(ああ、また寝ていたのか……)
 弥一は、戸の障子から差し込む光で目を覚ました。
(もう朝か……)
 弥一はゆっくりと目を開く。
 まだぼんやりとした視界の中で、障子の向こうで南天の木が揺れているのが見えた。
(ああ、懐かしいな……。長屋の前の……南天の木……)
 南天の赤い実が目に鮮やかだった。

(え……、赤い実……?)
 弥一は眉をひそめる。
 障子の向こうにある実の色がこんなにはっきり見えるはずがなかった。
 しかも、この時期に南天は実をつけない。
(これは……夢なのか……?)
 弥一は目をこすり、もう一度障子を見た。

 弥一は目を見開く。
 それは絵だった。
 障子だけではなく、戸の一面に南天の絵が描かれている。
(これは……一体……?)
 弥一は、慌てて腕に力を込めて体を起こす。
(どうして……)

 顔を上げた弥一は言葉を失った。
 絵が描かれているのは戸だけではなかった。
 四方の壁から土間の床、畳に至るまで、一面に南天の絵が描かれている。
「これは……一体……?」
 弥一は思わず呟いた。

「起きたのか」
 そのとき、信の声が響いた。
 弥一は呆然とした表情で信に視線を移す。

 信は、夜に見たときと同じように、作業台の前に座っていた。
 その横には作業台に突っ伏して眠る弥吉の姿がある。

「どうして……?」
 弥一は壁に描かれた絵を見つめながら聞いた。
「どの絵柄がいいんだ?」
 信は淡々と聞いた。
「……え?」
「考えつく限り描いた。皿にはどの絵柄を描けばいいんだ?」

 弥一は目を見開いた。
「こんなに……描いたのか……?」

 濡れたように赤い実に、光を受けて艶めく葉、しなやかで力強い枝。
 すべてが圧倒的に美しかった。
 弥一は、まるで大きな南天の木の中に迷い込んだような、奇妙な感覚に襲われた。

(そういえば、あの長屋の南天は……いつ枯れたんだったかな……)
 弥一はただ呆然と南天を見つめ続けていた。


「な!?」
 そのとき、唐突に弥吉の声が響いた。
 弥一が視線を向けると、作業台に突っ伏していた弥吉が顔を上げて、青い顔をしていた。
「え!? な!? 何これ!? な、なんなんだこれは!??」
 弥吉は頭を抱えた。
「え!? 信さん! 紙に描いてただろ!? な、なんで!? なんでこんなことに!?」
 弥吉はすぐ横にいる信の着物を掴むと引き寄せた。
「紙がなくなった」
 信は淡々と答える。
「なくなったって……! これ……落ちないんじゃないの……!? ここ長屋だよ!? ああ……どうしたら……!? と、とりあえずたくさん水を汲んできて拭かないと……!」
 弥吉は、弥一がいることも忘れたように、立ち上がると急いで戸に向かって歩いていった。

 そのとき、戸を叩く音が聞こえた。
「お~い、いるか?」

 弥一と信は顔を見合わせる。

 ちょうど戸の前に来ていた弥吉が戸を開けると、そこには叡正が立っていた。
「ああ、いたいた。咲耶太夫に頼まれてこれを持ってきたんだけど……って……」
 叡正は一面に描かれた南天の絵に気づくと、口をポカンと開けた。

「これは……すごいな……! 屋敷の襖絵みたいだ……! 今の長屋はこんな洒落た感じになってるんだな! 初めて見た!」
 叡正は、少年のように目を輝かせ無邪気な笑顔を弥吉に向けた。

 呆然と事の成り行きを見つめていた弥一は、背中を向けて立っている弥吉の拳がわずかに震えているのに気がついた。
(あ……)


「……か?」
 弥吉は下を向いて小さく呟く。
「え?」
 叡正は、弥吉の言葉を聞こうと身を屈めた。

 弥吉は勢いよく顔を上げる。
「馬鹿なのかって言ったんだよ!!」
 弥吉は声を荒げると、叡正に詰め寄った。

「前からちょっと思ってましたけど、叡正様は馬鹿なんですか!?」
 叡正は弾かれたようにのけ反ると、呆気に取られ、一歩後ずさる。
「こんな長屋あるわけないでしょ!? 庶民を舐めてるんですか!? 金のある寺にいるから感覚がおかしいんですか!? 長屋っていうのは借り物なんですよ! わかります!? 美しい絵を楽しんでる余裕なんてない庶民が、ただ暮らすための借り物なの!! そもそもひと間しかないのに、襖絵も何もないでしょ!?」
 弥吉は一気に言き切ると肩で息をした。

「あ、えっと……その……。な、なんだかわからないけど、悪かった……」
 叡正は戸惑いながら、弥吉の顔を覗き込んだ。

「だから、意味がわかってないことが……!」
「プッ」
 二人のやりとりを聞いていた弥一は、そこで堪え切れず吹き出した。

(あ、しまった……)
 弥一は真顔に戻そうとしたが、笑いを堪えることはできなかった。
「ふ、ふふふ……。ハ、ハハハ……。あ、ダメだ……」

 弥一の笑い声に、弥吉は信じられないものを見る目で、こちらを振り返った。
 弥吉の顔を見ても、弥一は笑いを止めることができなかった。
 弥一は口元を押さえる。

「ハハハ……。ダメだ。可笑しい……。弥吉がしっかり者に見える……! ハハハ……ハハハ……」
 弥一の目尻から涙がこぼれた。

 弥一の涙を見て、弥吉の目が一層大きく見開かれる。

「弥吉……、ごめんな……」
 弥一は自分自身が今、泣いているのか笑っているのかよくわからなくなっていた。
「ハハハ……、なんだかよくわからないが、今日この瞬間まで……生きられて良かったと思えたよ……。ハハ……まだこんなに笑えるとは……。イキイキしてる……おまえの姿が見られて良かった……。うん……本当に」
 弥一は頬を伝う涙を拭った。
「弥吉、今日まで生かしてくれて……ありがとう……。もうすぐ死ぬにしても、今日まで生きられて……良かった……」
 弥一は、弥吉に向かって微笑んだ。

 その瞬間、弥吉が唇を噛む。
 弥吉の瞳には涙が溢れていた。

 弥一は静かに目を伏せる。
「全部……誤解だから……。ちゃんと話そう……。全然いい父親じゃなかったけど……俺をまだ父親だと思ってくれるなら……」
「当たり前だろ!」
 弥一の言葉を遮るように、弥吉の声が響く。
 弥吉は着物の袖でゴシゴシと目をこすった。
「俺の父ちゃんは、父ちゃんしかいないんだから! まったく何寝ぼけたこと言ってんだよ……」
 弥吉は少し照れくさそうに目線をそらした。

 弥一は目を見開いた後、そっと目を閉じた。
「……そうか。ありがとう……。本当に……」

 弥吉はフンッとそっぽを向く。

 日は高くなり、差し込む日差しは強くなっていた。
 障子に描かれた南天の実や葉は光を浴びて、鮮やかに輝く。

 そんな美しい光景の中で、叡正だけが状況を理解できず、ただひとり困惑していた。