「それで……あの屋敷は今どうなっているんだ?」
 咲耶は、久しぶりに部屋を訪ねてきた叡正を見つめた。
「今か……俺はあれからあの屋敷には行ってないからな……」
 叡正が少し申し訳なさそうに口を開く。
「隆宗様が新しい当主になるらしいっていうのは、噂で聞いたけど……。屋敷を離れていた奉公人たちもほとんどが帰ってきたってさ」
 叡正はそう言うと少しだけ微笑んだ。


 隆宗が父親を刺し殺そうとしたあの日から、ひと月が過ぎていた。
 あの後、隆宗は奉行所に行き、屋敷で起こったことを包み隠さずすべて話した。
 奉行所の人間が屋敷を探ると、謀反を企てた証拠がいくつも見つかり父親は捕らえられ、計画に関わっていたほかの者も捕まった。

 隆宗は、死体を井戸に捨てたうえ、噂を流して奉行所を惑わしたことで罪には問われたが、父親の謀反を止めるためだったということもあり、大きな罰は受けなかった。
 乳母が残した手紙は、隆宗の話した内容を裏付ける証拠となったのと同時に、奉公人たちが隆宗を支えていこうと決意するきっかけにもなった。
 親戚の屋敷を回って奉公人たちの受け入れ先を探していたことも、奉公人たちの想いを強くした。


 咲耶は目を伏せた。
「……そうか。よかった、とは言えないかもしれないが……、弥吉の友人が罰せられなかったこと、支えてくれる人たちがたくさんいることは、せめてもの救いだな……」
「ああ……そうだな」
 叡正は呟くようにそう言うと小さく頷いた。

 咲耶は自分から伸びる影を見つめ、ようやく日が傾いてきていることに気がついた。
「あ、そういえば、そろそろ時間か……」
 咲耶は思わず呟く。
 叡正はハッとした顔で咲耶を見た。
「あ、悪い。長居した……。これから何かあるのか?」
 叡正は慌てた様子で立ち上がろうとした。
「あ、いや、このまま居てくれて大丈夫だ。これから……」
 咲耶は叡正を見て微笑んだ。
「弥吉が来るんだ」

 叡正は目を丸くする。
「弥吉……ってことは文使いとして復帰するのか?」
 叡正はどこか嬉しそうな顔で聞いた。
「ああ、まだ弥吉から直接返事はもらっていないが、また働いてくれるそうだ」
 咲耶は微笑んだ後、静かに目を閉じた。
「無事に、父親の最期は看取れたようだからな……」
「……そうか」
 咲耶の言葉に、叡正は静かに目を伏せた。

 そのとき、襖の向こうで緑の声が響く。
「花魁、弥吉さんと信様がいらっしゃいました」

 咲耶はチラリと叡正を見る。
「噂をすれば、だな。……通してくれ」
 咲耶がそう言うと、ゆっくりと襖が開き、信と弥吉が姿を見せた。
 信はそのまま部屋に入ったが、弥吉はその場で咲耶に向かって膝をついた。
「弥吉?」
 咲耶は目を丸くする。
 弥吉は両手を畳につけて、頭を下げた。
「咲耶太夫……、俺は……とんでもないことを……」
 弥吉は頭を下げたまま、絞り出すように言った。

 咲耶は苦笑する。
「おいおい、そんなことが聞きたくて呼んだわけじゃない。頼むから顔を上げてくれ……」
 咲耶の言葉に、弥吉がおずおずと顔を上げる。
「だいたいの話は信から聞いている。おまえは何も悪くないんだから、気にするな。そんなことより文使いが足りていなくて困っているんだ」
 咲耶はわざとらしく困った表情を作る。
「前にいた文使いが、それはそれは良い仕事をしてくれていてな……。あの子じゃないとダメだと言ってくる客が多くて困っている。なぁ、弥吉……文使いの仕事、頼まれてはくれないか?」
 咲耶は弥吉を見て優しく微笑んだ。

 弥吉は目を見開く。
 その目にみるみるうちに涙が溜まった。
 弥吉はこみ上げるものを抑えるように、わずかに唇を噛んだ。
「……はい、もちろん……」
 弥吉はそう言うと、着物の袖で目を擦る。
「前いた文使いなんて霞むくらい、良い仕事をしてやります……!」
 弥吉はまだ涙の浮かぶ目で、真っすぐに咲耶を見た。

「ふふ、それは心強いな」
 弥吉の言葉に、咲耶は微笑むと弥吉に向かって手招きした。
「ほら、そんなところにいないでもっと近くに来てくれ。話しづらいだろ?」
「あ……はい!」
 弥吉は慌てて部屋に入ると、信と叡正の隣に腰を下ろした。

「それで、ちゃんと最期を見届けることはできたのか?」
 咲耶は弥吉を見て聞いた。

「はい、信さんの家で最期まで看病することができました」
 弥吉はそこで少し笑った。
「まぁ、看病って感じでもなかったですけどね。信さんが変なことばっかりするから、父ちゃんも気になっておちおち寝てられなったみたいで……。看病させて申し訳ないみたいな雰囲気にならなかったので、逆によかったかもしれないですけどね。なんだかんだで毎日笑ってたし、良庵先生の薬のおかげか、最期まで穏やかな顔をしてました」
 弥吉は浮かんだ涙を隠すように、静かに目を伏せた。

「……そうか」
 咲耶も目を伏せる。
(よかった……とは言えないが、悔いの残る別れにはならずに済んだか……)
 咲耶は息を吐くと、話しを変えることにした。

「ところで、これからなんだが、またあの屋敷に戻るのか? あの屋敷からここまではかなり遠いだろう?」
 咲耶は視線を上げると弥吉を見た。
「あ、はい。ここで働くためにも、また信さんの家で暮らすことにしました。隆宗のところにはちょこちょこ顔は出そうと思ってますが、そもそも俺、あの屋敷であまりできることがないので……。それに、隆宗にはたくさん奉公人がついてますからね」
 弥吉は苦笑した。
「むしろ信さんの方が俺がいないと心配です」
 弥吉の言葉に、咲耶は思わず吹き出した。
「ふふ……確かにそうだな」
 咲耶は笑いながら、チラリと信を見た。

 その瞬間、咲耶は目を見開く。

 信の口元が動き、かすかに笑ったように見えた。
(え……?)
 咲耶が瞬きをして、もう一度信を見る。
 信はまたいつもの表情に戻っていた。
(今……笑った……?)
 咲耶の胸に温かいものがこみ上げる。
(笑ったのか? 信が……)

「咲耶太夫?」
 咲耶の動きが止まったため、弥吉は不安げに咲耶の名を呼んだ。
「あ、いや……なんでもない」
 咲耶は慌てて首を振った。
 三人は横に並んでいたため、咲耶以外誰も信が笑ったことに気づいていないようだった。

(信も……変わり始めている……)
 咲耶は思わず胸に手を当てた。
(よかった……本当に……!)

 咲耶は目を閉じた後、弥吉を見つめた。
「おまえがいてくれて……本当に良かった。大変かもしれないが、これからも信のそばについていてやってくれ」
 弥吉は少しだけ目を見張った後、照れくさそうに笑った。
「はい、もちろんです!」
 弥吉の言葉に、咲耶は微笑んだ。

「そうだ、まだ言っていなかったな」
 咲耶は弥吉を見つめ、満面の笑みを浮かべた。
「おかえり、弥吉」
 弥吉はわずかに口を開けた後、嬉しそうに微笑んだ。
「はい、ただいま戻りました!」

 窓から入ってくる風が心地よかった。
 夏は過ぎ、季節はまもなく秋を迎えようとしていた。