「弥吉の仕事先の人が、この屋敷に……?」
 弥吉の知り合いを名乗る者が屋敷に来ていることを隆宗から聞き、乳母は眉をひそめた。
「それは……信用して大丈夫な者たちなのですか……?」
 部屋で座っていた乳母は不安になり、立ち上がって隆宗を見つめる。

 伊予を殺した数日後、弥吉は屋敷に戻ってきた。
 乳母の目には、弥吉はどことなく元気がなさそうに見えたが、この屋敷で起こったことは何も知らないようだった。
 弥吉の姿を見ることができて、乳母は少しだけホッとしていたが、心配は尽きなかった。
 伊予はもういないが、あの夜弥吉を殺せと指示していた男は、まだ弥吉を殺す機会を窺っている可能性が高い。
 弥吉に危険がないか、乳母と隆宗は常に気を配っていた。

 乳母の反応に、隆宗は小さく微笑む。
「私には大丈夫そうに見えました……。少なくとも本当に弥吉を心配しているのはわかりましたから」
「そう……ですか……」
 乳母は目を伏せた。
 屋敷の外にも、弥吉を大切に思ってくれる人がいることは、乳母にとって嬉しいことだった。
(仕事先がどこなのかはわからないけど、この屋敷にいるよりは安全かもしれないし……)

 乳母は視線を上げて隆宗を見つめた。
 隆宗は乳母の考えを察したように、小さく頷く。
「この屋敷にいるより、仕事先に戻った方が弥吉にとってはいいでしょう。今日来た二人はこのまま屋敷に泊まる予定なので、明日二人と一緒に仕事先に戻るよう、弥吉を説得しようと思います」
「それがいいかもしれませんね……」
 乳母も頷いた。

 伊予の死体が見つかってから、屋敷の中が落ち着く日はなかった。
 旦那様の手前、表立って奉公人たちが騒ぐことはなかったが、辞める奉公人は後を絶たず、残っている奉公人も、皆一様に暗い顔をしていた。
 さらに、日中は奉行所からやってきた人間が屋敷中を調べ回している。
 隆宗が予想していた通り、旦那様が謀反のために動くのは難しい状況となっていたが、同時に日々の生活にも支障は出ていた。
 乳母と隆宗は、真実が明るみに出ないように細心の注意を払いながら過ごす必要があった。

 ひとつ予想と違っていたのは、旦那様が井戸から上がった死体を知らない女だと言うように奉公人たちに指示を出したことだった。
 死体がこの家の者だと知られて、屋敷を徹底的に調べられることを旦那様は恐れているようだった。

 乳母は小さく息を吐く。
「この家は……一体どうなるのでしょう……」
「大丈夫です。きっと良い方向に変わっていきます」
 隆宗は乳母を見つめると力強く言った。

(果たして本当にそうだろうか……)
 乳母は伊予を殺したことを後悔していなかった。
 もし過去に戻れるとしても同じことを繰り返すという確信があった。
 しかし、隆宗や屋敷の奉公人たちに迷惑を掛けているこの現状は、乳母にとって耐え難いものだった。

 隆宗が部屋を去った後、乳母は心を決めた。
(町奉行所に行って、私の罪についてはすべてを話そう……)
 乳母は棚に向かうと、引き出しから紙を一枚取り出した。
 紙を机の上に置くと、机の引き出しから硯箱を取り出し机の上に置く。
(怪談が広がったことで、旦那様の謀反の動きは止められているし、あの女を殺したことだけ話せば、それほど屋敷に迷惑はかからないはず……。あとは……)

 乳母は墨をすると、筆先に墨を浸し手紙を書き始めた。
(私が捕らえられた後、この机を整理するのは奉公人……。この件の真相を書いておけば、これを読んだ奉公人はきっと隆宗様の力になってくれるはず……)

 乳母は十日前に起こったことをすべて紙に書いた。
(これでよし……)
 手紙を書き終えた乳母は、紙を折り、机の引き出しの奥に入れた。
(奉行所の門が閉まる前に行かなければ……!)
 乳母は急いで硯箱を片づけると、出かける支度を始めた。

 そのとき、襖を叩く音が聞こえた。
(誰だろう……)
「はい……」
 乳母は返事をしたが、襖の向こうの人物は何も言わなかった。
 乳母は襖に近づくと、細く襖を開ける。

「だ、旦那様……!?」
 乳母は目を見開く。
 そこには梶本家の当主である旦那様が立っていた。
 乳母が慌てて襖を開けると、旦那様はかすかに目を細める。
 旦那様の背後には、目つきの悪い男が二人控えていた。
(この二人は一体……)

「忙しいところ悪いな」
 旦那様は淡々とした口調で言った。
「い、いえ……。私に何かご用でしたでしょうか……?」
 乳母は思わず旦那様から目をそらした。

「理由を聞こうと思ってな」
「……理由……?」
 乳母はおずおずと旦那様を見た。
「伊予を殺した理由だよ」
 旦那様は薄っすらと微笑んだ。

 乳母は目を見開く。
(どうして私だと……!)
「そ……れは……」
「その反応……やはりおまえか」
 冷ややかな視線が乳母に注がれる。

 乳母は顔から血の気が引いていくのを感じた。
「き、聞いてください、旦那様! あの女は……奥様を殺したのです! そう言っているのを確かに聞きました! あの女は……」
「ああ、知っている」
 旦那様は乳母の言葉を遮るように言った。

(知って……いる……?)
「あいつは頭の固い女だったからな。伊予がやらなくてもいずれ私が始末していたさ」

 乳母は茫然と旦那様を見つめる。
(何を言っている……? いずれ……始末……? それは本当に奥様のことなね……? あの誰より優しかった……奥様の……?)

「伊予が始末してくれて手間が省けたくらいだ」
 旦那様は顔を歪めて笑った。

 視界がかすみ、目の前の旦那様の顔が醜く歪む。
 乳母の目に涙が溢れていた。

「ああ……あああああああああああ!」
 気がつくと、乳母は旦那様に掴みかかっていた。
 その瞬間、鈍い音が響く。
 いつの間にか旦那様の後ろに控えていた男が乳母の前に立ち、乳母の腹に刀の柄を打ち込んでいた。
「……ッ!」
 腹に痛みを感じた次の瞬間、首の後ろに衝撃を受け、乳母は一気に意識が遠のくのを感じた。
 目の前が暗くなっていく。

「愚かだな……。運んでおけ、後で始末する」
 薄れゆく意識の中で、吐き捨てるような旦那様の声が耳に残った。

(ああ、隆宗様……。……申し訳……ありません……)
 熱いものが頬を伝う感覚を最後に、乳母は意識を失った。