「弥吉は大丈夫でしょうか……?」
弥吉が使っていた部屋の前を通るとき、ふと弥吉を思い出した乳母は、隆宗に聞いた。
「大丈夫なようですよ」
隆宗は乳母を見つめると微笑んだ。
「伊予さんの紹介ということで私も少し心配していましたが、ここに少し顔を出したときに、仕事先のことを楽しそうに話していたので、悪い仕事ではないようです」
「ああ……、そうなのですね」
乳母はホッと胸を撫でおろした。
「あの女からの仕事と聞いて……私はてっきり何かこじつけて弥吉を追い出すつもりなのかと……。私の考え過ぎでしたね……」
乳母はぎこちなく微笑んだ。
「いえ……」
隆宗は苦笑する。
「私も同じことを考えていたので……」
二人は顔を見合わせると小さく微笑んだ。
「あ、そういえば、そろそろ弥一さんのところに何か焼き継ぎの依頼をしなければいけませんね」
乳母はふと思い出して口を開いた。
男が長屋で療養し始めてから、隆宗は定期的に割れた皿とお金を男の元に届けていた。
皿や器が自然と割れることはあまりなかったため、定期的に皿や器を少しだけ傷つけ、男にお金を渡すために焼き継ぎの依頼をしていた。
「ああ、そうですね」
隆宗も思い出したように言った。
「どの皿にしましょうか? いつも皿を傷つけなければいけないので心苦しいのですが……」
乳母は思わず目を伏せる。
「そうですね……。弥一さんが命を削って作ってくださったものなので、私もすごく申し訳ないのですが……、お金を渡すためなので……」
隆宗も同じように目を伏せた。
「それに、良いお皿ほど弥一さんに持っていてほしいと思っているんです。この屋敷で……父上の良くない計略の道具として利用されるのは……あまり……」
乳母は隆宗を見つめた。
「そう……ですね」
乳母は静かに目を閉じた。
「では、次は南天の皿にいたしましょうか? あれは隆宗様のお祝いに作ってくださった皿ですが、弥一さんにとっても思い入れのある皿のようですので」
「そうなのですか?」
隆宗は意外そうな表情で乳母を見る。
「ええ、初めて赤の色が綺麗に出たと喜んでいらっしゃいました。あと、弥吉が生まれたのが南天の実っていた季節だったようで、南天を見るとあのときの喜びを思い出すとおっしゃっていました」
「そうだったのですね……」
隆宗はわずかに目を細めた。
「では、南天の皿にしましょう。皿は……小屋の中ですか?」
「はい、ちょうど小屋に行く用事があるので、私が取ってまいります」
乳母はそう言うとにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。まもなく日が暮れるので、もし探すのに時間がかかりそうなら明日でも大丈夫ですよ」
隆宗は気遣うように乳母を見た。
「はい、承知いたしました。しかし、早い方がいいと思いますので、今から行ってまいりますね」
乳母はそう言うと一礼して、小屋に向かって歩き出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
辺りはすっかり暗くなっていた。
「あった!」
薄暗い小屋の中で、わずかに差し込む月明りを頼りに乳母はようやく南天の皿を見つけた。
小屋は今では完全に物置場と化していたため、一枚の皿を見つけ出すのは容易ではなかった。
あっという間に日が暮れ、灯りを用意していなかった乳母は暗い中で、皿を探すことになった。
(こんなに時間がかかるとは……)
乳母は小さくため息をつく。
乳母は南天の皿を腕に抱えると、小屋の戸を開けた。
日は完全に沈んでいたが、月明りがある分、小屋の中よりは明るかった。
そのとき、かすかに声が聞こえた。
(この声は……)
乳母は耳を澄ませる。
「……だから、わかってるって……」
女の声が乳母の耳に届いた。
(これは、あの女の……)
乳母は慌てて小屋の陰に隠れる。
伊予は誰かと話しているようだった。
もうひとりは男のようだったが、声が低く、何を言っているのかまではわからなかった。
「それより、あの子が何をしたら殺せばいいの? そんな曖昧な言い方じゃわからないわよ」
伊予の声が少しだけ大きくなった。
乳母は目を見開く。
(殺す……?)
「もうそんな条件つけずに殺しちゃえばいいんじゃないの? これ以上使い道ないんでしょ? 弥吉」
伊予は面倒くさそうに言った。
思いがけない言葉に、乳母は瞳が揺れる。
(弥吉……? 弥吉を……殺す?)
「まだ利用できるって? どうやってよ? もうバレてるんでしょ? さっさと殺せばいいのよ」
伊予は呆れたように言った。
「少しでも危険があるのなら殺しておいた方がいいでしょ? 気づかれる? 誰に? この屋敷の中でなら大丈夫よ。みんな鈍いから。ここの奥様だって、私が殺したのにいまだに誰も気づいてないのよ?」
乳母の目が一層大きく見開かれる。
(奥様を……殺した……?)
「私情? 私情じゃないわよ。勘の良さそうな女だったから、殺しとかないと邪魔になりそうだったの! いなくなって旦那様も扱いやすくなったのよ? もうすぐいろいろ事を起こしてくれそう」
伊予が小さく笑う。
乳母は唇を噛みしめた。
怒りを抑えるように、乳母は強く皿を抱きしめる。
「もちろん旦那様の計画は穴だらけだから失敗するわよ。私の計画通りにね。旦那様は謀反人として罪に問われ、この家も潰れて、ようやく私はこの屋敷から出ていける。今回は長くてホント疲れたわ……。しばらく休めるかしらね……」
伊予はため息をついた。
「まぁ、そういうことだから、殺すわよ。弥吉は別に殺しても問題ないんでしょ? ごちゃごちゃ考えるのも面倒だからここに戻ってきたら殺しとくわね。……何? 何か文句でもあるの? ほら、そろそろ人が来るかもしれないから、あんたもさっさと帰りなさい。……はいはい、わかったから……」
伊予が長く息を吐いたのがわかった。
「まったく……」
男が去ったのか、伊予の声は先ほどよりも大きく聞こえた。
伊予の足音が響く。
その音はしだいに大きくなっていく。
乳母は息をひそめ、皿を強く握りしめた。
(あの女が……、あの女が奥様を……! それに弥吉を……!)
乳母は、自分の鼓動が早くなっていくのを感じた。
足音がすぐそばで聞こえ、小屋の陰に隠れた乳母の目に、伊予の姿が映る。
伊予の無防備な後ろ姿が見えた瞬間、乳母は手に持っていた皿を振り上げた。
(おまえさえいなければ……!!)
皿を振り下ろした瞬間、気配に気づいた伊予がわずかに振り返ったが、すでに手遅れだった。
辺りに鈍い音が響く。
伊予はその場に倒れ込んだ。
乳母は、伊予に覆いかぶさるようにしゃがむと、もう一度伊予の頭に向かって皿を勢いよく振り下ろした。
乳母の顔に、何か生温かいものがかかる。
(あの優しかった奥様を……こいつが! それに……弥吉を殺す……? 弥一さんがどんな思いで弥吉を突き放したと思っているの……? この家も……! こいつさえ! こいつさえいなければ……!)
乳母は無我夢中で、伊予の頭に皿を振り下ろし続けた。
途中で皿が割れたが、乳母はそのまま欠片を振り下ろし続ける。
乳母が我に返ったのは、生温かいもので手が滑り、欠片を落としたときだった。
うつ伏せに倒れた女は、もうピクリとも動いていなかった。
乳母の両手が力なく地面に落ちる。
乳母は視線を落として自分の右手を見た。
月明りでもわかるほどに、乳母の右手は血で赤く染まっている。
(私は…………)
乳母は意味もなく月を見上げた。
月はただ優しい光を乳母に注いでいる。
(ああ、私は……)
「……清……さん……?」
震える声が乳母の耳に届いた。
乳母はゆっくりと声の方を向く。
提灯の眩しい光に、乳母は目を細めた。
「清さん……、これは……一体……」
眩しい提灯の向こうには、恐怖で顔を歪めた隆宗の顔があった。
(ああ……隆宗様……)
乳母はキツく目を閉じた。
「隆宗様……、本当に……申し訳……ございません……」
乳母は絞り出すようにそう呟くのが、精一杯だった。
弥吉が使っていた部屋の前を通るとき、ふと弥吉を思い出した乳母は、隆宗に聞いた。
「大丈夫なようですよ」
隆宗は乳母を見つめると微笑んだ。
「伊予さんの紹介ということで私も少し心配していましたが、ここに少し顔を出したときに、仕事先のことを楽しそうに話していたので、悪い仕事ではないようです」
「ああ……、そうなのですね」
乳母はホッと胸を撫でおろした。
「あの女からの仕事と聞いて……私はてっきり何かこじつけて弥吉を追い出すつもりなのかと……。私の考え過ぎでしたね……」
乳母はぎこちなく微笑んだ。
「いえ……」
隆宗は苦笑する。
「私も同じことを考えていたので……」
二人は顔を見合わせると小さく微笑んだ。
「あ、そういえば、そろそろ弥一さんのところに何か焼き継ぎの依頼をしなければいけませんね」
乳母はふと思い出して口を開いた。
男が長屋で療養し始めてから、隆宗は定期的に割れた皿とお金を男の元に届けていた。
皿や器が自然と割れることはあまりなかったため、定期的に皿や器を少しだけ傷つけ、男にお金を渡すために焼き継ぎの依頼をしていた。
「ああ、そうですね」
隆宗も思い出したように言った。
「どの皿にしましょうか? いつも皿を傷つけなければいけないので心苦しいのですが……」
乳母は思わず目を伏せる。
「そうですね……。弥一さんが命を削って作ってくださったものなので、私もすごく申し訳ないのですが……、お金を渡すためなので……」
隆宗も同じように目を伏せた。
「それに、良いお皿ほど弥一さんに持っていてほしいと思っているんです。この屋敷で……父上の良くない計略の道具として利用されるのは……あまり……」
乳母は隆宗を見つめた。
「そう……ですね」
乳母は静かに目を閉じた。
「では、次は南天の皿にいたしましょうか? あれは隆宗様のお祝いに作ってくださった皿ですが、弥一さんにとっても思い入れのある皿のようですので」
「そうなのですか?」
隆宗は意外そうな表情で乳母を見る。
「ええ、初めて赤の色が綺麗に出たと喜んでいらっしゃいました。あと、弥吉が生まれたのが南天の実っていた季節だったようで、南天を見るとあのときの喜びを思い出すとおっしゃっていました」
「そうだったのですね……」
隆宗はわずかに目を細めた。
「では、南天の皿にしましょう。皿は……小屋の中ですか?」
「はい、ちょうど小屋に行く用事があるので、私が取ってまいります」
乳母はそう言うとにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。まもなく日が暮れるので、もし探すのに時間がかかりそうなら明日でも大丈夫ですよ」
隆宗は気遣うように乳母を見た。
「はい、承知いたしました。しかし、早い方がいいと思いますので、今から行ってまいりますね」
乳母はそう言うと一礼して、小屋に向かって歩き出した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
辺りはすっかり暗くなっていた。
「あった!」
薄暗い小屋の中で、わずかに差し込む月明りを頼りに乳母はようやく南天の皿を見つけた。
小屋は今では完全に物置場と化していたため、一枚の皿を見つけ出すのは容易ではなかった。
あっという間に日が暮れ、灯りを用意していなかった乳母は暗い中で、皿を探すことになった。
(こんなに時間がかかるとは……)
乳母は小さくため息をつく。
乳母は南天の皿を腕に抱えると、小屋の戸を開けた。
日は完全に沈んでいたが、月明りがある分、小屋の中よりは明るかった。
そのとき、かすかに声が聞こえた。
(この声は……)
乳母は耳を澄ませる。
「……だから、わかってるって……」
女の声が乳母の耳に届いた。
(これは、あの女の……)
乳母は慌てて小屋の陰に隠れる。
伊予は誰かと話しているようだった。
もうひとりは男のようだったが、声が低く、何を言っているのかまではわからなかった。
「それより、あの子が何をしたら殺せばいいの? そんな曖昧な言い方じゃわからないわよ」
伊予の声が少しだけ大きくなった。
乳母は目を見開く。
(殺す……?)
「もうそんな条件つけずに殺しちゃえばいいんじゃないの? これ以上使い道ないんでしょ? 弥吉」
伊予は面倒くさそうに言った。
思いがけない言葉に、乳母は瞳が揺れる。
(弥吉……? 弥吉を……殺す?)
「まだ利用できるって? どうやってよ? もうバレてるんでしょ? さっさと殺せばいいのよ」
伊予は呆れたように言った。
「少しでも危険があるのなら殺しておいた方がいいでしょ? 気づかれる? 誰に? この屋敷の中でなら大丈夫よ。みんな鈍いから。ここの奥様だって、私が殺したのにいまだに誰も気づいてないのよ?」
乳母の目が一層大きく見開かれる。
(奥様を……殺した……?)
「私情? 私情じゃないわよ。勘の良さそうな女だったから、殺しとかないと邪魔になりそうだったの! いなくなって旦那様も扱いやすくなったのよ? もうすぐいろいろ事を起こしてくれそう」
伊予が小さく笑う。
乳母は唇を噛みしめた。
怒りを抑えるように、乳母は強く皿を抱きしめる。
「もちろん旦那様の計画は穴だらけだから失敗するわよ。私の計画通りにね。旦那様は謀反人として罪に問われ、この家も潰れて、ようやく私はこの屋敷から出ていける。今回は長くてホント疲れたわ……。しばらく休めるかしらね……」
伊予はため息をついた。
「まぁ、そういうことだから、殺すわよ。弥吉は別に殺しても問題ないんでしょ? ごちゃごちゃ考えるのも面倒だからここに戻ってきたら殺しとくわね。……何? 何か文句でもあるの? ほら、そろそろ人が来るかもしれないから、あんたもさっさと帰りなさい。……はいはい、わかったから……」
伊予が長く息を吐いたのがわかった。
「まったく……」
男が去ったのか、伊予の声は先ほどよりも大きく聞こえた。
伊予の足音が響く。
その音はしだいに大きくなっていく。
乳母は息をひそめ、皿を強く握りしめた。
(あの女が……、あの女が奥様を……! それに弥吉を……!)
乳母は、自分の鼓動が早くなっていくのを感じた。
足音がすぐそばで聞こえ、小屋の陰に隠れた乳母の目に、伊予の姿が映る。
伊予の無防備な後ろ姿が見えた瞬間、乳母は手に持っていた皿を振り上げた。
(おまえさえいなければ……!!)
皿を振り下ろした瞬間、気配に気づいた伊予がわずかに振り返ったが、すでに手遅れだった。
辺りに鈍い音が響く。
伊予はその場に倒れ込んだ。
乳母は、伊予に覆いかぶさるようにしゃがむと、もう一度伊予の頭に向かって皿を勢いよく振り下ろした。
乳母の顔に、何か生温かいものがかかる。
(あの優しかった奥様を……こいつが! それに……弥吉を殺す……? 弥一さんがどんな思いで弥吉を突き放したと思っているの……? この家も……! こいつさえ! こいつさえいなければ……!)
乳母は無我夢中で、伊予の頭に皿を振り下ろし続けた。
途中で皿が割れたが、乳母はそのまま欠片を振り下ろし続ける。
乳母が我に返ったのは、生温かいもので手が滑り、欠片を落としたときだった。
うつ伏せに倒れた女は、もうピクリとも動いていなかった。
乳母の両手が力なく地面に落ちる。
乳母は視線を落として自分の右手を見た。
月明りでもわかるほどに、乳母の右手は血で赤く染まっている。
(私は…………)
乳母は意味もなく月を見上げた。
月はただ優しい光を乳母に注いでいる。
(ああ、私は……)
「……清……さん……?」
震える声が乳母の耳に届いた。
乳母はゆっくりと声の方を向く。
提灯の眩しい光に、乳母は目を細めた。
「清さん……、これは……一体……」
眩しい提灯の向こうには、恐怖で顔を歪めた隆宗の顔があった。
(ああ……隆宗様……)
乳母はキツく目を閉じた。
「隆宗様……、本当に……申し訳……ございません……」
乳母は絞り出すようにそう呟くのが、精一杯だった。