弥吉が屋敷で働き始めて二ヶ月が経った。
 弥吉のできることはまだまだ少なかったが、屋敷の奉公人たちが温かく迎えてくれたため、弥吉は特に問題なく屋敷で働くことができていた。

(早く慣れてもっと役に立てるようにならないと……)
 弥吉は、今では物置場となった小屋に足を踏み入れると、お願いされていた薪を抱えて歩き出した。
 小屋の戸を閉めるとき、ふと残されている焼き物を見て、弥吉は静かに目を伏せる。
(父ちゃん……ちゃんと食べてるかな……)

 弥吉はあれから定期的に父親のいる長屋を訪れていたが、すぐに追い出され、まともに話すことができていなかった。
(そんなに俺といるのが嫌なのか……)
 弥吉は目を閉じると、小さく息を吐いた。

 そのとき、ジャリという音が聞こえ、弥吉は慌てて音のした方を見た。

「ああ、ここにいたのね」
 そこには妖艶に微笑む伊予の姿があった。
 弥吉は慌てて一礼する。

 伊予は奉公人としてこの屋敷にやってきていたが、事実上は旦那様の側室だということを弥吉もよくわかっていた。

 弥吉はゆっくりと顔を上げる。
 伊予は美しく、弥吉にも優しい言葉を掛けてくれる人物だったが、弥吉はどこか冷たさを感じる伊予の目が苦手だった。

「何かご用でしたか……?」
 弥吉はそっと伊予から視線をそらす。
「ええ、探していたの。実はね、旦那様が……」
 伊予はそこで少し困ったように微笑んだ。
「旦那様が……弥一さんが住んでいる長屋……ちょっと私用で使いたいって言い出したのよ……」

「……え?」
 弥吉は思わず伊予の顔を見つめた。

「だから、弥一さんには出ていってもらおうって、旦那様が言っているの……」
「そ、そんな!? 父ちゃんはあそこを追い出されたら行くところがありません! そんな……」
 弥吉の声は自然と大きくなっていた。
 伊予は弥吉の様子を見て、申し訳なさそうな顔をした。
「そうよね、困るわよね……。それで提案なのだけれど……」
 伊予は身をかがめると、弥吉の耳元に口を寄せた。
「少しお願いを聞いてもらえないかしら」

「お願い……?」
 弥吉はすぐ近くにある伊予の顔を見た。
「そうよ」
 伊予の瞳が妖しげな光を放つ。
「ある男を見張ってほしいの」

「見張る……?」
「ええ、旦那様のお仕事を邪魔しようとしている男がいるのよ。その男が何か余計なことをしないように見張ってほしいの。少し危険な仕事になるけど、弥吉が引き受けてくれるなら、旦那様も弥一さんに出ていけなんて言えないはずよ」
 伊予は目を細める。

(危険な仕事……? でも、それで父ちゃんが出ていかなくて済むなら……)
 弥吉は意を決して、伊予を見つめた。
「見張るっていうのは……具体的には何をすれば……」

 伊予はフフッと笑うと、目尻を下げた。
「簡単なことよ。男を監視して、何か気づいたことがあれば報告してくれればいいの。遣いの者を出すから、その遣いに報告してくれればいいわ。遣いは毎回違う人間にお願いするけど、必ず私の名前を言うようにするから」

「それだけでいいんですか……?」
 弥吉は目を丸くした。
 聞く限り、危険な仕事には思えなかった。

「ええ、もし可能ならできるだけ近くで監視してほしいけれど、最初は遠くからでいいわ。もし機会があれば少しずつ男に接触して」
 伊予はにっこりと笑った。
「わ、わかりました……」

「危険な仕事だから、手当ても出すわ。お金と弥一さんの病に効きそうな薬も。少しでも弥吉の力になれたら嬉しいわ」
 伊予は着物の袖で口元を隠すと、妖艶に微笑んだ。
「薬まで!? ありがとうございます!」
 弥吉は目を見開いた。
 屋敷で世話になっている弥吉に、薬を買う金の余裕はなかったため、今日まで父親のために食べ物を置いてくる程度のことしかできていなかった。

「じゃあ、早速明日からお願いできるかしら? 隆宗様には私から話しておくわ」
「あ……」
 弥吉は思わず声を漏らす。
 できる限り、隆宗に心配を掛けることは避けたかった。
「あの、隆宗には……危険な仕事ってことは言わないでください……。その……心配すると思うので……」
「ああ、そうね。わかったわ」
 伊予はそう言うと、にっこりと微笑んだ。

「あ、そうだ! 早く薪を台所に持っていかないと……! すみません、私はこれで失礼します!」
 弥吉は抱えている薪を見て、ようやく我に返った。
 弥吉は慌てて頭を下げる。

「ああ、いいのよ。私の方こそ呼び止めてごめんなさい」
「そんな! 教えてくださって本当にありがとうございます! 仕事まで……」
「いいのよ。あ、男の居所はまた後で教えるから、もう台所に行って大丈夫よ」
「はい! すみません! では、失礼します!」
 弥吉は早口でそう言うと、一礼して台所に向かって走っていった。

 ひとりになった伊予は誰もいなくなった庭でクスっと笑う。
「捨て駒にするにはちょうどいい子だけど、ちゃんと役に立ってくれるかしらね……」
 伊予は静かに目を閉じた。
「まぁ、いいか。この件は私にはあんまり関係ないし。さぁ、私もお仕事お仕事」
 伊予は口元を歪めると、妖しく目を細めた。