弥一はぼそぼそと聞こえる話し声で、目を覚ました。
(また寝てしまった……)
 夜になったのか長屋の中は暗く、行灯のほのかな明かりが揺らめいていた。
 弥一は行灯の方に顔を向ける。
 行灯の横にある作業台の前には二つの影があり、そこから薄っすらとした影が伸びていた。

「ほら、何も食べてないんだろ? 隣のおばさんに握り飯もらってきたから」
 囁くような弥吉の声が聞こえた。
(ああ……、寝ている俺を気遣っているのか……)

「ああ、後で食べる」
 信が短く答える。
「後でって……どうせ食べないんだろ? いいから俺の目の前で食えって。もうこれだけ描いたら十分だろ?」
 弥吉が先ほどよりも少し強い口調で言った。

 少しずつ目が慣れ、二人が作業台に向かって何かしているということが弥一にもわかった。
(もしかして……ずっと絵を描き続けてくれていたのか……?)

「それに、明日日が昇ってからまた描けばいいだろ? 灯りがあるとはいえこの明るさじゃ、よく見えないんだからさ……」
「いや、見える」
 信は淡々と反論した。
「まぁ……、信さんには見えるんだろうけど……」
 弥吉はため息をつくと、一枚の紙を手に取った。
「ホント……相変わらず信さんは何でもできるな……。普通こんなに上手く描けないよ……」

「……皿の絵を見たまま描いただけだ」
「いや、だからそれができないんだって……。ほら、ちょっと筆と紙貸してよ……」
 弥吉は言葉に、信は無言で自分の持っていた筆と新しい紙を一枚渡した。
 弥吉はそれを受け取ると、うずくまるように畳の上で何か書き始める。
 信はその様子をただ黙って見つめていた。

「ほら、見てみろ。これが見たまま描くってことだ」
 弥吉は畳の上に置いていた紙を掴むと、信の目の前に広げた。

「……斬新な柄だな」
 信は淡々と言った。
「信さんと同じ絵柄を描いたんだよ」

「…………」

「……おい、その本気で驚いたみたいな顔やめろ……! これが普通なの! 信さんが異常なんだって! 普通そんな再現度高く描けないの! わかった!?」
 弥吉はそれだけ言うと、拗ねたようにプイとそっぽを向いた。

「そうか……」
「そうだよ!」
 弥吉は小さく息を吐いた。
「俺にも……信さんみたいな腕があったら……父ちゃんのお荷物になんかならずに済んだのにな……」
 弥吉の声はひどく悲しげだった。

 弥一は目を見開く。

「何の才能もなく生まれたせいで、後を継げないどころか父ちゃんの手伝いすらできないんだから……。こんなお荷物じゃ、嫌われて当然だ……」

 弥一の見開いた目に涙が溢れた。
(違う……違うんだ……。弥吉……)

「俺なんか最初から生まれなけ……」
「弥吉!」
 弥吉の言葉を遮るように、信が大きな声を出した。
 その声に驚いたように、弥吉はビクリと体を震わせる。
「……え、どうしたの……?」

「筆を……、筆を返してくれ」
 信がいつもの淡々とした口調で言った。
「あ、ああ……。ごめん、忘れてた……」
 弥吉は手に持ったままだった筆を信に差し出した。
「ごめん、暗い話しちゃって……。……ほら、そんなことより握り飯を食えって!」
 弥吉は無理に笑っているようだった。

 信は静かに弥吉を見つめる。
「おまえはもう寝ろ。俺も食べたらすぐ寝る」
「う~ん、俺ももう少しここにいるよ……。まだ眠れそうにないから」
「……わかった」
 二人はそれだけ言うと口を閉ざし、薄暗い中でお互いに何かをしていた。

 弥一は目を伏せる。
(俺は……間違っていたのか……)

『おまえは、それでいいんだろうな……』
 昨夜言われた良庵の言葉が、弥一の頭の中に響いた。
(俺は本当に弥吉のことがわかっていなかったんだな……。こんなふうに傷つけたかったわけじゃないのに……)

 弥一はまだ小さい弥吉の背中を見つめる。
(ごめん……ごめんな……。弥吉……)

 行灯の光が揺らめく中、長屋の夜は静かに更けていった。