「奥様の様子はいかがですか?」
 男は廊下を歩いてきた乳母を見つけると、慌てて声を掛けた。
 乳母は苦しげな表情で目を伏せると、静かに首を横に振った。
「もともとお身体が弱かったところに、ここ最近の心労が重なって……」
「そう……なのですね……」
 男は目を伏せた。
「隆宗様は?」
「奥様のそばにいらっしゃいます……。ここ数日ほとんど何も召し上がらず、ずっと奥様の手を握っています……」
 乳母は震える声で絞り出すように言った。
 男は拳を握りしめる。
(奥様の具合が良くないのは聞いていたが……)

「……旦那様はいつ頃お戻りになるのですか?」
 男の言葉に、乳母は冷めた目で遠くを見つめた。
「お戻りにはならないでしょう。……本当に、すべてあの女のせいです……!」
 乳母は吐き捨てるように言った。
「あの女……ですか……」
(噂でしか聞いたことはなかったが、本当のことなのか……?)
 男は嫌悪の表情を浮かべる乳母を見つめた。

 奥様のお世話をしていた奉公人が奥様の目を盗んで旦那様に取り入り、事実上の側室のような扱いを受けているという噂は男の耳にも届いていた。

「あの女のせいで奥様は……!」
 乳母は唇を噛んだ。
(なるほど、心労というのはそのことか……)
 男は静かに目を伏せた。

「奥様も心配ですが、隆宗様も心配ですね……。あとで弥吉に様子を見に行かせてもよろしいですか?」
「ええ、ぜひお願いします! 隆宗様は私が何を言っても奥様のそばから離れないですし、お食事を持っていっても召し上がらないので……」
 乳母はすがるように男を見た。
「わかりました。では、弥吉に食事を持っていかせます」
「ありがとうございます……! それなら急いで食事の手配をしなければ!」
 乳母は嬉しそうにそう言うと、身を翻して足早に屋敷の奥に去っていった。

「隆宗様は大丈夫だろうか……?」
 男はひとりになった廊下で小さく呟いた。
「まぁ……、旦那様も奥様のことを知れば急いで戻ってくるだろうし、きっと大丈夫だろう……」
 男は息を吐くと、弥吉を呼びに仕事場に戻っていった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「失礼いたします。弥吉です。入ってもよろしいでしょうか?」
 弥吉は、部屋の襖の前で中に向かって声を掛けた。
 返事はなかったが、しばらくしてゆっくりと襖が開く。
 襖の向こうには隆宗が立っていた。
「弥吉……、どうしたんだ……?」
 隆宗は今にも倒れてしまいそうなほど、青い顔をしていた。

「何って、奥様とおまえが心配で来たんだよ。それと食事を持ってきた」
 弥吉は運んできた二つの膳をチラリと見ながら言った。
 隆宗は目を伏せる。
「気持ちは嬉しいけど、食事は……。食欲がないんだ……」
 隆宗はそう言うと、そのまま襖を閉めようとした。

「お、おい!」
 弥吉が慌てて襖のふちに手を掛ける。
「食えよ! おまえ顔色悪いぞ! それにおまえが食わないと、俺が怒られるんだよ! いいのか! 俺が怒られても!」
「そんなこと言ったって……」
 隆宗がそう言ったとき、隆宗の後ろで人が動く気配が気配がした。

「隆宗……」
 か細い声がかすかに二人の耳に届いた。
 弥吉が襖の隙間から中を見ると、布団で寝ていた奥様が体を起こし、こちらを見ていた。
「入れてあげなさい。私も……弥吉の顔が見たいわ……」
 奥様はそう言うと、目を細めた。

 隆宗が慌てて振り返ると、奥様はにっこりと小さく頷いた。
 隆宗はゆっくりと息を吐く。
「わかりました……」
 隆宗は襖を開けると、弥吉に入るように促した。

 弥吉は二つの膳を中に運び終わると、奥様の前に腰を下ろし頭を下げた。
「どうぞ。少しだけでも召し上がってください」
 隆宗も弥吉の隣に腰を下ろした。

「ありがとう……。でも私も食欲がないの……」
 弥吉は頭を上げて奥様を見た。
 奥様は以前見かけたときと変わらず美しかったが、顔色は悪く、体はやせ細ってしまっていた。
「少しだけでも召し上がってください」
 弥吉はおずおずと言った。
「そうね……。隆宗と弥吉が一緒に食べてくれたら、私も少し食べられる気がするわ」
 奥様はそう言うと優しく微笑んだ。
「え?」
 隆宗と弥吉は顔を見合わせた。
「私は、ひとりでこれだけの量は食べられないから、弥吉は私の膳を食べるのを手伝って。どう? お願い、聞いてくれるかしら?」
 奥様は少しだけ首を傾ける。
「あ、はい……。もちろん」
「わかりました……。母上」
 二人はそう言うと、おずおずと箸に手を伸ばした。

「ありがとう。二人共」
 奥様は優しく微笑む。
 奥様はしばらく二人が食べている様子をにこにこと見守っていたが、隆宗の視線に気づき、さじを手に取ると少しだけご飯をすくい口に運んだ。

「弥吉も大きくなったわね。こんなに立派に育ってくれて、お父様も誇らしいでしょうね」
 奥様は弥吉を見てにっこりと笑った。
「いえ、そんな……」
 弥吉は料理を頬張りながら、頬を赤く染めた。

「弥吉、お世辞だ。本気にするな」
 隆宗はにっこりと笑いながら言った。
「おい、うるさいぞ」
 弥吉は隆宗を小突いたが、奥様の前だったことを思い出し、慌てて頭を下げた。
「す、すみません……!」

 二人の様子を見て、奥様はフッと笑った。
「二人は本当に仲が良いのね。安心したわ」
 奥様は弥吉を見つめると、柔らかく微笑む。
「これからも隆宗をよろしくね」
「は、はい! もちろんです」
 弥吉はうんうんと何度も頷いた。

「ふふ、弥吉は可愛いわね」
 奥様はそう言って笑うと、真剣な表情で隆宗に視線を向ける。

「隆宗、あなたは何があっても弥吉を守るのよ」
「守る……ですか?」
 隆宗はキョトンとした顔で奥様を見つめる。
「ええ。あなたはこの家の次期当主です。あなたはこの家の者たちに支えられている。だから、あなたは責任を持って、この家に仕える者たちを守るのよ」

 隆宗は目を見開いた。

「いいですね?」
 奥様は視線をそらすことなく、隆宗を見つめ続けた。
「は、はい!」
 隆宗は奥様を真っすぐに見つめ、しっかりと頷いた。

 隆宗の顔を見て、奥様は満足そうに微笑んだ。
「さぁ、三人で早く食べきってしまいましょう」
 三人は何でもないことを話しながら、二つの膳に乗った料理をすべて食べきった。


 数日後、奥様は静かに息を引き取った。
 旦那様が屋敷に戻ってきたのは、それからひと月以上経ってからだった。