弥吉が長屋に入ると、信が布団の上に弥一を下ろすところだった。
弥吉と叡正は、良庵の邪魔にならないように長屋の隅で弥一の様子を見守ることにした。
信は弥一を寝かせると、布団の横に座る良庵の後ろに腰を下ろした。
布団に寝かされた弥一は、静かに目を開ける。
「よかった。意識はあるんだな」
弥一を見つめていた良庵は、弥一に話し掛けた。
「病状を聞かせてほしいんだが、話せるか?」
弥一は良庵に視線を向けると静かに頷いた。
「見たところ足と腕に力が入ってなさそうだが、麻痺してるのか? 感覚はあるか?」
良庵は弥一の足と腕に軽く触れながら聞いた。
「……触れられている感覚はかすかにありますが、痺れていてあまり力は入りません。少しなら動かすことはできます……」
弥一はかすれた声で答える。
「咳が出るとか、喉が痛いとか、胸が苦しいとか、ほかに何か症状はあるか?」
「咳は出ません。喉も痛くはありませんが……、胸は……ときどき苦しくなります」
弥一の言葉に、良庵は何か考えるように目を伏せた。
「そうか……」
「あ、あの……!」
長屋の隅で弥吉が声を上げた。
「と、父ちゃんは何の病気ですか……? な、治るでしょうか……?」
良庵は弥吉を振り返ると、静かに息を吐いた。
「典型的な江戸患いだな」
「……江戸……患い?」
弥吉は小さく良庵の言葉を繰り返した。
「症状が軽ければ治る病だが、心臓にも影響が出ているなら……回復は難しいだろうな」
良庵はそっと目を伏せる。
弥吉の顔から一気に血の気が引いた。
「……脚気なのでしょう?」
口を開いたのは弥一だった。
「知ってたのか?」
良庵は弥一の方に向き直ると、静かに聞いた。
「はい……。妻が脚気で亡くなったので……」
弥一は穏やかな顔で言った。
「これは、うつる病なのでしょう? 弥吉ももうこれで私が治らないのはわかったと思いますので、私は帰ってもいいでしょうか……? せめて、誰にもうつさないようにしたいのです……」
良庵は何かを考えるように腕を組んだ後、静かに口を開いた。
「脚気は……俺の経験上では、うつらない。いろいろまだわかってない病だから、うつるって言ってる医者もいるが、少なくとも俺はうつった患者を見たことがない」
「え?」
弥一は目を見開く。
「同じ長屋で暮らす者が全員脚気にかかったという例はあるが、うつったって感じじゃないな……。そもそも脚気にかかる人間はだいたい三つのうちのどれかに当てはまるんだ。『貧しい、偏食、酒好き』このどれかだ。だから、脚気は症状が軽い段階なら、いろんなものを食べさせて酒を止めれば、ある程度良くなるものなんだよ」
「酒を止める……?」
弥一は呟くように言った。
「なんだ、酒好きなのか?」
良庵が意外そうに弥一を見た。
「あ、いえ……。その……手の震えが止まらなかったとき、酒を飲んだら震えが治まったことがあったので……」
「酒で、震えが?」
良庵は眉をひそめる。
「酒で脚気の症状が治まるなんて話しは聞いたことがねぇな……」
良庵はしばらく考え込んでいたが、やがて視線を上げると弥一を見つめた。
「考えられることとしては……緊張状態が緩和されたってところか……」
「緊張が……緩和……?」
弥一は答えを求めるように良庵を見つめた。
「ああ、手の震えを止めようと精神的に張り詰めるほど、震えっていうのは止まらないものなんだ。そこに酒が入ると血の巡りが良くなって緊張が和らぐ。それで一時的に震えが止まったってところだろうな……。震えが止まったのは一時的なものだっただろう?」
「あ……はい……。そうですね……」
弥一は自嘲気味に笑う。
「じゃあ、俺は……自分で病状を悪化させたのか……」
弥一は独り言のように小さく呟いた。
自然と長屋が沈黙に包まれる。
「先生」
黙って二人のやりとりを聞いていた信が口を開いた。
「治らないなら、これからどうしたらいい?」
良庵は振り返って信を見た。
「そうだな……回復は望めない……。ただ、今すぐ死ぬってわけじゃない。あとは本人がどうしたいか、だな」
良庵はそう言うと、弥一に視線を戻した。
「おまえはどうしたい?」
「私は……」
そのとき、弥一の瞳が揺らいだ。
弥一の目には、長屋の隅で青い顔をして立ち尽くす弥吉の姿が映っていた。
「……あの、少し……考えてもいいですか……?」
弥一は苦しげに目を閉じると、それだけ口にした。
「ああ、わかった。それなら今日はここに泊まっていきな。もうすぐ日も暮れるし、どこから来たか知らないが、今から帰るのも大変だろう」
良庵はそれだけ言うと、信を振り返った。
「おまえらの家はここからそんなに距離もないし、帰れるだろ? この人はここで見ておくから、今日は帰れ。俺もそろそろ休みたいんだ」
良庵はそう言うと、虫を追い払うようにシッシッと手を振った。
「ああ、わかった」
信はそう言うと立ち上がり、弥吉と叡正のもとに歩いていく。
「帰るぞ」
信が弥吉の肩を叩いた。
「え、あ!」
弥吉が我に返ったように体を震わせた。
「あ、あの、お代はいくらでしょうか?」
弥吉は慌てて懐から巾着袋を取り出す。
「ん? ああ、まだ何もしてないから、とりあえずいいよ。これからどうするか決まったら払ってくれ」
良庵はそれだけ言うと、弥吉に背を向けた。
「さぁ、暗くなる前に早く帰るんだぞ」
「あ、はい……。ありがとうございます」
弥吉は青い顔のまま頭を下げた。
「行くぞ」
信はそう言うと、弥吉と叡正を促し長屋の外に出た。
辺りはすでに暗くなり始めていた。
弥吉は何度も振り返りながら、信の長屋へと足を進めた。
弥吉と叡正は、良庵の邪魔にならないように長屋の隅で弥一の様子を見守ることにした。
信は弥一を寝かせると、布団の横に座る良庵の後ろに腰を下ろした。
布団に寝かされた弥一は、静かに目を開ける。
「よかった。意識はあるんだな」
弥一を見つめていた良庵は、弥一に話し掛けた。
「病状を聞かせてほしいんだが、話せるか?」
弥一は良庵に視線を向けると静かに頷いた。
「見たところ足と腕に力が入ってなさそうだが、麻痺してるのか? 感覚はあるか?」
良庵は弥一の足と腕に軽く触れながら聞いた。
「……触れられている感覚はかすかにありますが、痺れていてあまり力は入りません。少しなら動かすことはできます……」
弥一はかすれた声で答える。
「咳が出るとか、喉が痛いとか、胸が苦しいとか、ほかに何か症状はあるか?」
「咳は出ません。喉も痛くはありませんが……、胸は……ときどき苦しくなります」
弥一の言葉に、良庵は何か考えるように目を伏せた。
「そうか……」
「あ、あの……!」
長屋の隅で弥吉が声を上げた。
「と、父ちゃんは何の病気ですか……? な、治るでしょうか……?」
良庵は弥吉を振り返ると、静かに息を吐いた。
「典型的な江戸患いだな」
「……江戸……患い?」
弥吉は小さく良庵の言葉を繰り返した。
「症状が軽ければ治る病だが、心臓にも影響が出ているなら……回復は難しいだろうな」
良庵はそっと目を伏せる。
弥吉の顔から一気に血の気が引いた。
「……脚気なのでしょう?」
口を開いたのは弥一だった。
「知ってたのか?」
良庵は弥一の方に向き直ると、静かに聞いた。
「はい……。妻が脚気で亡くなったので……」
弥一は穏やかな顔で言った。
「これは、うつる病なのでしょう? 弥吉ももうこれで私が治らないのはわかったと思いますので、私は帰ってもいいでしょうか……? せめて、誰にもうつさないようにしたいのです……」
良庵は何かを考えるように腕を組んだ後、静かに口を開いた。
「脚気は……俺の経験上では、うつらない。いろいろまだわかってない病だから、うつるって言ってる医者もいるが、少なくとも俺はうつった患者を見たことがない」
「え?」
弥一は目を見開く。
「同じ長屋で暮らす者が全員脚気にかかったという例はあるが、うつったって感じじゃないな……。そもそも脚気にかかる人間はだいたい三つのうちのどれかに当てはまるんだ。『貧しい、偏食、酒好き』このどれかだ。だから、脚気は症状が軽い段階なら、いろんなものを食べさせて酒を止めれば、ある程度良くなるものなんだよ」
「酒を止める……?」
弥一は呟くように言った。
「なんだ、酒好きなのか?」
良庵が意外そうに弥一を見た。
「あ、いえ……。その……手の震えが止まらなかったとき、酒を飲んだら震えが治まったことがあったので……」
「酒で、震えが?」
良庵は眉をひそめる。
「酒で脚気の症状が治まるなんて話しは聞いたことがねぇな……」
良庵はしばらく考え込んでいたが、やがて視線を上げると弥一を見つめた。
「考えられることとしては……緊張状態が緩和されたってところか……」
「緊張が……緩和……?」
弥一は答えを求めるように良庵を見つめた。
「ああ、手の震えを止めようと精神的に張り詰めるほど、震えっていうのは止まらないものなんだ。そこに酒が入ると血の巡りが良くなって緊張が和らぐ。それで一時的に震えが止まったってところだろうな……。震えが止まったのは一時的なものだっただろう?」
「あ……はい……。そうですね……」
弥一は自嘲気味に笑う。
「じゃあ、俺は……自分で病状を悪化させたのか……」
弥一は独り言のように小さく呟いた。
自然と長屋が沈黙に包まれる。
「先生」
黙って二人のやりとりを聞いていた信が口を開いた。
「治らないなら、これからどうしたらいい?」
良庵は振り返って信を見た。
「そうだな……回復は望めない……。ただ、今すぐ死ぬってわけじゃない。あとは本人がどうしたいか、だな」
良庵はそう言うと、弥一に視線を戻した。
「おまえはどうしたい?」
「私は……」
そのとき、弥一の瞳が揺らいだ。
弥一の目には、長屋の隅で青い顔をして立ち尽くす弥吉の姿が映っていた。
「……あの、少し……考えてもいいですか……?」
弥一は苦しげに目を閉じると、それだけ口にした。
「ああ、わかった。それなら今日はここに泊まっていきな。もうすぐ日も暮れるし、どこから来たか知らないが、今から帰るのも大変だろう」
良庵はそれだけ言うと、信を振り返った。
「おまえらの家はここからそんなに距離もないし、帰れるだろ? この人はここで見ておくから、今日は帰れ。俺もそろそろ休みたいんだ」
良庵はそう言うと、虫を追い払うようにシッシッと手を振った。
「ああ、わかった」
信はそう言うと立ち上がり、弥吉と叡正のもとに歩いていく。
「帰るぞ」
信が弥吉の肩を叩いた。
「え、あ!」
弥吉が我に返ったように体を震わせた。
「あ、あの、お代はいくらでしょうか?」
弥吉は慌てて懐から巾着袋を取り出す。
「ん? ああ、まだ何もしてないから、とりあえずいいよ。これからどうするか決まったら払ってくれ」
良庵はそれだけ言うと、弥吉に背を向けた。
「さぁ、暗くなる前に早く帰るんだぞ」
「あ、はい……。ありがとうございます」
弥吉は青い顔のまま頭を下げた。
「行くぞ」
信はそう言うと、弥吉と叡正を促し長屋の外に出た。
辺りはすでに暗くなり始めていた。
弥吉は何度も振り返りながら、信の長屋へと足を進めた。