弥吉が長屋を出ていくのを横目で確認した弥一は、目を閉じてそっと息を吐いた。
「あの子がいると話しづらいことでもあるのか?」
弥一の反応を見た良庵は、再び弥一の枕元に腰を下ろした。
弥一は目を開けて良庵を見る。
「ええ……、私が治らないとわかって落ち込んでいるようだったので……。さすがにその直後に『早く死にたい』と弥吉の目の前で言うのは……と思いまして……」
弥一は苦笑した。
「早く死にたいのか?」
良庵は首を傾げる。
「どちらにしろ、それほど長くは生きられないぞ」
「ええ、わかっています。でも生きている限り、人に迷惑を掛けてしまうでしょう……? 実際、弥吉は私の薬を手に入れるためにあの年で働きに出ることになりました……。私さえ死んでいれば、弥吉はまだ働きに出る必要なんてなかったんです……」
弥一は苦しげに目を閉じる。
良庵はただ黙って弥一を見つめていた。
「ああ、でも……」
弥一は涙のにじむ目を開けると、良庵に向かって微笑んだ。
「働きに出たのは、結果としてよかったのかもしれませんね……。いい人たちに出会えたみたいで……。さっきの人たち、弥吉の仕事仲間なのでしょう? ここに来る道中のやりとりを聞いていて、楽しくやれているのだなと思いました……。寝たふりをしていたのに、思わず笑ってしまいました。幸い気づかれませんでしたが……」
弥一がそう言って笑うと、細くなった目から一筋の涙がこぼれた。
「これなら……私がいなくなった世界でも、きっともう大丈夫だと……少し肩の荷が下りた気がしました……」
「そうか……。そりゃあ、よかったな。おまえは心置きなく死ねそうで……」
良庵はそう言うと立ち上がった。
「あ、おまえも茶飲むか? まぁ、いいや、置いておくから飲みたくなったら飲めよ」
「あ、はい……。ありがとうございます……」
良庵は土間に向かって歩いていった。
良庵は戸棚から急須と湯飲みを取り出すと、急須に葉を入れて沸かしてあった湯を注いだ。
「おまえは、それでいいんだろうな……」
良庵を急須を見つめながら呟いた。
良庵の言葉に、弥一はわずかに顔を上げて良庵を見る。
「どういう……意味ですか……?」
「言葉通りの意味だよ。おまえの気持ちはわからなくもない。たが、あいにく俺は誰かを残して死んだ経験はないからな……。おまえより残されるあの子の気持ちの方がよくわかるんだよ……」
良庵は急須を見つめたまま言った。
「何かしたいのに、何もさせてもらえないっていうのは、なかなかツラいものだからな……」
弥一は何も言えず、ただ良庵を見つめていた。
「安楽死って言葉もあるくらいだ。病を抱えて生きるってことがツラいのはわかってるが……、残されるやつのために最期までちゃんと生きてほしいとは思っちまうな、俺としては……」
「しかし、生きていれば迷惑が……」
弥一は思わず口を開いた。
良庵は弥一に視線を向ける。
「迷惑だって誰か言ったか? おまえが心苦しいだけだろ?」
弥一は目を見開いた後、静かに目を伏せた。
「確かにそうですが……それでも……。生きていても、私にできることはもう何もありませんから……」
良庵は視線を急須に戻すと、湯飲みに茶を注いだ。
「本当にできることは何もないのか? それに、やり残したことはないのか?」
「やり残した……こと……?」
弥一の目がわずかに揺らぐ。
良庵は二つの湯飲みを持って、弥一の元に戻ってきた。
「おまえのやり残したことは知らないが、できることはひとつ知ってる」
良庵は弥一の枕元に腰を下ろすと、ひとつの湯飲みを弥一の枕元に置き、もうひとつに口をつけた。
「私にできることとは……何ですか?」
弥一は縋るように良庵を見た。
「笑うことだよ」
良庵は目を伏せて微笑んだ。
「笑う……?」
弥一は目を見開く。
「残された一日一日が幸せなものだったって笑ってもらえたら、どんなに苦労を掛けられたとしても、残される側は救われるものなんだよ。さっきおまえ言ってただろ? あいつらのやりとり聞いてて思わず笑っちまったって。隠さずに思う存分笑ってやれ。それがあの子にとっての救いになる」
良庵はそれだけ言うと、持っていた湯飲みを置いた。
「そんなことぐらいで……」
弥一は目を泳がせた。
「そんなことぐらいと思うなら笑ってやれ」
良庵はそう言うと、何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、あいつら荷車置いていったのか? 変なところに置いてあると隣のやつに文句言われるからな……。ちょっと移動させてくるから待っててくれ」
「あ、はい……」
弥一は、長屋の戸に向かって歩いていく良庵の後ろ姿をぼんやりと見ていた。
「やり残したこと……か……」
弥一はひとり呟いた。
「あったとしてもこんな身体じゃ……もう何もできないのに……」
弥一が長屋の戸を見つめていると、しばらくして良庵が戻ってきた。
手ぶらで出ていったはずの良庵は風呂敷包みを抱えていた。
「あいつら何を忘れていったんだ……」
良庵が独り言のように呟く。
「それは忘れ物なのですか?」
弥一は良庵を見つめながら聞いた。
「ああ、荷車の上に置いてあったんだ。割れた焼き物みたいだから捨てるつもりだったのかもな……」
「焼き物……? 少し見せていただいてもいいですか?」
弥一は体を起こそうと、思わず布団から頭を浮かせた。
良庵は風呂敷包みを持ったまま、慌てて弥一に駆け寄った。
「起きられるか?」
良庵は、弥一の背中に手を添えて体を起こした。
良庵は弥一の前でゆっくりと風呂敷を開く。
そこには割れた南天の皿があった。
「これは……」
弥一は目を見張った。
良庵は不思議そうに弥一を見つめていた。
「あ……、これは私が以前お屋敷で働いていたときにつくった皿なんです。おそらく直すという名目で弥吉に金を渡したのだと思います」
良庵の視線を感じ、弥一は慌てて口を開いた。
(隆宗様……だな……)
隆宗は、弥一が長屋に籠ってから定期的に割れた皿を持ってきては直す代金として長屋の前に金を置いていった。
(お祝いに贈った南天の皿……割れたのか……)
弥一は震える手で欠片を掴もうとしたが、うまく掴むことができなかった。
「やり残したこと……」
弥一は割れた皿を見つめながら、静かに目を閉じた。
「あの子がいると話しづらいことでもあるのか?」
弥一の反応を見た良庵は、再び弥一の枕元に腰を下ろした。
弥一は目を開けて良庵を見る。
「ええ……、私が治らないとわかって落ち込んでいるようだったので……。さすがにその直後に『早く死にたい』と弥吉の目の前で言うのは……と思いまして……」
弥一は苦笑した。
「早く死にたいのか?」
良庵は首を傾げる。
「どちらにしろ、それほど長くは生きられないぞ」
「ええ、わかっています。でも生きている限り、人に迷惑を掛けてしまうでしょう……? 実際、弥吉は私の薬を手に入れるためにあの年で働きに出ることになりました……。私さえ死んでいれば、弥吉はまだ働きに出る必要なんてなかったんです……」
弥一は苦しげに目を閉じる。
良庵はただ黙って弥一を見つめていた。
「ああ、でも……」
弥一は涙のにじむ目を開けると、良庵に向かって微笑んだ。
「働きに出たのは、結果としてよかったのかもしれませんね……。いい人たちに出会えたみたいで……。さっきの人たち、弥吉の仕事仲間なのでしょう? ここに来る道中のやりとりを聞いていて、楽しくやれているのだなと思いました……。寝たふりをしていたのに、思わず笑ってしまいました。幸い気づかれませんでしたが……」
弥一がそう言って笑うと、細くなった目から一筋の涙がこぼれた。
「これなら……私がいなくなった世界でも、きっともう大丈夫だと……少し肩の荷が下りた気がしました……」
「そうか……。そりゃあ、よかったな。おまえは心置きなく死ねそうで……」
良庵はそう言うと立ち上がった。
「あ、おまえも茶飲むか? まぁ、いいや、置いておくから飲みたくなったら飲めよ」
「あ、はい……。ありがとうございます……」
良庵は土間に向かって歩いていった。
良庵は戸棚から急須と湯飲みを取り出すと、急須に葉を入れて沸かしてあった湯を注いだ。
「おまえは、それでいいんだろうな……」
良庵を急須を見つめながら呟いた。
良庵の言葉に、弥一はわずかに顔を上げて良庵を見る。
「どういう……意味ですか……?」
「言葉通りの意味だよ。おまえの気持ちはわからなくもない。たが、あいにく俺は誰かを残して死んだ経験はないからな……。おまえより残されるあの子の気持ちの方がよくわかるんだよ……」
良庵は急須を見つめたまま言った。
「何かしたいのに、何もさせてもらえないっていうのは、なかなかツラいものだからな……」
弥一は何も言えず、ただ良庵を見つめていた。
「安楽死って言葉もあるくらいだ。病を抱えて生きるってことがツラいのはわかってるが……、残されるやつのために最期までちゃんと生きてほしいとは思っちまうな、俺としては……」
「しかし、生きていれば迷惑が……」
弥一は思わず口を開いた。
良庵は弥一に視線を向ける。
「迷惑だって誰か言ったか? おまえが心苦しいだけだろ?」
弥一は目を見開いた後、静かに目を伏せた。
「確かにそうですが……それでも……。生きていても、私にできることはもう何もありませんから……」
良庵は視線を急須に戻すと、湯飲みに茶を注いだ。
「本当にできることは何もないのか? それに、やり残したことはないのか?」
「やり残した……こと……?」
弥一の目がわずかに揺らぐ。
良庵は二つの湯飲みを持って、弥一の元に戻ってきた。
「おまえのやり残したことは知らないが、できることはひとつ知ってる」
良庵は弥一の枕元に腰を下ろすと、ひとつの湯飲みを弥一の枕元に置き、もうひとつに口をつけた。
「私にできることとは……何ですか?」
弥一は縋るように良庵を見た。
「笑うことだよ」
良庵は目を伏せて微笑んだ。
「笑う……?」
弥一は目を見開く。
「残された一日一日が幸せなものだったって笑ってもらえたら、どんなに苦労を掛けられたとしても、残される側は救われるものなんだよ。さっきおまえ言ってただろ? あいつらのやりとり聞いてて思わず笑っちまったって。隠さずに思う存分笑ってやれ。それがあの子にとっての救いになる」
良庵はそれだけ言うと、持っていた湯飲みを置いた。
「そんなことぐらいで……」
弥一は目を泳がせた。
「そんなことぐらいと思うなら笑ってやれ」
良庵はそう言うと、何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば、あいつら荷車置いていったのか? 変なところに置いてあると隣のやつに文句言われるからな……。ちょっと移動させてくるから待っててくれ」
「あ、はい……」
弥一は、長屋の戸に向かって歩いていく良庵の後ろ姿をぼんやりと見ていた。
「やり残したこと……か……」
弥一はひとり呟いた。
「あったとしてもこんな身体じゃ……もう何もできないのに……」
弥一が長屋の戸を見つめていると、しばらくして良庵が戻ってきた。
手ぶらで出ていったはずの良庵は風呂敷包みを抱えていた。
「あいつら何を忘れていったんだ……」
良庵が独り言のように呟く。
「それは忘れ物なのですか?」
弥一は良庵を見つめながら聞いた。
「ああ、荷車の上に置いてあったんだ。割れた焼き物みたいだから捨てるつもりだったのかもな……」
「焼き物……? 少し見せていただいてもいいですか?」
弥一は体を起こそうと、思わず布団から頭を浮かせた。
良庵は風呂敷包みを持ったまま、慌てて弥一に駆け寄った。
「起きられるか?」
良庵は、弥一の背中に手を添えて体を起こした。
良庵は弥一の前でゆっくりと風呂敷を開く。
そこには割れた南天の皿があった。
「これは……」
弥一は目を見張った。
良庵は不思議そうに弥一を見つめていた。
「あ……、これは私が以前お屋敷で働いていたときにつくった皿なんです。おそらく直すという名目で弥吉に金を渡したのだと思います」
良庵の視線を感じ、弥一は慌てて口を開いた。
(隆宗様……だな……)
隆宗は、弥一が長屋に籠ってから定期的に割れた皿を持ってきては直す代金として長屋の前に金を置いていった。
(お祝いに贈った南天の皿……割れたのか……)
弥一は震える手で欠片を掴もうとしたが、うまく掴むことができなかった。
「やり残したこと……」
弥一は割れた皿を見つめながら、静かに目を閉じた。