を伸ばし百合の涙をそっと拭った。
百合はわずかに目を開けると、その目を細めた。
「あの……藤吉さん……ひとつお願いしてもいいですか……?」
「なんだ?」
藤吉は目を伏せる。
(逃がしてくれ……か……?)
「顔……触らせてもらえませんか……?」
百合の言葉に、藤吉は目を丸くした。
「俺の顔か……? 今は別に触る必要ないだろ……? それに、今日は俺汚ねぇから……」
百合は微笑んだ。
「私の方が……汚いと言ったでしょう? 私が汚いから……触られたくないというのであれば……無理にとは言いませんが……」
「……その言い方は卑怯じゃねぇか……?」
「私も……藤吉さんが思うほどいい人間ではないのです」
百合はそう言うと笑った。
藤吉はため息をつく。
「わかったよ……」
藤吉の言葉を聞くと、百合は嬉しそうに両腕をゆっくりと上げた。
藤吉はしぶしぶ百合の手に自分の顔を寄せる。
仰向けの百合が触れやすいように動くと、藤吉は自然と百合に覆いかぶさるような態勢になり、藤吉は気まずさから思わず視線をそらした。
「あ、髭が……。久しぶりの感触です……」
藤吉の様子が見えていない百合は、両手で嬉しそうに藤吉の顔に触れた。
「悪かったな……!」
「ふふ、髭……嫌じゃないですよ……。ただ、手が触れたときも思いましたが……藤吉さん……体が冷たくないですか……?」
百合は心配そうに言った。
藤吉は思わず微笑む。
「何言ってんだ。おまえが熱いんだよ。熱があるんだから、もう休め」
そのとき、百合がゆっくりと目を開けた。
薄茶色の瞳に自分の顔が映り、藤吉は目を見開く。
見えていないとわかっていても、至近距離で見つめられ、藤吉は自分の鼓動が早くなるのを感じた。
「藤吉さん……ありがとうございます……」
百合の瞳には、いつの間にか涙が溢れていた。
(どうして……)
藤吉が困惑していると、百合の手がそっと藤吉の顔から離れた。
「もう……大丈夫です……。ありがとうございます」
百合は静かに目を閉じる。
「あ、ああ……」
藤吉は戸惑いながらも体を起こすと、そっと百合の頭を撫でた。
「ゆっくり休めよ」
「……はい」
百合の返事を聞くと、藤吉は立ち上がり静かに部屋を後にした。
「信さん、竜さんの娘さんが来たよ!」
弥吉は長屋の中で漆を塗っていた信に声を掛けた。
信は顔を上げると、眉をひそめる。
「竜さんの娘……?」
「いや、だから! この前言ったでしょ! 竜さんの娘さんが、信さんに仕事を頼みたいって言ってたって! 竜さんは今まさに信さんがやってる仕事を頼んできた人! その娘さんが来てるの!」
弥吉の言葉に、信さんは手に持っていた椀を見つめる。
「ああ……、きゅうりの……」
弥吉は呆れた顔で信を見る。
「だから……このやりとり、このあいだやったからね」
「そうか……」
「そうだよ。それで中に案内していい? 今長屋の外で待ってもらってるんだ」
「ああ」
信はそれだけ言うと、また椀に視線を戻し漆を塗り始めた。
「じゃあ、呼ぶけど……ちゃんと話し聞いてあげてよ……」
弥吉は少し心配そうに言うと、長屋の戸を開けて外に出た。
「失礼します。お忙しいときに突然申し訳ございません」
弥吉が促すと、女がゆっくりと長屋に入ってきた。
信はちらりと女を見る。
女は品の良い笑顔を浮かべていた。
穏やかなその表情は、奉公人というよりもどこか商売人を思わせるものだった。
女はゆっくりと信に近づくと再び微笑む。
「はじめまして。妙と申します。いつも父がお世話になっております」
信は何も答えず、ただ静かに女の顔を見つめていた。
「私、父と似ていないでしょう? 母似なのです。おしゃべり好きなところも母似かもしれませんね」
妙はフフッと笑った。
竜は寡黙でどちらかといえば職人気質な男だった。
目の前にいる女は、顔も声もしぐさも、何ひとつ竜には似ていなかった。
信は眉をひそめる。
「早速なのですが、信様にお願いしたいことがございまして……」
信の様子を気にすることなく、女は笑顔で口を開く。
「父から信様は絵付けができると伺いました。実は、皿の絵の修復ができる方を屋敷の旦那様が探しているのです。修復は絵付けとは少し違うかもしれませんが、ぜひ一度修復できるか見ていただきたいと思い、こうして伺いました」
女はにこやかな笑みを浮かべながら、信を見つめた。
信は女から視線をそらさず、ゆっくりと手に持っていた椀と漆の刷毛を置く。
「……おまえ、誰だ?」
信は真っすぐに女を見つめると、静かに聞いた。
女は動じることなくクスッと笑う。
「先ほど申し上げた通り、竜の娘の妙です。そんなことより、修復できるか一度皿を見ていただきたいのです。こちらに持ってこられればよかったのですが、貴重な皿なので屋敷の外に出すことはできなくて……」
女は申し訳なさそうな顔をして信を見た後、妖しげに笑った。
「ですから、一度屋敷にお越しいただきたいのです」
信は睨むように女を見たが、女は笑顔で応えた。
「いかがですか? お願いできますか?」
しばらく二人はそのまま見つめあっていたが、やがて信が口を開いた。
「わかった」
信の言葉に、女はにっこりと微笑む。
「ふふ、ありがとうございます。では、今からは急なので、三日後はいかがでしょうか? また私がこちらに伺い、屋敷までご案内いたします」
「……わかった」
信は女から視線をそらさず言った。
「あ、信さん……」
部屋の隅で、どこか緊迫した二人のやりとりを聞いていた弥吉は、ようやく声を出すことができた。
「あの、それ……俺も一緒に行っていい……?」
弥吉の言葉に、信がわずかに目を見張る。
「ダ……!」
「ええ、ぜひぜひ!」
信の言葉を遮るように、女が嬉しそうに言った。
女の言葉に、信は眉をひそめる。
「弥吉さんが一緒だと私も話しやすいので嬉しいです。ただ……信様がダメだとおっしゃるなら、それは……。私はどちらでも構いませんので……。ここにひとりで残っていただいても、一緒に屋敷に来ていただいても、どちらでも……」
女が妖しく目を細め、口元を歪める。
信は女を睨みつけた。
「し、信さん……?」
信の様子に戸惑い、弥吉がおずおずと声を掛ける。
「あの……別に無理には……」
「いや、いい。弥吉と行く」
信は淡々と女に言った。
信の言葉に、女は嬉しそうに笑う。
「では、三日後にまた参ります」
女はそう言うと信に頭を下げ、戸に向かって歩き出した。
信は女の背中を見つめ続ける。
女は戸を開けると、信を振り返った。
「いろいろと、まだわからないことはあるかと思いますが、来ていただければ……すべてわかるはずですよ」
女は妖しく微笑むと、もう一度頭を下げた。
「それでは、失礼いたします」
女が外に出ると長屋の戸はゆっくりと閉まった。
「し、信さん……」
弥吉が不安げに信を見た。
「あの妙さんって人……何かあるの……?」
信は弥吉を見つめた後、静かに目を伏せた。
「いや……別に。何もない……」
信はそう言うと、再び椀と刷毛を持って漆を塗り始めた。
「そう……ならいいけど……」
弥吉が不安げに小さく呟く声が、信の耳に届く。
信は静かに目を閉じた。
百合が足を失ってから三年が過ぎた。
百合は熱が下がるとすぐに小屋に戻り、以前と変わらない生活を送っていた。
藤吉は小屋に向かいながら、深いため息をつく。
(変わったのは……あいつだよな……)
百合が足を失ってから、信は変わった。
(もうあそこまでいくと……化け物だ……)
あの日以来、信が仕事に数日かけることはなくなった。
藤吉でさえ難しいと思える依頼でも、信は数刻で片づけて戻ってくる。
護衛に守られている人間も多い中、計画も立てずに正面から突っ込んでいくこと自体が自殺行為だった。
それを一日とかからず終わらせて帰ってくるなど、藤吉には到底想像できなかった。
信はこの三年で、裏側の世界では知らない者がいないほどの存在になった。
(すべては姉を守るために……か……)
藤吉はもう一度ため息をついた。
(必死で仕事をこなして帰ってきて、姉の代わりに毒の入った飯を食う生活なんて……いくら俺でも同情する……)
藤吉は重い足取りで小屋に向かう。
小屋に着いた藤吉は、窓からそっと中を覗いた。
予想通り、百合がこちらを向いてにっこりと微笑んだ。
「調子は悪くなさそうだな」
「はい、おかげさまで」
百合はフフッと笑った。
藤吉はいつものように回り込んで、小屋の戸に向かう。
三年で百合は一層美しく成長していた。
微笑む顔は藤吉が眩しく感じるほどだったが、年を追うごとにその顔に暗い影が差すことも多くなった。
(食事に毒が入ってることも、それを信が代わりに食べてることも……気づいてるみたいだしな……)
藤吉はゆっくりと息を吐いてから、小屋の戸を開けた。
百合が静かに藤吉の方を向く。
窓から差し込む光が百合を照らし、穏やかに微笑むその姿は藤吉の目には痛いほど清らかだった。
「どうしたんですか? 藤吉さん」
百合が首を傾げる。
「いや、なんでもねぇよ」
藤吉はそう言うと、百合の横に腰を下ろした。
光を受けて百合の胸元の十字架が鈍く光る。
(まだつけてるのか……)
藤吉は思わず、百合の胸元をじっと見つめた。
ふいに百合がフッと笑った。
「今日はどうしたんですか?」
「いや、別に……。その……ずっとつけてるなと思っただけだ」
藤吉は視線に気づかれたことに気まずくなり、頭を掻いた。
「ああ、これですか?」
百合は首に下げた十字架を手に取った。
「母の形見ですからね……」
百合はそう言うと微笑んだ。
「おまえにとっての神様でもあるだろ?」
「か、神ですか……? いえ、これが神だとは……」
百合は少し驚いたように首を横に振った。
「信仰の象徴のようなものではありますが……」
「信仰……ね……」
藤吉は思わず目を伏せる。
「神なんていねぇよ……。いたら……おまえやおまえの弟がこんな目に遭ってるわけねぇだろ……?」
藤吉は言った後、ハッとして口元を押さえうつむいた。
(しまった……。こんなこと言うつもりじゃ……)
百合は目を見開いた後、静かに目を閉じて微笑んだ。
「そうですね……。いないのかもしれませんね」
百合の言葉に、藤吉はおずおずと顔を上げた。
百合の顔は穏やかだった。
「それでも、神を信じることで救われる人はいるのです。私の母のように……」
百合は窓の方に顔を向けた。
「おまえの母親……?」
「はい、母が私たちを抱えて苦しい中でも生きていけたのは、正しく生きればいつか救われると、心から信じていたからです」
「でも、おまえの母親は……」
藤吉は百合の母親の最期の姿を思い出して、思わず目を伏せた。
「藤吉さんにはどう見えたかわかりませんが、母は最期まで自分が不幸だったとは思っていなかったと思いますよ。母は間違いなく信仰によって救われていました」
百合はそう言うと微笑んだ。
「……おまえも……救われているのか……?」
藤吉は思わず百合に聞いた。
百合の表情が曇ったのを見て、藤吉は慌てて口を開く。
「あ、悪い……別に……」
「……わかりません」
藤吉の言葉を遮るように、百合が小さく呟いた。
「私は……母のように、正しく生きてはいませんから……。死んだ後も、私は地獄行きでしょうし……」
百合はそう言うと困ったように微笑んだ。
藤吉は目を丸くする。
「は? どうしておまえが地獄行きなんだよ……。おまえが地獄行きなら、この世のほとんどの人間が地獄に行くことになるだろうが……」
藤吉の言葉に、百合は困ったような顔で首を横に振った。
「私は……藤吉さんが思っているほどいい人間ではないのです。どうしようもないほど……醜く歪んだ人間です……」
百合の表情はひどく暗いものだった。
(まったく……)
藤吉は軽く息を吐くと、百合の頭を勢いよく撫でた。
「え!?」
百合が驚いた様子で顔を上げると、くしゃくしゃになった髪に手を当てた。
「おまえはごちゃごちゃ考えすぎだ。何が言いたいのかよくわからねぇけど……」
藤吉は真っすぐに見つめると微笑んだ。
「俺は間違いなく地獄行きだから、おまえが地獄に落ちてきたら、そのときは見つけ出して手ぐらい引いてやるよ。安心しろ」
百合は目を見開いた。
薄茶色の瞳に涙が溢れ、こぼれていく。
「え……?」
藤吉は慌てて百合の涙を拭おうとしたが、百合はサッと自分の手で涙を拭った。
そして、何事もなかったかのように微笑んだ。
「フフ……藤吉さんと一緒なら、地獄も楽しくなりそうですね。少し……死ぬのも悪くないかなと思いました」
「おいおい、縁起でもねぇこと言うなよ……」
藤吉は呆れた顔で百合を見る。
百合の顔は先ほどの涙が嘘のように穏やかだった。
「フフ……そうですね」
百合は窓の方に視線を向ける。
「まだ……もう少しだけ……」
百合は小さく呟くと、胸元の十字架を握りしめた。
藤吉はこのとき百合が何を考えているのか、まったくわかっていなかった。
信は仕事のために、朝早く小屋を出た。
ひとりになった長屋で、百合はうずくまった。
(信…………あんな体で、また……)
昨日小屋に戻ってきたとき、信は明らかに怪我をしていた。
怪我を隠すように、いつも通り振る舞おうとする信に、百合は気づかないフリをするしかなかった。
(私のせいで、信は帰ってきても気が休まらないのね……)
百合は両手で頭を掻きむしった。
「まったく私は……役に立たないどころか……、生きているだけで害になるなんて……」
百合の口から苦い笑いがこぼれる。
(わかっていたことじゃない……)
百合は強く瞼を閉じた。
(私は……一刻も早く死ぬべきだって……)
百合は込み上げる吐き気をなんとか抑えた。
百合が片足を失ってから、信は半日かからず小屋に戻ってくるようになった。
しかし、その代わり以前とは比較にならないほど信の怪我は増えた。
足を引きずる音、浅い呼吸、寝返りを打ったときの痛みを堪えるような呻き声。
音だけでも、信の身に何が起きているのかはわかった。
毎回信が食事を入れ替えていること、食事に口をつけた信が小屋の外に出て吐いていることを知り、百合がすべてを理解するのに時間はかからなかった。
(そんなことしなくていいのに……!)
百合は十字架を握りしめた。
息が苦しかった。
百合は目の前が暗くなっていくのを感じた。
(いっそ私のことを捨ててくれれば……!)
百合はもう、どうすれば信を救えるのかわからなかった。
「私は……最初から間違えたのね……」
百合は絞り出すように呟いた。
(いくら信が望んでいたとしても、気づかないフリなどするべきではなかった……)
百合は苦しくなり口を開けたが、うまく息ができなかった。
(気づかないフリをしたことで……信を……ひとりに、本当の意味で孤独にしてしまった……)
「本当に……私さえいなければ……」
気がつくと百合の頬は濡れていた。
「私は……一体何をしていたの……?」
百合は母親から、信を頼り、支えて生きていくようにと言われていた。
目が見えない百合は、そのように生きるのが普通なのだと思い、これまで生きてきた。
しかし百合は、盲人ができる仕事があることを知らないわけではなかった。
鍼や灸を学び按摩になる道、楽器を極め楽師になる道、女であるためにそれが難しいなら母親のように身を売る道もあると百合はわかっていた。
(私が……目が見えないことを言い訳にして……ひとりで生きる道を考えようとしなかったから……)
「私は……本当に、ただの荷物に成り下がってしまった……」
百合は眩暈がして、片手で顔を覆った。
「ごめん……ごめんね、信……! 私さえいなければ……!」
百合はもう片方の手で胸元を掻きむしる。
(わかっているの……。私は……)
「どうした!?」
そのとき、頭の上から声が響いた。
百合は目を見開く。
「大丈夫か!? 何があったんだ!」
それは、藤吉の声だった。
窓からうずくまっている姿が見えたのだと百合は悟った。
(気が……つかなかった……)
百合は顔から血の気が引いていくのを感じた。
「あ……な……」
百合は慌てて口を開いたが、うまく言葉が出てこなかった。
「今、そっちに行く!」
藤吉が戸に向かう足音が響く。
(い、嫌……。こんな姿見せたくない……)
百合は壁に寄りかかり立ち上がろうとしたが、体に力が入らなかった。
小屋の戸が勢いよく開き、藤吉が近づいてくるのがわかった。
「大丈夫か!?」
藤吉が慌てた様子で百合を抱き起こす。
「何があった!?」
「あ…………」
百合はうまく声を出すことができなかった。
藤吉の体からふわりとツツジの花の香りがした。
百合は目の奥から込み上げるものを抑えることができなかった。
「おい、大丈夫か!? まず息を吸え」
藤吉はそう言うと百合を優しく抱きしめて、背中をさすった。
「俺が支えてるから、ほら、ゆっくり」
藤吉の体は温かった。
(信……ごめんね……。私もこんなふうに、ただ抱きしめてあげればよかった……。何を考えているかなんて知ろうとせずに……ただ受け入れていれば……)
百合はゆっくりと息を吸った。
ツツジの花の香りが、優しく百合を包む。
百合は唇を噛んだ。
(ごめんね……。私は死ぬべきだって……わかってるの……。でも、もう少しだけ……)
百合の耳に、藤吉の心臓の音が響く。
(もう少しだけ…………生きることを許して……)
百合は優しい温もりに堪えきれず、声を上げて泣いた。
百合が泣き止むまで、藤吉は何も言わずただ静かに百合の背中をさすり続けた。
「信に絵の補修を?」
咲耶は鏡越しに弥吉を見た。
女が訪ねてきた翌日、弥吉は咲耶に長屋での出来事を話した。
「それで明後日屋敷に行くことになった……と」
昼見世の準備をしていた咲耶は、髪を結われているため鏡越しに口を開く。
「それに何か問題があるのか? 竜さんという知り合いの娘から依頼されたんだろう?」
「そう……です、たぶん……。そう名乗ってはいました……」
弥吉はそう答えると、静かに目を伏せた。
「名乗っていた……ということは違ったのか?」
咲耶は振り返って弥吉を見る。
咲耶の髪を結っていた男も咲耶の様子に、静かに手を止めた。
弥吉はおずおずと顔を上げる。
「違うかどうか……わからないんです……。竜さんは数日前からどこかに出かけているそうで……確認ができなくて……。でも、信さんは何か疑っているようで、様子がいつもと……」
咲耶は珍しく不安げな表情を浮かべていた。
「信は……何か言っていたか?」
「いえ、何も……。ただ、あれからいつも以上に口数が少なくて……」
弥吉はそれだけ言うと、静かにうつむいた。
咲耶はしばらく何か考えているようだったが、やがて口を開いた。
「弥吉に頼みがあるのだが……玉屋の男衆を何人か同行させてくれないか?」
咲耶の言葉に弥吉は目を丸くする。
「玉屋の……?」
「ああ、私がその皿に興味を持っているから、とでも言ってくれ。弥吉が玉屋の文使いなのは、その女も知っているのだろう?」
「そうですね……。本当に竜さんの娘なら……知っているはずです……」
「それなら、その理由で押し通してくれ。本当に絵の修復が目的なら、人数が増えたところで問題はないはずだ」
咲耶はそう言うと、弥吉を真っすぐに見つめた。
「もし男衆の同行も拒否するようなら……そのときは、行くのはやめるよう信に言ってくれ」
「わ、わかりました」
弥吉は咲耶を見つめると、力強く頷いた。
「まぁ、おそらく……」
咲耶は小さく息を吐いた。
「行くことにはなるのだろうが……何かあったとしても最悪の事態は避けられるはずだ」
咲耶の言葉に、弥吉はこぶしを握りしめる。
咲耶はそれだけ言うと静かに鏡台に向かって座り直し、背後に控えていた男は再び咲耶の髪を結い始めた。
「弥吉……」
咲耶は鏡越しに弥吉に視線を向ける。
「屋敷に着いたら絶対に信から離れるな」
「え?」
弥吉は意味がわからず、思わず咲耶を見つめた。
「とにかく絶対に離れるな。いいな、わかったか?」
咲耶はいつになく強い口調で言った。
「あ……はい……」
弥吉は戸惑いながらも小さく頷いた。
弥吉が頷くのを確認すると、咲耶は微笑む。
「引き留めて悪かったな。仕事に戻ってくれ」
咲耶はそう言うと、目を伏せた。
「あ、いえ、こちらこそ忙しいときに申し訳ありませんでした! 失礼します」
弥吉はそう言うと、一礼して咲耶の部屋を後にした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
弥吉が部屋から出ていくと、咲耶は息を吐いた。
(狙いはなんだ……?)
咲耶は鏡に映る自分の顔を見つめる。
鏡の中の咲耶の顔色は決していいとはいえなかった。
(弥吉に……気づかれただろうか?)
咲耶は強く目を閉じた。
(明らかに罠だ。しかし、こんなあからさまな手を使って、信を屋敷に来させる理由は一体なんだ……? 三日後などと、あえて猶予を与えたのはなぜだ?)
咲耶は片手で顔を覆った。
(弥吉も一緒に行くのか……)
咲耶は深く息を吐いた。
(弥吉は自分が殺されるところだったことを知らないからな……。むしろ狙いは弥吉の方なのだろうか……?)
どれだけ考えても答えは出なかった。
(関係のない人間を同行させれば、人目を気にして、正面から信と弥吉を殺しにかかることはないだろうが……)
咲耶はゆっくりと目を開ける。
(信なら大丈夫だ……。きっと何があったとしても……)
咲耶は何度も自分に言い聞かせたが、咲耶の不安が消えることはなかった。
「今日は外に出るぞ」
小屋に着いて早々、藤吉は百合に向かって言った。
「……え?」
百合は驚いた様子で目を開く。
「外……ですか?」
「ああ。山は下りられないが、今日なら少し外に出るくらいは大丈夫だ」
「本当……ですか? 藤吉さんに何か……迷惑がかかるのでは……?」
百合の言葉に、藤吉は笑った。
「バレなければいいだけだ。それに山を下りない限りは別にお咎めもないだろうから」
「しかし……」
百合が反論しようと口を開いた瞬間、藤吉は持ってきた大きめの着物で百合を包んだ。
「え!?」
百合のくぐもった声が布越しに響く。
「よし……」
頭から足まで着物で包むと、藤吉は頭と膝の裏を支え百合を抱き上げた。
「えぇ!?」
百合は抱き上げられたことに驚いたのか、足をバタバタと動かした。
「おい、おとなしくしてろよ」
藤吉は百合に向かって囁いた。
藤吉の声に、百合はビクリとした後、静かに足の力を抜いた。
「……重く……ありませんか?」
百合は躊躇いがちに口を開く。
「軽すぎて心配になるくらいだ。もう少しちゃんと食えよ」
藤吉はそう言うと、百合を抱きかかえたまま歩き、小屋の戸を開けた。
「フフ……、軽いならよかったです。足を切り落とした甲斐もありました」
百合の言葉に、藤吉は目を見張ると思わず足を止めた。
「おまえ……それは、さすがに笑えねぇよ……」
着物の中で、百合がハッとした様子で顔を上げたのがわかった。
「ごめんなさい……!」
着物がガサガサと動き、布の隙間から百合の白い腕が伸びた。
百合の手がそっと藤吉の頬に触れる。
「こんな顔……させたかったわけじゃないのに……。ごめんなさい……」
藤吉は軽く息を吐くと、また歩き始めた。
「まったく……。だから言っただろ? おまえには冗談の才能がねぇって。黙っておとなしくしてろ」
「はい……」
百合はそれだけ言うと、腕を着物の中に戻し静かに藤吉に身をゆだねた。
心地よい風が藤吉の頬を撫でる。
(もうすっかり秋だな……)
山の上にある屋敷での生活は何かと不便だったが、木々が色づく美しいこの季節だけは山での生活も悪くないと藤吉は思っていた。
(この景色を見せられたらいいんだが……)
藤吉は布越しに百合を見る。
(光ぐらいか……感じられるのは……)
藤吉は目的の場所に着くと、ゆっくりと百合を座らせた。
包んでいた着物から百合の顔を出す。
「着いたぞ」
藤吉は百合に声を掛ける。
百合は辺りを見渡すように、顔を動かした。
「ここは……どこですか……?」
「俺の気に入ってる場所だ」
藤吉は百合の横に腰を下ろした。
藤吉が来たのは見晴らしのいい丘の上だった。
山を下りるための山道とは逆方向にあり、この先は切り立った崖しかないため屋敷の人間は滅多に来ない場所だった。
景色がいい場所ではあったが、百合がどう感じるのかは藤吉にはわからなかった。
藤吉は百合の顔を覗き込む。
「悪いな、こんな場所ぐらいしか連れてこれなくて……。少しでも外の空気が吸えれば、いつもよりはマシかと思って……」
百合は目を閉じ、ただじっとしていた。
暗い顔ではなかったが、その表情から百合が何を考えているのかはわからなかった。
百合がゆっくりと口を開く。
「すごく……素敵な場所ですね……」
「ああ、見晴らしはいいんだが……見せられなくて悪いな……」
藤吉の言葉に、百合は微笑んだ。
「見えなくても……感じています。吹き抜ける風も、木々が揺れる音も、虫の音も、草の香りも……すべて感じます」
「そうか……」
藤吉はホッと胸を撫でおろした。
「あの……大きな木々が揺れる音と一緒に、低い位置で何かが揺れている音もするのですが、背の高い草が生えている場所があるのですか……?」
百合は辺りを見渡しながら聞いた。
(さすがに耳がいいな……)
藤吉は小さく微笑んだ。
「ああ、草じゃねぇが、おまえから見て右側の一帯に彼岸花が咲いてるんだ」
「花ですか……。匂いはしないのですね……」
「ああ、確かに。彼岸花から匂いを感じたことはねぇな……」
「手に取ってみてもいいですか?」
百合はそう言うと四つん這いで、右に向かって進み始める。
「あ、手に取るのはやめておけ」
藤吉は慌てて、百合の手首を掴んで止めた。
「彼岸花は毒があるから」
「毒……ですか」
百合は藤吉の方を振り返ると、少し悲しそうな顔をした。
「花には、毒があるものが多いのですね……」
「まぁ、花も動物の食い物にはなりたくねぇだろうからな……。植物は動けねぇし、毒を持つくらいしか身を守る方法がないんだろ」
「そう……ですか……」
百合は少しうつむくと、ゆっくりとその場に腰を下ろした。
「彼岸花は食べて死ぬやつがいるせいか、幽霊花とか地獄花とか言われてるくらいだ。触るのはやめとけ」
「地獄花ですか……」
百合はひどく辛そうな顔をしていた。
「藤吉さん……、私……」
百合は躊躇いがちに口を開く。
そのとき、強い風が吹いた。
藤吉は百合の言葉を待ったが、百合の口から続く言葉はなかった。
「どうした?」
藤吉の言葉に、百合は首を横に振るとぎこちなく微笑んだ。
「いえ……、なんでもありません……」
百合は静かにうつむく。
藤吉は少しのあいだ百合を見つめていたが、そっと目を閉じた。
二人はしばらく、ただそうしていた。
藤吉はチラリと百合を見ると、小さく息を吐いた。
「何が言いたかったのかはわからねぇけど……地獄花っていうのが何か引っかかってるのか?」
藤吉の言葉に、百合はどこか苦しげな顔をした。
「いえ、そういうわけでは……」
藤吉はもう一度息を吐くと、百合の肩を軽く叩く。
「ちょっと待ってろ」
藤吉はそう言うと立ち上がり、彼岸花が咲く場所へと足を進めた。
藤吉はゆっくりとその場にしゃがむと、一輪だけ彼岸花を手折り、百合の元に戻った。
「ほら」
藤吉は百合の手を取り、彼岸花を渡す。
「口をつけるなよ。それから後で必ず水で手を洗え」
「あ……」
百合は躊躇いがちに彼岸花の茎を手に取った。
「彼岸花の別名は地獄花だけじゃない。仏教で彼岸花は『天上の花』っていわれてる」
「天上……ですか?」
百合は花を手に持ったまま、藤吉の方を向いた。
「ああ、天上に咲く花。『これを見る者は自ずから悪業を離れる』なんていわれてる花だな」
「悪業を……離れる……」
百合はそう呟くと、そっと花びらに触れる。
「それほど美しい花なのですね……」
百合は静かに微笑んだ。
「まぁ、俺にはわからねぇけどな」
「フフ……、この花は……天国に行った母のところにも咲いているでしょうか?」
百合は花びらに触れながら、小さく呟いた。
「さぁな。俺は仏の教えも本気で信じてるわけじゃねぇから。でも、徳を積んだっていう偉い坊さんが言ってるんだ。咲いてるんじゃねぇか?」
「……そうですね」
百合は微笑むと、ゆっくりと顔を上げた。
百合の薄茶色の髪が風でなびく。
「藤吉さん……、私は死ぬことを怖いと思ったことがありません。地獄に落ちることも……別に怖くはないのです」
百合はゆっくりと目を開けた。
「私が怖いのは……大切な人ともう二度と会えなくなること……。それがどうしようもなく怖いのです……」
百合の瞳から涙がこぼれる。
藤吉は目を見開いた後、静かに目を伏せた。
(弟と離れるのがそんなに怖いのか……)
「母とはもう二度と会えません。死後の世界があったとしても、母は天国で、私は地獄ですから……」
百合は頬を伝う涙をそっと手で拭った。
藤吉は百合を見つめる。
「前に言っただろ? おまえが地獄に行くはずないって……」
「いえ、私は地獄行きです」
百合ははっきりと言った。
百合の言葉に、藤吉は呆れてため息をつく。
「そうだった、おまえ頑固だったな……」
藤吉は頭を掻いた。
「そもそも、天国や地獄ってのはおまえが信じてる教えの話だろ? 本当にそんなところに行くかどうかなんてわからねぇよ。それに仏教でいうと、この世界は『六道輪廻』だ」
「六道……なんですか? それは……」
百合は目を閉じると、藤吉の方を向いた。
「人は死んだ後、天国か地獄かじゃなく、六つの道に分かれるってやつだ。天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道。罪に応じてそれぞれの道に生まれ変わるんだ」
藤吉の言葉に、百合は不思議そうに首を傾げた。
「別の世界に、また生まれるということですか?」
「ああ。寿命があるからそれぞれの道で死んだら、また次の道に生まれ変わる。六道をずっと廻り続けるってわけだ。だから、二度と会えないなんてことはねぇよ。廻り続ける中で、会いたいやつにはまたどこかで会えるはずだ」
藤吉の言葉に、百合は目を見開いた。
「まぁ、俺は信じてな……」
そう言いかけたところで、藤吉は思わず口を噤んだ。
百合が泣いていた。
百合の頬を涙が伝う。しかし、その顔は晴れやかでどこか笑っているようでもあった。
「百合……?」
藤吉は思わず名を呼んだ。
百合は嬉しそうに微笑む。
「素敵ですね……。また会えるかもしれないなんて……。それなら、もう……怖くはありません」
百合の笑顔に、藤吉はなぜか不安を覚えた。
藤吉は目を閉じ、何かを振り払うように軽く首を振る。
「おまえはまだ死ぬような年じゃねぇんだから、変な心配するな。ほら、そろそろ帰るぞ。風が冷たくなってきた」
藤吉はそう言うと、百合を再び顔まで着物で包んだ。
「藤吉さん……」
布越しに百合の声が響く。
「なんだ?」
「……ありがとうございます」
百合の声は涙でかすれていた。
「……ああ」
藤吉は短く応えると、百合を抱きかかえた。
風が強くなっていた。
二人が去った後には、手折られた赤い彼岸花が一輪だけ、そっと残されていた。