弥吉と叡正は、長屋から出てきた信を見て目を見開いた。
 正確には、信の肩に荷物のように担がれている弥一を見て、二人は驚いていた。
 弥一は、死んでいるのではないかと思うほどぐったりとしていた。

「と、父ちゃん!?」
「し、信……!」
 二人は、慌てて信のもとに駆け寄った。

 弥一の顔には布が巻きつけられていて、二人の目にはそれが猿ぐつわのように見えた。
 二人の顔から血の気が引いていく。
 弥一の息遣いは聞こえたため、生きていることはわかったが、弥一の目は閉じられていて、意識があるのかどうかはわからなかった。

「信……、な、何事も強引なのは……よくないぞ……」
 叡正が引きつった顔で信に言った。
「し、信さん……、父ちゃんもちょっと頑固なところはあるけど……何も気絶させなくても……」
 弥吉も動揺を隠せなかった。

 信は眉をひそめて二人を見る。
「何を言ってるんだ? 起きてるだろ?」
 信はチラリと弥一に視線を移した。

「え……、起きてるの……? てっきり父ちゃんに猿ぐつわして、殴って連れ出してきたのかと……」
 弥吉は目を丸くして、弥一を見た。
 弥一は相変わらずピクリとも動かなかった。

「もう行くぞ」
 信はそれだけ言うと、弥一を担いだまま歩き出した。

「え!? ちょっと待て! そのまま行くつもりか!?」
 叡正は慌てて信の後を追う。
「その姿勢だと、弥吉の父親が苦しいだろう……。それに……」
 叡正はそこまで言うと、何か言いにくそうに目を泳がせた。

(うん……、そうだよね……)
 弥吉には、叡正が何を伝えたいのか痛いほどわかった。
 顔に布を巻き付けた男を肩に担いで歩いている信は、完全に人攫いにしか見えなかった。

「せ、せめて荷車を……! ちょっと探して借りてくるから! 待っててくれ!」
 叡正はなんとかそれだけ口にすると、荷車を求めて駆け出した。


 弥吉は、目を閉じたままの弥一を見つめる。
(久しぶりに明るいところで見たけど、こんなに顔色が悪いなんて……)
 弥一の土気色の顔、パサついた髪や肌、やせ細った手足に、弥吉は思わず目をそらした。
(どんなに嫌がられても、もっとちゃんとそばにいればよかった……)
 弥吉は拳を握りしめた。


 そのとき、ガラガラと車輪の回る音がした。
「お~い、借りてきたぞ」
 弥吉が振り返ると、叡正が荷車を引いて戻ってくるところだった。

「ほら、信。ここに寝かせてくれ」
 叡正が荷台を指さして信に言った。

 信は言われた通りに、弥一を肩から降ろすとゆっくり荷台に横たえる。
 荷台に降ろされたときも、弥一は目を閉じたまままったく動かなかった。

「そういえば、猿ぐつわじゃないなら、この巻いている布は何なんだ? 息苦しそうだからとってもいいか?」
 叡正は弥一を見ながら心配そうに聞いた。
「いや、うつる病気だからこうしていたいそうだ」
 信はそれだけ言うと、荷車の前方に移動して荷車を引いて歩き出した。

「あ、おい……」
 叡正と弥吉は慌てて荷車の後を追う。


 しばらく荷車の後ろを歩いていた二人だったが、やがて静かに顔を見合わせた。
「なぁ……、これはこれで……」
 叡正が引きつった顔で弥吉に言った。
「そ、そうですね……」
 弥吉の顔も自然と引きつっていた。

 先ほどから通り過ぎる人々が、皆一様に驚愕の表情でこちらを見ていた。
 皆、ピクリとも動かない弥一を見て目を見開き、訝しむように叡正と弥吉を見て、去っていく。
 荷台に横たえられた弥一は、事情を知らない人の目には死体にしか見えなかった。

「このままだと医者のところに着く前に、俺たち捕まるんじゃないか……?」
 叡正は遠い目で呟くように言った。
「可能性はありますね……。それは……困ります……」
 弥吉は片手で顔を覆った。

「よ、よし……。一芝居打とう……」
 叡正は意を決したように前を向いた。
「一芝居……?」
 弥吉が首を傾げて叡正を見る。

 次の瞬間、叡正が突然大きな声を出した。
「い、いや~、お医者様のいる長屋は遠いな~!」

 弥吉は目を見開いた。
「なぁ、弥吉! おまえの父親は大丈夫かな~? ……ほら、弥吉も声掛けて」
「……え?」
 弥吉の顔が一瞬にして引きつった。
 叡正は弥吉の耳に口を寄せる。
「おまえは医者のところに着くまでずっと父親に話しかけるんだ。そうしたら死体だなんて思われないだろ?」
「は!?」
 弥吉は信じられない思いで叡正を見つめる。
「父ちゃん……寝てますよ?」
「わかってる。でも、話しているふりをするんだ。不信に思われないためだ、頑張ってくれ!」
 叡正は真剣な表情で言った。
「ほ、本気ですか……?」

 弥吉はしばらく躊躇っていたが、叡正の真剣な眼差しに負けて渋々口を開いた。
「と、父ちゃ~ん、だ……大丈夫~……? お医者様のところまで、あと少しだから頑張って~……」
 弥吉は棒読みで言いながら、自分の顔が熱くなっていくのを感じた。

「弥吉、もっと大きい声で言わないと……」
 叡正が弥吉に囁く。
「そ、そんなこと言ったって……!」
 弥吉は泣きたくなる気持ちを抑えながら、弥一を見た。
(なんでこんなことを……)

「父ちゃ~ん! あとちょっとだよ~、頑張って~!! お医者様はもうすぐだよ~!!」
 弥吉は顔を赤くしながら、声を大きくした。

 そのとき、フフッという笑い声がかすかに二人の耳に届いた。

「おい、信。何笑ってるんだ! こっちは真剣にやってるんだぞ!」
 叡正が、前方で荷車を引く信に言った。

 信は少しだけ振り返ると、わずかに眉をひそめた。

「叡正様、信さんが笑うわけないじゃないですか! ずっと一緒にいても笑ったところなんて見たことないんですから! 通り過ぎた人が誰か笑ったんですよ、きっと……。うぅ……恥ずかしい……」
 弥吉はそう言うと、うつむいた。

「いや、今は誰も通ってなかったから、笑ったのは信だ」
 叡正はなぜか自信満々に言った。
「え!? 誰もいなかったんですか!? なんでそんなときに話してるフリなんてさせたんですか!」
 弥吉は涙目で叡正を見る。
「え……いや、悪い悪い。練習は必要かと思って……」
「練習って、こんなのに練習なんているわけないでしょう……! だいたい叡正様は……!」

 叡正と弥吉が言い合っているあいだ、荷台はかすかに揺れていたが、誰もそのことには気づかなかった。
 それから医者までの道中、弥一はずっと荷台に横たわりながら必死に笑いをかみ殺していた。