「あ、ここです……」
弥吉は目の前にある長屋を指さし、叡正を見た。
(ここまで来たけど……父ちゃんはきっと医者のところなんて行かない……)
弥吉は静かに目を伏せる。
(今まで持ってきた薬だって、飲んでたかどうかわからないし……)
弥吉がそんなことを考えていると、弥吉の横を誰かが通り過ぎた。
驚いて視線を上げると、信がひとりで長屋に入っていくところだった。
「ちょっ……、信さん!」
弥吉の声を無視して、信は長屋の中に消えていった。
弥吉の隣にいた叡正も唖然として長屋を見つめていた。
「あいつ……、戸を叩いたり、呼びかけたりしてたか……?」
「いえ、たぶん……してないと思います……」
弥吉は首を横に振る。
二人は顔を見合わせた後、再び長屋に視線を戻した。
「盗人か何かだと……勘違いされるんじゃないか? 弥吉も行った方が……」
叡正はチラリと弥吉の横顔を見たが、弥吉の表情が曇っているのに気づき静かに口を閉じた。
「……俺が行っても……ダメなんですよ……」
弥吉は悲しげに呟くと、目を伏せた。
二人はどうすることもできず、ただ長屋を見つめていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
戸が開き、一瞬だけ長屋の中が明るくなった。
(誰か……来たのか……?)
弥一は布団に寝たまま、少しだけ首を動かした。
(弥吉? いや、弥吉なら声を掛けるだろう……。じゃあ、誰だ? 盗人……?)
弥一は苦笑した。
(可哀そうに……。この長屋にはもう盗むようなものは何もないのに……)
足音はしなかったが、気がつくと寝ていた弥一の枕元には誰かが立っている気配があった。
「誰だ……? 何か盗みに来たんだろう? ……悪いがうちには金どころか、価値のあるものは何もない……。すまないな……」
弥一は目を閉じると、静かにそう口にした。
枕元にいる人物は、弥一の言葉に何も応えなかった。
(違う……のか?)
「盗人じゃないのか……? じゃあ、誰かを殺したくて来たのか……? それならちょうどよかった……。俺でよければ殺してくれ……。このままズルズル生きるより、早く死んで息子を解放してやりたいと思っていたんだ……」
弥一はそう言うと少しだけ微笑んだ。
かすかに空気が動く気配がした。
次の瞬間、弥一のすぐ目の前に薄茶色の目をした男の顔があった。
弥一は目を見開く。
「俺は、おまえを医者のところに連れて行く」
目の前の男は淡々とした声で言った。
「い、医者……?」
弥一は完全に混乱していた。
(見ず知らずの人間が……どうして俺を医者に連れて行くんだ……?)
「どうして……俺を……?」
弥一は薄茶色の目をした男を見つめたが、その表情からは何の感情も読み取れなかった。
「弥吉に、後悔させないためだ」
目の前の男は単調だが、はっきりした声で言った。
「弥吉……弥吉の知り合いなのか……?」
弥一は目を丸くする。
(ああ……、そういうことか……)
弥一は静かに息を吐いた。
「弥吉に頼まれたのか……? 悪いが、俺は医者に診せる気はないんだ……。俺の病気は治らない……。弥吉の金も時間もムダにするだけだ……。俺はこれ以上、弥吉に苦労を掛けたくないんだよ……。すまないが、わかってくれ……」
弥一はそれだけ言うと、目を閉じた。
目の前の男が、小さくため息をついたのがわかった。
「苦労より質が悪いのが後悔だ……」
目の前の男の淡々とした声が響く。
「後悔は一生纏わりついてくる苦しみだ。おまえは弥吉を一生苦しめる気なのか?」
弥一が思わず目を開くと、自然と男の顔が視界に入った。
目の前にある薄茶色の瞳には、かすかに悲しみの色が浮かんでいた。
「君は……何か悔いているのか……?」
弥一は気がつくとそう口にしていた。
薄茶色の瞳はただ真っすぐに弥一を見ていた。
「……ああ」
弥一は、悲しみが滲むその目を見ていられず思わず視線をそらした。
「……そう……なのか」
「……弥吉に同じ思いをさせるつもりはない。おまえが嫌だと言っても、俺はおまえを連れて行く」
目の前の男は、そう言うと何の躊躇もなく弥一を肩に担いだ。
「ちょっ……ちょっと待ってくれ!」
突然肩に担がれた弥一は慌てて口を開いた。
「俺の病気はうつるから……君にうつるかも……! こんなに近いと……さすがに……!」
弥一は必死で声を上げる。
薄茶色の目の男がチラリと弥一を見た。
「俺は別にうつっても構わない。いつ死んでも……」
「……え?」
弥一は目を見開く。
「ただ……弥吉にうつすのが怖いなら、この布を顔に巻いておけ」
薄茶色の目の男はそれだけ言うと、部屋の隅にあった布を手に取り弥一に渡した。
「あ……ああ」
弥一は薄茶色の目の男が、何を言っても自分を連れていく気だと悟り、何とか腕を動かし布を顔にぐるぐると巻きつけた。
「ほ、本当に……行く気なのか……?」
薄茶色の目の男は何も言わず歩き始めた。
(観念するしかないか……。どちらにしろ動かすのがやっとのこの腕と足で抵抗はできないし……)
弥一は静かに息を吐いた。
(医者に診せてもムダだとわかれば……弥吉ももう無理をして薬を買って来ることもないだろう……)
弥一は目を閉じる。
長屋の戸が開く音がした。
外の世界の光は、目を閉じていても弥一にはひどく眩しかった。
弥吉は目の前にある長屋を指さし、叡正を見た。
(ここまで来たけど……父ちゃんはきっと医者のところなんて行かない……)
弥吉は静かに目を伏せる。
(今まで持ってきた薬だって、飲んでたかどうかわからないし……)
弥吉がそんなことを考えていると、弥吉の横を誰かが通り過ぎた。
驚いて視線を上げると、信がひとりで長屋に入っていくところだった。
「ちょっ……、信さん!」
弥吉の声を無視して、信は長屋の中に消えていった。
弥吉の隣にいた叡正も唖然として長屋を見つめていた。
「あいつ……、戸を叩いたり、呼びかけたりしてたか……?」
「いえ、たぶん……してないと思います……」
弥吉は首を横に振る。
二人は顔を見合わせた後、再び長屋に視線を戻した。
「盗人か何かだと……勘違いされるんじゃないか? 弥吉も行った方が……」
叡正はチラリと弥吉の横顔を見たが、弥吉の表情が曇っているのに気づき静かに口を閉じた。
「……俺が行っても……ダメなんですよ……」
弥吉は悲しげに呟くと、目を伏せた。
二人はどうすることもできず、ただ長屋を見つめていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
戸が開き、一瞬だけ長屋の中が明るくなった。
(誰か……来たのか……?)
弥一は布団に寝たまま、少しだけ首を動かした。
(弥吉? いや、弥吉なら声を掛けるだろう……。じゃあ、誰だ? 盗人……?)
弥一は苦笑した。
(可哀そうに……。この長屋にはもう盗むようなものは何もないのに……)
足音はしなかったが、気がつくと寝ていた弥一の枕元には誰かが立っている気配があった。
「誰だ……? 何か盗みに来たんだろう? ……悪いがうちには金どころか、価値のあるものは何もない……。すまないな……」
弥一は目を閉じると、静かにそう口にした。
枕元にいる人物は、弥一の言葉に何も応えなかった。
(違う……のか?)
「盗人じゃないのか……? じゃあ、誰かを殺したくて来たのか……? それならちょうどよかった……。俺でよければ殺してくれ……。このままズルズル生きるより、早く死んで息子を解放してやりたいと思っていたんだ……」
弥一はそう言うと少しだけ微笑んだ。
かすかに空気が動く気配がした。
次の瞬間、弥一のすぐ目の前に薄茶色の目をした男の顔があった。
弥一は目を見開く。
「俺は、おまえを医者のところに連れて行く」
目の前の男は淡々とした声で言った。
「い、医者……?」
弥一は完全に混乱していた。
(見ず知らずの人間が……どうして俺を医者に連れて行くんだ……?)
「どうして……俺を……?」
弥一は薄茶色の目をした男を見つめたが、その表情からは何の感情も読み取れなかった。
「弥吉に、後悔させないためだ」
目の前の男は単調だが、はっきりした声で言った。
「弥吉……弥吉の知り合いなのか……?」
弥一は目を丸くする。
(ああ……、そういうことか……)
弥一は静かに息を吐いた。
「弥吉に頼まれたのか……? 悪いが、俺は医者に診せる気はないんだ……。俺の病気は治らない……。弥吉の金も時間もムダにするだけだ……。俺はこれ以上、弥吉に苦労を掛けたくないんだよ……。すまないが、わかってくれ……」
弥一はそれだけ言うと、目を閉じた。
目の前の男が、小さくため息をついたのがわかった。
「苦労より質が悪いのが後悔だ……」
目の前の男の淡々とした声が響く。
「後悔は一生纏わりついてくる苦しみだ。おまえは弥吉を一生苦しめる気なのか?」
弥一が思わず目を開くと、自然と男の顔が視界に入った。
目の前にある薄茶色の瞳には、かすかに悲しみの色が浮かんでいた。
「君は……何か悔いているのか……?」
弥一は気がつくとそう口にしていた。
薄茶色の瞳はただ真っすぐに弥一を見ていた。
「……ああ」
弥一は、悲しみが滲むその目を見ていられず思わず視線をそらした。
「……そう……なのか」
「……弥吉に同じ思いをさせるつもりはない。おまえが嫌だと言っても、俺はおまえを連れて行く」
目の前の男は、そう言うと何の躊躇もなく弥一を肩に担いだ。
「ちょっ……ちょっと待ってくれ!」
突然肩に担がれた弥一は慌てて口を開いた。
「俺の病気はうつるから……君にうつるかも……! こんなに近いと……さすがに……!」
弥一は必死で声を上げる。
薄茶色の目の男がチラリと弥一を見た。
「俺は別にうつっても構わない。いつ死んでも……」
「……え?」
弥一は目を見開く。
「ただ……弥吉にうつすのが怖いなら、この布を顔に巻いておけ」
薄茶色の目の男はそれだけ言うと、部屋の隅にあった布を手に取り弥一に渡した。
「あ……ああ」
弥一は薄茶色の目の男が、何を言っても自分を連れていく気だと悟り、何とか腕を動かし布を顔にぐるぐると巻きつけた。
「ほ、本当に……行く気なのか……?」
薄茶色の目の男は何も言わず歩き始めた。
(観念するしかないか……。どちらにしろ動かすのがやっとのこの腕と足で抵抗はできないし……)
弥一は静かに息を吐いた。
(医者に診せてもムダだとわかれば……弥吉ももう無理をして薬を買って来ることもないだろう……)
弥一は目を閉じる。
長屋の戸が開く音がした。
外の世界の光は、目を閉じていても弥一にはひどく眩しかった。