「弥一さんは最近白磁の皿ばかりお作りになっていますね? 何かこだわりがあるのですか?」
 乳母は窯の前で仕上がった皿を見ながら首を傾げた。
「……いえ、特にこだわりは……」
 男は苦笑すると、思わず目を伏せた。

 手の痺れは日を追うごとに酷くなっていた。
 男は、すでに筆を握って上手く絵を描くことができなくなっており、最近は白磁の皿しか焼けていなかった。

(まだ大丈夫だ……。まだ器が作れるうちは……)
 男は震える手で白磁の表面をそっと撫でた。
(器が作れなくなれば、この屋敷にはいられない……。まだ弥吉も小さいのに、今仕事を失うわけにはいかない……)

 無言で顔を強張らせていく男を見た乳母は、慌てて口を開いた。
「あ……その、私は……弥一さんの作る白磁、いいと思いますよ……!」
「え? ああ、すみません……。少し考え事をしていて……」
「ああ……、それならよかったです。傷つけてしまったかと思いました……。弥一さんは何でも真面目に捉えすぎるところがありますから……。もう少し肩の力を抜いてくださいね」
 乳母はそう言うと、男の肩を軽く叩いた。

「すみません……。焼き物のことを考え始めるとつい……」
 男は苦笑した。
(手の痺れのことは、誰にも知られないようにしないと……。もう少し……、弥吉がもう少し成長するまでは……)

「そうだ!」
 乳母が何か思いついたように声を上げた。
「いいものがあります! 少しこちらでお待ちください!」
 乳母はそう言うと、足早に屋敷の方に向かって歩いていった。

「いいもの……?」
 男はひとり呟くと、窯を見つめた。
(俺にはもう時間がない……。少しでも手が動くうちに、ひとつでも多く器を作って弥吉に残さないと……。たとえ俺の体が動かなくなったり、死んだりしたとしても、器を売れば少しは生活の足しになるはずだ……)

 男は皿を持つ自分の手を見つめた。
(頼む……もう少し動いてくれ……)
 男は祈るように目を閉じた。

「弥一さん!」
 駆け足で戻ってきた乳母は大きい徳利(とっくり)を抱えていた。
「これ、よかったらどうぞ」
 乳母は抱えていた徳利を男に差し出した。
 男は目を丸くする。
「えっと……これはお酒ですか?」
 男は白磁の皿を一旦地面に置くと、徳利を受け取った。

「はい。もともと旦那様への贈り物だったのですが、旦那様はお酒は召し上がらないので、好きにして良いとのことでした。よろしければ弥一さんにと思いまして」
 乳母はそう言うとにっこりと微笑んだ。
「いいんですか……? こんな高級なもの……私がいただいて……」
「弥一さんは誰よりこの屋敷に貢献していらっしゃいますから。たまにはお酒でも飲んで、肩の力を抜いてください」
 男は乳母と徳利を交互に見つめた。
(いいんだろうか……、こんな良い酒を……)

「遠慮なさらないでください」
 乳母はそう言うと、どこか悲しげに目を伏せた。
「弥一さんは本来もっと評価されるべき人なのですから」

「いえ、そんなことは……」
 男は慌てて首を振ったが、乳母の表情は晴れなかった。
「では……遠慮なくいただきます」
 男がそう言うと、乳母の顔は少しだけ明るくなった。
「はい。体を悪くしない程度に少しずつ召し上がってくださいね」
 乳母はそれだけ言うと、用事があると言って足早にまた屋敷の中に戻っていった。

「肩の力を抜いて……か……」
 男は、徳利を抱えた腕と反対の手で地面に置いた白磁を手に取ると小屋に向かって歩き出した。
(肩の力を抜いてる時間はもうないんだ……)

 男は小屋に着くと白磁と徳利を置き、後片付けを始めた。
(弥吉はまた隆宗様と遊んでるのかな……。そろそろ迎えに行かないと……)

 片付けながら、帰った後のことを考えていると、ふと徳利に目が留まった。
(これ……どこに置いておこう……。長屋に持って帰って、弥吉が興味本位で飲んでも困るしな……)
 男はしばらく思案していたが、やがて小さくため息をついた。
(仕事終わりに少しだけここで飲んで帰るっていうのが、一番安全か……)

 男は以前作った猪口(ちょこ)を棚から取り出すと、徳利を傾けて酒を注いだ。
 江戸に来てから飲んだことはなかったが、もともと男は酒に強い方だったため、少しの酒では酔わないだろうと思った。
 猪口を傾けて酒に口をつけると、口いっぱいに甘い香りが広がった。
(ああ、やはり良い酒だな……)
 男はすばやく猪口の酒を飲み干すと、帰り支度を始めた。

(久しぶりに飲んだが、やはりこの程度では酔わないな……)
 男がそんなことを考えながら手を動かしていると、あることに気づいた。

 男は自分の両手を見つめる。
「手の震えが……止まっている……?」
 手の痺れはそのままだったが、それでもずっと続いていたかすかな手の震えが止まっていた。

「酒の……おかげなのか……」
 男は震える唇で呟いた。
「これなら……なんとか絵付けもできるかもしれない……!」
 男はかすかな希望を見つけた気がした。

 帰り支度をするのも忘れ、男は筆を手に取ると焼き物に向き合った。
 その日を境に、男は小屋にこもることが増えていった。