弥吉は、提灯で辺りを照らしながら敷地の外れを歩いていた。
「ここ……か……」
 弥吉は手に持っていた提灯を暗闇にかざした。
 浮かび上がったのは、古びた井戸だった。

(今さらこんなところに来たって何もわからないか……)
 弥吉は小さくため息をついた。

(あいつがやったことなのか……? どうしてそんな……)
 
「俺はこれから……どうしたらいいんだ……」
 弥吉はひとり呟いた。

「おまえは、どうしたいんだ?」
 そのとき、弥吉の背後ではっきりとした声が聞こえた。
 弥吉が弾かれたように振り返ると、弥吉のすぐ後ろには信が立っていた。
「うわぁ!!」
 弥吉は驚いた拍子に提灯を持ったまま尻餅をつく。


「大丈夫か?」
 信が弥吉に手を差し出す。
「ちょ! なんで音もなく近づいて背後に立つんだよ!? 怖いだろ!?」
 弥吉は驚きのあまり、信への気まずさも忘れて叫んでいた。
「そんなに驚くと思わなかった」
 信は淡々と言った。
「驚くだろ、普通! まったく……!」
 弥吉は信の手を取ると、ゆっくりと立ち上がった。

 両手で着物についた砂を払うと、弥吉は信を見つめた。
「この屋敷に泊まるかもって聞いたとき、信さんなら絶対部屋を抜け出すと思ったよ……」
 信は無言で弥吉を見つめていた。
「まぁ、こんなに早く抜け出すとは思ってなかったけど……」

 弥吉は苦笑すると、そっと信から視線をそらした。
「信さんの監視を依頼したのが誰か、俺に聞きにきたんだろ?」

 信は弥吉を見つめ続けていた。
「……いや」
 信の言葉に、弥吉は首を傾げる。
「じゃあ、何しに来たんだ?」

「…………」
 信は無言のまま、ただ弥吉を見つめていた。

「信さん?」

「……………………」
 どれだけ待っても信の口から言葉は出てこなかった。

「もう! ホントに何しに来たんだよ!?」
 弥吉は痺れを切らして叫んだ。
「あ、そうだ。そういえば叡正様は? 一緒に来たんだろ?」

「ああ、部屋でうずくまっている」
「え!? うずくまってるの!? なんで!?」
 弥吉は目を丸くする。
「さぁ、わからない」
「わからないって……」
 弥吉は言葉を失う。
(信さんは本当に相変わらずだな……)
 弥吉は首を横に振ると、諦めたようにため息をついた。


「あのさ……、全部謝って済むことじゃないってわかってる……。信さんはもうわかってると思うけど、あの火事の日、咲耶太夫と信さんが裏茶屋で会うって教えたのは、俺なんだ。だから……俺のせいなんだよ……」
 弥吉は片手で顔を覆った。
 泣いていい立場ではないとわかっていたが、弥吉はこみ上げるものを抑えることができなかった。

「おまえのせいじゃない」
 信は淡々と言った。
「おまえがやらなくても、俺の元には必ず誰か送り込まれていた。おまえのせいじゃない」

 弥吉の頬を涙が伝う。
「ハハ……、ホントに……やりにくいなぁ……。悪いやつだって聞いてたのに、信さんは変だけどなんかあったかいし、咲耶太夫も玉屋のみんなも、その周りにいる人もみんな良い人で……。俺…………ずっとここにいたいとか思っちゃったりして……ホントに……どうして……」

「いたいなら、いればいい」
 信は静かな声で言った。
 弥吉は目を見開く。
「意味わかって言ってるの!? 俺、間者ってやつだよ!? そんなことやってたやつがそばにいて、不安じゃないの!?」
「不安じゃない」
 信は淡々と答えた。

「……ホント、どうかしてるよ……」
 弥吉はその場にしゃがみ込んだ。
「せめて……黒幕というか……誰が信さんを見張ってるのか教えたいんだけどさ……。ダメなんだよ……」

「脅されているのか?」
 信の目つきが少しだけ鋭くなった気がした。

 弥吉は小さく笑う。
「違うよ……。信さんは知ってるのかな……ここであったこと……。ほら、井戸から死体が見つかったってやつ……」
 弥吉はそこまで言うと、信を見つめた。
「これは屋敷のみんなの反応を見た、俺の勘なんだけどさ……。たぶんその死体で見つかった女なんだ……」
 信は、意味がわからないというように首を傾げる。
 弥吉は苦笑すると、目を伏せた。
「俺に信さんの監視を依頼したのが、死体で見つかった女なんだ、たぶんね。……この家の事実上の側室だった人だよ」

 信はわずかに目を見張った。

「ごめんね、信さん」
 弥吉は言うと、静かに目を閉じた。
 弥吉の後ろで、井戸が妖しく暗闇に浮かび上がっていた。