「すみません、清さんを見ませんでしたか?」
 隆宗は、廊下を歩いてきた奉公人の男を呼び止めた。
「私は朝見かけて以降、見ていませんね……。もう夜ですし、この時間でしたら部屋で休んでいるかと思いますが……いなかったのですか? お急ぎでしたら、私も一緒に探しましょうか?」
「あ、いえ……。急ぎのようではないので……。ありがとうございます」
 隆宗は少しだけ目を伏せた後、視線を上げると笑顔で礼を言った。
「そうですか。もし見つからないようでしたら、またいつでも声を掛けてください」
 男は笑顔でそう言うと、一礼して廊下を歩いていった。

 隆宗は小さく息を吐く。
 乳母の部屋には先ほど行ったが、乳母の姿はどこにもなかった。
(どうしてだろう……。胸騒ぎがする……)
 隆宗は再び目を伏せる。
 乳母が夜更けに部屋を空けてどこかに行くことは、今までに一度もなかった。
(何かあったのかもしれない……)
 隆宗は拳を握りしめた。
(とにかく清さんを探そう……! 清さんが行くとしたら……)
 隆宗は視線を上げると、廊下を歩く足を速めた。

 隆宗は、今は物置になっている小屋に向かっていた。
 以前そこであったことを考えれば、乳母が再び小屋に行くことは考えづらかったが、心当たりはもうそこしかなかった。

 屋敷の外は薄暗かったが、月明りがあったため歩けないほどではなかった。
 小屋が見えてきたところで、隆宗は誰かが小屋の戸から出てきたことに気づいた。
(清さん……? じゃないよな……)

 隆宗は足を速めると、目を凝らした。
 その瞬間、何かが月明りに反射して光った。

「……!?」
 隆宗は息を飲む。
 小屋の戸から出てきた男は刀を持っていた。
 男は辺りを見回すと静かに刀を鞘に収めた。

(あれは……誰だ……? 誰かがこの屋敷に……)
 隆宗は咄嗟に身を隠そうと考えたが、隠れられる場所はそこにはなかった。

「誰だ!」
 気配に気づいたのか、男が声を上げた。
 隆宗の体がビクリと震える。
 その声には聞き覚えがあった。

「ち……父上……?」
 隆宗は思わず呟いていた。

「……なんだ隆宗か……」
 父親はホッとしたような声で言うと、ゆっくりと隆宗に近づいてきた。
 月明りに照らされ、しだいに父親の姿がはっきりと見えてくる。

 隆宗は目を見開き、息を飲んだ。

 笑う父親の頬には、赤い血飛沫のようなものがついていた。
 暗い色の着物もよく見れば赤く染まり、じっとりと濡れているようだった。

 隆宗の顔が恐怖で歪む。
 隆宗は思わず後ずさった。

「ああ、これか?」
 父親は隆宗の反応を見て、自分の頬に手を当て汚れを拭った。
 しかし、父親の手は真っ赤に染まっており、頬の汚れはますます広がっただけだった。

「隆宗、喜べ。伊予を殺したやつが見つかったんだ」
 父親が妖しげに笑った。

 隆宗は言葉を失う。
(伊予さんを……を殺した者……)
 隆宗の顔から血の気が引いていく。

「安心しろ。そいつは今、私が殺したから」
 父親の言葉に、隆宗は弾かれたように顔を上げた。
「殺し……た……?」
 震える唇は、麻痺したようにうまく言葉を発することができなかった。
 気がつくと、隆宗は小屋に向かって走り出していた。
 勢いよく小屋の戸を開けると、むせ返るような血の臭いがした。
 隆宗は思わず顔をしかめる。

 小窓からかすかに差し込む月明りで、誰かが倒れているのがわかった。

 隆宗は震える足で、一歩ずつ倒れている人影に近づいていく。
 赤く染まった着物が見える。
 その着物は、朝会ったとき乳母が来ていたものと同じだった。
 駆け寄ろうとして足がもつれ、隆宗は人影の上に倒れ込んだ。

 隆宗の目の前に、まるで眠っているような乳母の顔があった。
 その表情は穏やかだったが、触れた乳母の体はひどく冷たかった。
「あ……ああ……」
 隆宗はうまく息ができなかった。
 言葉の変わりに、目から溢れるものがこぼれて乳母の頬を濡らしていく。
(どうして……どうして……こんなことに……)
 隆宗は、乳母の顔に落ちた雫を拭おうと手を伸ばし、触れる直前で動きを止めた。
 隆宗はゆっくりと自分の手のひらを見る。
 隆宗の両手は真っ赤に染まっていた。
 両手だけでなく、隆宗の着物もすべてが赤く染まっていた。
(俺のせいだ……俺が……)

「そいつが伊予を殺してたんだ」
 隆宗の背後で、呆れたような父親の声が響く。
「まったく……とんでもないことをしてくれたものだ……」
 父親は大きなため息をついた。

 隆宗は視界が霞む中、ゆっくりと父親を振り返った。

「計画も遅れてしまったが……。まぁ、仕方ない……。そろそろ動けるだろう」
「……え?」
 隆宗の顔が歪む。
「前におまえにも話しただろう? 私は世の中を作り変えるつもりだと。そのときが来たんだ」
 父親はどこか興奮したような声だった。
「ま、待ってください……父上……。今回のことで、この屋敷は注目を集めています……! そのようなことは……」
「安心しろ。手は打ってある」
 父親は隆宗の言葉を遮るように言った。
「しかし、失敗すれば屋敷の奉公人たちも皆……」
「成功させればいいんだ。いいか、隆宗。正義とは常に勝者のものだ。謀反も成功すれば、それが正義の行いとなる」
 隆宗は言葉を失った。

「さぁ、その死体はこちらで処理するから、おまえはもう部屋に戻るといい。そんな死体に触れて気持ち悪いだろう?」
(気持ち……悪い……?)
 隆宗は唇を噛んだ。

 いつの間には、父親の背後には二つの影があった。
 二人の男がゆっくりと隆宗に近づいてくる。

「私たちが死体の処理をしておきます」
 不気味な笑顔を浮かべながら、男たちが乳母の体に触れる。

 隆宗は込み上げる怒りをなんとか抑えた。

「さぁ、坊ちゃんは部屋にお戻りください」
 もうひとりの男もニヤニヤしながら、隆宗に言った。

「ほら、早く部屋に戻るんだ」
 父親の言葉に、隆宗はよろめきながら立ち上がった。


 その後、隆宗はどのように部屋に戻ったのか記憶がなかった。
 気がつくと、隆宗は自分の部屋に座り込んでいた。
 暗い部屋の中で、行灯のかすかな光が揺らめいている。

 隆宗は視線を落とし、自分の姿を見た。
 薄暗い中でも、全身血にまみれていることがわかる。

「清さん……」
 隆宗は頭を抱えてうずくまった。
 隆宗の脳裏に乳母の顔が浮かぶ。

『隆宗様……。実は私、子育ての経験がないんです。本来経験がないと、乳母にはなれないものなんですよ。でも、奥様が……死産した私に言ってくださったんです。乳母はあなたがいい、と。育てられなかった自分の子を想うように、この子を育ててほしいと……。ですから私にとって、隆宗様も弥吉も、我が子のように愛おしい存在なんですよ』
 笑う乳母の姿が、鮮やかによみがえる。

「清さん……、俺のせいで……! 本当に……ごめんなさい……本当に……!」
 隆宗は喉を押さえ、声を殺して泣いた。
「どうして……こんなことに……!」
 そう口にした瞬間、隆宗の脳裏に父親の歪んだ顔が浮かんだ。

 隆宗はゆっくりと顔を上げる。
「そうか……。止めようとしたのが間違いだったんだ……」
 隆宗の顔には、もはやなんの感情も浮かんではいなかった。
 
 隆宗は血まみれの着物を脱ぐと、部屋の隅に投げ捨てた。
 体についた血を布で拭い、新しい着物に袖を通すと、隆宗は少しだけ落ち着きを取り戻した。

「すべての原因の……元を絶つべきだった……」
 隆宗は頬を伝う涙を拭った。
 隆宗は真っすぐに前を見据える。

「すべて……終わりにしましょう、父上……」
 隆宗の仄暗い瞳から一筋の涙がこぼれ、弾けるように畳に落ちた。