(一体何があったんだよ……)
 弥吉は隆宗が去っていった方を見つめながら、拳を握りしめた。


 早朝、弥吉は信と話したことを伝えるため、隆宗の部屋を訪れていた。
 そこで見たのは土気色の顔をした隆宗と、部屋の隅に脱ぎ捨てられていた血まみれの着物だった。
 問い詰めても何もない言わない隆宗に、弥吉は苛立っていた。


(何もないわけないだろ……! それに関係ないって……俺は……)
 弥吉はうつむいた。

「弥吉……大丈夫か?」
 叡正が弥吉の肩に手を置いた。
「何か……あったのか?」

 弥吉は顔を上げると、静かに叡正を見た。
(血がついた着物のことは……言わない方がいいよな……。隆宗が何をしたのかわからないけど……こんなこと、知られるわけにはいかない……)

「いや、その……朝から隆宗の様子がおかしくて……ちょっと気になっただけです……。あいつが何も言ってくれないから、少し感情的になり過ぎました……。体調が悪かっただけかもしれないのに……。後でちゃんと謝りますね」
 弥吉はそう言って、叡正に笑いかけた。
「そうか……。そう……なんだな……」
 叡正はぎこちない弥吉の笑顔に何かを感じ取ったのか、少し弥吉から目をそらした。

「あ、それで、信さんのところに戻る話なんだけど……」
 弥吉は、信に視線を移した。
「少し待ってもらえないかな……。今、この屋敷いろいろ大変みたいだから……。お世話になってきた屋敷だし、俺にできることはしたいんだ……」

(本当は少しでも早く玉屋に行って咲耶太夫に謝りたいと思ってたけど……、あんなの見たらさすがに今あいつを放ってどこかには行けない……)

「それに、この近くに住んでる俺の父親の病状が良くないんだ……。だから、すぐ様子を見に行けるように、しばらくここにいようと思って……」
 弥吉は静かに目を伏せる。

 信はじっと弥吉を見つめていた。
「病状が良くないのに、父親のところでは暮らさないのか?」
 信は弥吉を見つめたまま淡々と聞いた。

 弥吉は驚いて顔を上げる。
 信が弥吉の家族に興味を持つとは思っていなかった。
「あ、その……父親が……嫌がってるんだよ……」
 弥吉は引きつった顔で笑った。
「その、仲が悪いとかじゃなくて……ほ、ほら、ひとりの方が気楽って思う人もいるだろう……?」
 弥吉は信と目を合わせることができなかった。

「……そうか」
 信は静かに口を開いた。
「それなら、父親は先生のところに連れていこう」

「……え?」
 弥吉は信の言葉の意味がわからず、思わず声を漏らした。
「先生って医者……? いや……父親は医者が嫌いで……行かせるのは難しい……かも……」
 弥吉は目を伏せた。

「病状が良くないんだろ?」
 信は淡々と聞いた。
「良くない……良くないけど……本人が治療を望んでないんだよ……」
 弥吉はきつく目を閉じた。
 弥吉の頭の中であの日の声が響く。


『なぁ、弥吉。もう……死なせてくれよ』
 弥吉は息苦しくなり、思わず胸を押さえた。
『もう……解放……』


「おまえはそれでいいのか?」
 弥吉の頭の中の声を遮るように、信の声が響いた。
 弥吉は目を開けると、信を見た。
「…………俺?」
「おまえはそれでいいのか?」
 信はもう一度聞いた。

 弥吉は目を泳がせる。
(いいわけない……。たったひとりの親なんだから……)

「よくないなら連れていくべきだ。死んだらもう何もできない。悔いが残るだけだ」
 信は少しだけ目を伏せた。

(悔いが……)
 弥吉は拳を握りしめる。

 信は弥吉が何か言う前に襖に向かって歩き出した。
「おい、信?」
 叡正が慌てて信に声を掛けた。
 信はチラリと弥吉を振り返る。
「弥吉の親のところに行く。早い方がいい」
 信はそれだけ言うと襖を開けて、座敷から出ていった。

「ちょっと待て! そんな勝手に決めて……」
 叡正が急いで信の後を追った。

 ひとりになった座敷で弥吉は、ただ自分の足元を見つめていた。
「…………父ちゃん、俺は……」
 誰もいない座敷に弥吉の声は小さく響き、静かに消えた。