弥吉が去った後、隆宗はすぐに部屋を出た。
(この時間なら父上もまだ部屋にいるはずだ……)

 隆宗は、父親の部屋に向かって足を速めた。
(弥一さんの報酬についてもう一度話してみなければ……)


 部屋の前に着くと、隆宗は膝をつき襖の向こうへ声を掛ける。
「隆宗です。今、少しだけお時間よろしいでしょうか?」

「ああ、隆宗か。入りなさい」
 襖の向こうから父親の声が響く。

「失礼いたします」
 隆宗がゆっくりと襖を開くと、部屋には父親のほかにもうひとりいた。
 隆宗は目を見開く。
「あ……伊予さんもいらっしゃったのですね……。でしたら、また出直して……」
 隆宗が慌てて襖を閉めようとすると、女のフフッという笑い声が響いた。

「構いません。私の話は終わったところでしたから」
 伊予は着物の袖で口元を隠しながら、優しげに目を細めた。
「私はこれで失礼いたしますわ」
 伊予がそう言って立ち上がろうとすると、父親は慌てて伊予の手を取った。

「出ていく必要はない。おまえはもう家族なんだからな。ここで聞いていなさい」
「あら、お邪魔ではないですか?」
 伊予はそう言うと視線を隆宗に向けた。

「いえ、そんな! ……伊予さんがお嫌でなければ、どうぞそのままで……」
 隆宗は伊予から視線をそらしながら言った。

 事実上の側室ということを除いても、隆宗は伊予が苦手だった。
 白い肌に整った目鼻立ち、妖艶な立ち居振る舞いは確かに美しいと思ったが、隆宗を見つめるその眼差しはときどきゾッとするほど冷たかった。

「ふふ、私が嫌がるはずがないではありませんか。それでは、お邪魔にならないように私は隅の方におりますね」
 伊予は楽しげに笑うと、父親の手をもう片方の手で包み込むように握った後、手をそっと離し部屋の隅へと歩いていった。
 父親はつまらなさそうな顔をしたが、隆宗の方に視線を向けると部屋に入るよう促した。

「……失礼いたします」
 隆宗はおずおずと部屋に入った。

「何かあったのか?」
 父親は隆宗を見つめる。
 隆宗はすばやく父親の前に腰を下ろした。
「何かあったわけではないのですが……、弥一さんの件で……」

「ああ、またその話か……」
 父親は面倒くさそうに視線をそらした。
「あいつはもう辞めるんだ。どこに金を払い続ける必要がある?」

「弥一さんはこれまで身を粉にして、この家に尽くしてくださいました。あのように素晴らしい器はほかでは見たことがありません。器を見るために、足を運んでくださる方はこれからも増える一方でしょう。ですから……」
「その話はもう聞き飽きた……」
 父親はうんざりしたようにため息をついた。
「辞めた人間に金を払い続けて、一体この家に何の得があるというんだ」
「それは……」
 隆宗は続く言葉を口にすることができなかった。
 隆宗の拳に自然と力が入る。

「まったく……おまえは同じ話ばかりだな……。しかも、くだらない。少しは伊予を見習ってはどうだ?」

(くだらない……? 家に何年も尽くしてくれた弥一さんが病を患って苦しんでいるのに……その話が……くだらない……?)

「伊予はいつも有益な情報を持ってきてくれるぞ?」
「有益……?」
 隆宗は眉をひそめた。

(父上にとって有益とは一体何なんだ……?)

「隆宗、おまえはこの世の中がおかしいとは思わないか?」
「……え?」
 隆宗には、父親が何を言っているのかわからなかった。

「武家とは名ばかり、力をつけることができないよう監視され、抑制されている。力でこの世をした支配した者が、自分たちの治世が脅かされないように、周りから力を奪い続けているのだ」

「何を……おっしゃっているのですか……?」
 隆宗は自分の唇が震えているのを感じた。

「もうすぐ私は力を手に入れる……! 見ていろ、隆宗。父がこの狂った世の中を作り変えるところを……!」
 父親の瞳には妖しげな光が宿っていた。

(父上は……一体何を言っている……? 父上はどうしてしまったんだ……?)
 隆宗の心臓が嫌な音を立てた。
 ずっと見てきた父親が、何かに取り憑かれ、得体の知れないものに変わってしまった気がした。

 隆宗の視界の隅で、艶やかな着物の袖が揺れる。
 伊予が口元を隠し笑っていた。

 隆宗はその笑みにゾッとして、思わず目をそらす。
 伊予の瞳は何の光も宿してはおらず、その笑顔は能面のように冷たかった。
 隆宗はひどくおぞましいものを見たように感じ、体の震えを抑えることができなかった。