叡正と信が座敷に案内されてから、かなりの時間が経った。
(弥吉は本当に来るのか……?)
 叡正はチラリと信を見る。
 信は座敷に腰を下ろしてから、叡正が見ていた限り身じろぎひとつしていなかった。

(う……、慣れてはきたが、これだけの時間沈黙なのはさすがにツラいな……)
 叡正は気まずさに耐え切れず、意を決して口を開いた。

「あ、あのさ……」
 しばらく声を出していなかったため、叡正の声は少しかすれていた。
「井戸の女のことを気にしてるみたいだけど……、ここに来たのは弥吉を連れ戻すためだろう? 弥吉と関係ないなら気にする必要はないんじゃないか?」
 叡正の言葉に、信がゆっくりと叡正に視線を向けた。

「ああ……。関係ないならな」
 信はそれだけ言うと目を伏せた。
「え? ……それってどういう……」
 叡正がそこまで言ったところで、襖の外から声が聞こえた。

「失礼いたします」
 その声と同時にゆっくりと襖が開き、男が顔を出した。
「遅くなりまして申し訳ございません。お茶を持ってまいりました」
 男はそう言うと、二つ湯飲みが乗ったお盆を持って座敷に入ってきた。

「弥吉はまだ帰ってきていないようなので、もう少々お待ちください」
 男は申し訳なさそうに言った。

「あ、いえいえ! 突然押しかけてきたのはこちらですから。お気遣いなく……」
 叡正は慌てて頭を下げた。

 男は笑顔で応えながら、湯飲みを叡正と信の前に置いた。

「正直、弥吉が外に働きに出ていると知って心配していたのですが、こうして心配してここまで来てくださる方がいて、少し安心いたしました」
 男は叡正を見ると、そう言って微笑んだ。
 叡正は男を見つめる。
「弥吉の父親がここの奉公人だったと伺いましたが、弥吉のこともよくご存じなのですね」
 叡正の言葉に、男はにっこりと微笑んだ。
「ええ、父親の弥一(やいち)さんがここで働いているあいだ、この屋敷でずっと遊んでいましたからね。あ、ただ弥一さんは奉公人ではありません。焼き物の職人です。この屋敷のお庭焼きのために遠方から江戸にお越しいただいたのです。著名な陶芸家だったのですよ」
「だった……?」
 叡正は思わず聞き返した。

「あ……」
 男は口元に手を当てると、静かに目を伏せた。
「ご病気で……、今はもう焼き物は作っていません……。それで弥吉が働きに出ることになったので……」
「そうなんですね……」
 叡正も目を伏せた。
「あ、では弥吉の父親もこの屋敷にいるのですか?」
 叡正の言葉に、男は一瞬だけ叡正の顔を見ると、悲しげに首を横に振った。

「え? では、弥吉は戻ってきたのに、父親とは離れて暮らしているのですか?」
 叡正は目を丸くした。
 十くらいの年であれば、奉公に出ていない限りは親元で暮らすのが普通だった。
 父親が病気であれば、弥吉の性格から考えても一緒に暮らしたがるだろうと叡正は思った。
(そもそも、なんであいつ信のところにいたんだ……?)
 叡正はひとり首を傾げる。

「それは……」
 男が口を開きかけたとき、唐突に信が口を開いた。

「井戸で見つかった死体はどんな女だった?」
 叡正は目を丸くして信を見る。
 信は真っすぐに男を見つめていた。
 突然の信の言葉に、一瞬ポカンとしていた男はしだいに言葉の意味を理解すると、みるみるうちに顔を青くした。
「どんな……とは……?」
 男は震える唇で聞いた。
「女の特徴は?」

 叡正は慌てて、信の袖を引く。
「お、おい……」

 男は目を泳がせていた。
「と、特徴……。そうですね……、その……遺体をしっかり見てはいませんので……。ただ……美しい女だったと……」
 男は落ち着かない様子で口を開く。

「そうか……。水の中で腐った死体を見て、おまえは美しい女だと思ったのか」
 信が淡々と言った。
 男はハッとしたように信を見る。
「い、いえ! その……生きていたときは……きっと美しかったのだろうと……」
 男はそう言うと静かに唇を噛んだ。

「お、おい……、今はそんなことどうでもいいだろう……」
 叡正は信の肩を掴むと、慌てて男に頭を下げた。
「す、すみません……。まだ屋敷の皆さんも混乱しているときに……こんな……。本当に申し訳ない……」

「い、いえ……。あんな出来事があったのですから、気になるのが当然だと思います。ただ……、私もよくわかっていないので……」
 男は暗い顔で目を伏せた。
「で、では、私はこれで失礼しますね。弥吉が戻ってまいりましたら、ここにお連れしますので……」
 男はそう言って立ち上がると、そそくさと座敷を出ていった。


「おい、弥吉を連れ戻すのが目的だろ!?」
 叡正は信の肩を軽く叩く。
「ああ」
 信は目を伏せた。
「少し気になっただけだ」
 信はそう言うと、口を噤んだ。

 叡正は小さく息を吐く。
(ああ……、なんだろう……。嫌な予感しかしない……)
 叡正は片手で顔を覆った。
(まぁ、咲耶太夫や信と関わって、嫌な予感がしないことの方がないか……)
 叡正はもう一度小さなため息をついた。