「……そもそも俺、ほとんど何も知らされてないんだよ」
 弥吉はしゃがみ込んだまま頭を掻くと、ため息交じりに言った。
「この屋敷の伊予(いよ)さん……あ、俺に信さんの監視を頼んだ人の名前、伊予さんっていうんだけど……伊予さんに信さんの行動を見張って報告しろって言われただけだから……。報告を聞きに来てた人も毎回違う人だったし、何か言われることもなかったから……本当に何も知らないんだ。伊予さんに会えば何かわかるかと思ったけど、こんな状況になってるなんて思わなくて……」

「そうか」
 信は淡々と言った。

「……なんか信さん、興味なさそうだね……」
 弥吉は苦笑する。

 信は静かに目を伏せた。
「最初からおまえが何か知っているとは思っていない」
 信の言葉に、弥吉は小さく息を吐いた。

「そう言われると……それはそれでなんかアレなんだけど……。まぁ、いいや……。言い訳にしか聞こえないだろうけど、たいしたことない内容しか報告してないつもりだったんだ……」
 弥吉はそれだけ言うとうつむいた。
「ただ、裏茶屋の火事のことと、あの歌舞伎役者の……ほら、奉行所に突き出す前に男が殺された件、あれは確実に俺のせいだよ。叡正様に宛てた信さんの手紙を読んで報告したんだ……あの男の監禁場所……。その後男が死んだって聞いて、ようやく俺、この監視の仕事がヤバいって気づいたんだ……。ホント馬鹿だよな……」

 信は何も言わず弥吉を見つめていた。

「本当にごめん、信さん……。あんな目に遭わせて……咲耶太夫にも合わせる顔がないよ……」
 弥吉はうつむいたまま絞り出すように言った。

「咲耶も気にしていない。それに弥吉を迎えに行けと言ったのは咲耶だ」
 信の言葉に、弥吉は弾かれたように顔を上げた。
「咲耶太夫が!? ……もしかして、咲耶太夫も最初わかってて……!?」
 弥吉は信を見つめる。
「いや、咲耶は知らなかったはずだ。気づいたのは、監禁場所で男が死んだときだろう」
 信の言葉に、弥吉は片手で顔を覆って苦笑した。
「……そっか。じゃあ、そこからはわかってたってことか……。わかってたのに、文使いとしてそばに置いてくれてたのか……。信さんもだけど、咲耶太夫もなんでそんな……」

 信は、うつむいたままの弥吉の前にしゃがみ込んだ。

「戻りたいなら、戻ればいい」
 信は弥吉の頭をそっと撫でる。
「みんな、待っている」

 弥吉は顔を上げた。
 信の顔はいつも通りの無表情だったが、提灯の明かりが生み出した陰影のためか、その表情はどこか柔らかで温かく見えた。
 弥吉の両目から涙が溢れ出す。
「俺……、本当に戻っていいの……?」

 信は静かに頷いた。

「あんなことしたのに……」
「おまえは何もしていない」

「俺のせいで、命だって危なかったのに……」
「おまえのせいじゃない。……すべて俺のせいだ」
 信はそっと目を伏せた。

 弥吉は目を見開く。
「信さんのせいじゃないよ!」
 弥吉はそう言ったが、信は何も応えなかった。

「とりあえずもう部屋に戻れ」
 信はゆっくりと立ち上がると、弥吉に背を向けた。
「夜が明けたらまた来る」

「あ、俺が行くよ! 信さんと叡正様のところに。必ず行くから……待っててくれる?」
 弥吉は立ち上がると、信の背中を見つめた。

「ああ、待っている」
 信はそれだけ言うと、足音も立てず闇の向こうに消えていった。

 弥吉は大きく息を吸い込むと、空を見上げた。
 足元の暗さに気を取られていて気づかなかったが、空には月も星も輝いていて、目さえ慣れれば提灯がなくても歩けそうな明るさだった。
 瞬く無数の星を見ながら、弥吉はそっと息を吐く。
 胸が熱く、頬を伝う涙は不思議なほど温かかった。