「……というわけですので、弥吉は本日こちらには戻ってこられないようです」
 日が沈み、辺りがすっかり暗くなった頃、隆宗は信と叡正のいる座敷にやってきた。
「もう夜ですから、もしよろしければ今日はこちらにお泊りください。あとで布団を持ってこさせますので」
 隆宗は申し訳なさそうな顔でそう告げた。

「そうですか……。戻らないのなら仕方ないですね」
 叡正は隆宗の言葉を聞くと、ゆっくりと立ち上がった。
「しかし、泊めていただくのは申し訳ないので、私たちはこれで失礼します。また後日改めて出直して……」
 叡正がそう言いながら振り向くと、座ったまままったく動かない信と目が合った。

 二人はしばらく無言のまま見つめ合う。

「……え? 泊まるつもりか……?」
 叡正は引きつった顔で聞いた。
 信は静かに頷く。
「いや、そんなの迷惑になるから……」
 叡正が慌てて信を説得しようとすると、隆宗がクスッと笑ったのがわかった。
 叡正が隆宗に視線を向けると、隆宗はバツが悪そうに目を伏せた。
「あ、すみません……。その……、うちは本当に大丈夫ですので。弥吉も明日には戻るかもしれませんし、よろしければこちらでお休みください」
「いや、しかし……」
 叡正はもう一度信に視線を向ける。
 信はまったく動く気がないようだった。

 叡正は小さく息を吐く。
「あの……では、お言葉に甘えてもよろしいですか……?」
「ええ、もちろんです」
 隆宗はにっこりと微笑んだ。

 隆宗は、後で奉公人が布団を持ってくるともう一度二人に告げ、一礼して座敷を後にした。


 座敷にまた静寂が訪れる。

(信は、弥吉に会えるまで本当にここで待つつもりなのか……?)
 叡正が信をじっと見つめていると、信がおもむろに立ち上がった。

「どうしたんだ?」
 叡正は信を見上げる。
「屋敷を見て回る」
 信は淡々と答えると、そのまま座敷を出ていこうとした。
「は!? ちょ、ちょっと待て! 勝手に屋敷をうろうろするなんてダメに決まってるだろ!」
 叡正は慌てて信の腕を掴んだ。
「どうして見て回る必要があるんだよ!?」

 信は叡正を少しだけ振り返った。
「気になることがある。それに、弥吉もいるかもしれない」
 信はそれだけ言うと、叡正の手を払って出ていこうとした。

 叡正は慌てて信に縋りつく。
「だから待てって……! 弥吉はいないってさっき言われただろ? それに屋敷を歩き回るなら許可を取らないと……」
 信はチラリと叡正を見た。
「許可が取れるのか?」
 信の言葉に叡正は目を泳がせる。
「と、取れない……けど……」
「それなら、時間のムダだ」
 信はそう言うと、叡正を引きずるように襖に向かう。

「だから、ダメなんだって……!」
 叡正が腕に力を込めて信を引き留める。

 そのとき、襖の向こうで人が動く気配がした。

「失礼いたします!」
 声と同時に、奉公人が一気に襖を開いた。
「お布団を……」
 奉公人の言葉はそこで途切れた。


(あ、しまっ……た……)
 叡正は自分が取り返しのつかないことをしたことを悟った。

 奉公人は、信と信に抱きつく叡正を見つめたまま固まっていた。

「あの……これは……」
 叡正は信を拘束していた腕を慌てて解いた。

 奉公人の顔はみるみるうちに赤く染まっていく。
「わ、私は……その……、な、何も見ていませんので……!」
 奉公人は顔を横にブンブンと振ると、片手で顔を覆った。
「あ、あの、お、お布団は外に! 外に置いておきますので……! その……ご、ごゆっくり……!」
 奉公人はそれだけ言うと勢いよく襖を閉めた。

 バタバタと廊下を走っていく音だけが、かすかに叡正の耳に響いた。

「俺は……もうダメだ……」
 叡正は力なくその場にしゃがみ込んだ。

「……行っていいか?」
 信は叡正を見下ろすと、淡々と聞いた。
「ああ、もう……どこにでも行ってくれ……」
 叡正はうつむいたまま呟く。

 信は静かに頷くと、襖を開けて座敷の外に出ていった。

 叡正は両手で顔を覆って、天を仰いだ。
「もう帰りたい……」
 叡正はひとりになった部屋で、絞り出すように小さく呟いた。