(あれは絶対に鈴だ……)
張見世の奥に去っていく鈴を見ながら、将高はそう確信していた。
(しかし、なぜ……。鈴はまだ客をとる年ではないはずなのに…)
二年ぶりに見る鈴は、変わらない華やかな美しさで張見世の中でも人目を引いていた。
しかし、以前にも増して痩せてしまったためか、顔には暗い影が差していた。
(鈴はいつから見世に出ているんだ……)
この二年、将高は鈴を探し続けていた。
まだ元服を迎えていない十三の将高は遊郭に入ることはできない。
そのため吉原を行き交う人に禿や若手の振袖新造、留袖新造の噂を訊ねては、見世の前をうろついて鈴ではないかを確認していた。
菊乃屋の張見世に来たのはまったくの偶然だった。
将高は、はやる気持ちを抑え一旦屋敷に戻ることにした。
先ほど名前を呼んだせいで、菊乃屋の男衆から将高は不信な目で見られている。
鈴の隣にいた遊女もこちらを怪訝な顔で見ていた。
将高は屋敷に戻ると鈴に宛てた手紙を書いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「鈴、昨日はどうしたの?」
朝、客の見送りを終えて戻ってきた鈴を見つけると、美津は駆け寄って声をかけた。
「ああ……、ごめん。見世に入る前の知り合いがいて…、ちょっと動揺しちゃって……」
「ああ、そっか…。その…恋人か何かだったの……?」
「まさか!」
鈴は目を丸くした。
「こんな私を気にかけてくれた優しい人だったから…、今の姿を見られたくなくて……」
鈴は悲しげに目を伏せた。
「そっか……」
美津は鈴の様子を見て、そっと鈴を抱きしめた。
鈴の肩に頭を乗せた美津は、ふと鈴の首の後ろに目を留める。
「あれ?」
「どうしたの?」
「ああ…、赤い湿疹みたいなのがあるよ、ここ」
美津は鈴から体を離すと、鈴の首の後ろを指して言った。
「ああ、うん。梅毒みたい。放っておけばそのうち治るだろうって」
鈴は首を触りながら微笑んだ。
「まぁ、梅毒になってようやく一人前みたいに言われてるけど……。鈴は無理しちゃダメだよ? もともと体弱いんだから……」
美津は心配そうな眼差しを鈴に向ける。
「……ありがとう。でも、大丈夫だよ」
鈴はそう言うと微笑んで美津の手を引いた。
「ほら、今のうちにしっかり寝ておこう! ちょっとしたらまた昼見世が始まっちゃう!」
「あ、うん……」
美津は鈴に手を引かれて二階にあがっていった。
少し眠った後、鈴と美津は朝食をとり身支度を整えると、昨夜と同じようにまた張見世に出た。
昼見世は夜に比べると客も少ないため、鈴は美津と並んでゆっくり話すことができた。
「そういえば、鈴には兄弟とかいるの?」
「うん! お兄様がいる」
珍しく目を輝かせている鈴の様子に、美津は思わず笑った。
「よっぽど素敵なお兄さんなんだね」
「うん、強くて優しくてカッコいいの! 昔、うちの屋敷に遊びに来てた私の友だちなんて、ほとんどみんなお兄様目当てだったんだから。美津も会ったらきっと好きになるよ」
滅多にないほど饒舌な鈴に、美津は微笑む。
「すごい好きなんだね。鈴の初恋の人はお兄さんかな?」
「ふふ、そうかも」
「羨ましいな。私は兄弟とかいないから…。お兄さんは今どうしてるの?」
「お兄様は出家したから、今も遠縁の住職のところでお世話になってると思う。お兄様は……私が吉原にいることは知らないし」
鈴は悲しげに微笑んだ。
「……お兄さんに会いたい?」
美津は鈴の手を握る。
鈴は一度美津を見てから、ゆっくりと首を横に振った。
「絶対に会いたくない」
鈴は真っすぐに美津を見る。
「お兄様にはお屋敷にいた頃の私の姿だけ覚えていてほしいの」
「そっか……」
美津は目を伏せた。
「おい」
ふいに男衆が鈴に声をかけた。
「音羽、おまえに手紙だ」
鈴は立ち上がると男衆から手紙を受け取る。
「なんか若いのが持ってきたんだ。親父からの手紙を預かってきたとかって言ってたぞ。自分の息子に遊女への手紙を持たせるなんて、なかなか腐った客持ってるんだな、音羽は」
男衆はそう言うとおかしそうに笑った。
鈴はそんな男衆を無視して手紙を開く。
手紙は一見、客のひとりが鈴を想って書いたような内容だった。
しかし、鈴にはこの筆跡に見覚えがあった。
(将高様……)
手紙は一文の頭だけを読んでいくと、言葉になっていた。
(夕刻、裏茶屋の檜屋にて待つ……将高……)
昼見世が終わると、鈴は将高の手紙にあった檜屋に足を運んだ。
案内された座敷に入ると、そこにはすでに将高の姿があった。
「鈴!」
将高は立ち上がると鈴に駆け寄った。
鈴は将高を見上げる。
(背……高くなったな…)
二年の間に将高は背が伸び、がっしりとした体つきに変わっていた。
「鈴、大丈夫か? ずっと、ずっと探していたんだ……。母上がこんなことをするなんて……。本当に、本当にすまない!」
将高は深く頭を下げた。
「将高様……、頭を上げてください。謝ることなんてありません。私は……元気でやっていますから」
鈴は目を伏せて言った。
「とりあえず座りましょう」
鈴は将高に座るように促した。
将高は顔を上げて、促されるままに座布団に腰を下ろした。
鈴も将高と向かい合うように座る。
将高の表情は暗かった。
「顔色が悪いが、大丈夫なのか? 体は…ツラくないか?」
「はい、大丈夫です。将高様こそ……顔色が良くないですよ」
「私は問題ない……。昨夜眠れなかっただけだ」
鈴は将高を見た。
顔には疲労の色が強く出ており、鈴には昨夜だけの問題には思えなかった。
将高はしばらくうつむいていたが、顔を上げてゆっくりと口を開いた。
「今はまだ力がなく何もできないが、必ず鈴を自由にするから……。もう少しだけ待っていてくれ。今、いろんな仕事をして金を稼いでいるから、元服したら身請けでもなんでもして必ず鈴をあそこから出す! だから……」
「身請け……?」
鈴は将高の言葉を待たずに呟いた。
鈴の言葉に将高はハッとしたように顔を赤らめる。
「あ、いや! 鈴が嫌なら私のところに来る必要はないんだ!そういう意味ではなく、鈴をただ自由にしたくて……」
鈴は静かにうつむいた。
二人のあいだに沈黙が流れる。
「もうやめて……」
鈴は畳を見つめたまま呟いた。
「……鈴?」
「もうやめて!」
鈴はうつむいたまま叫んだ。
将高は鈴が声を荒げるのを初めて見た。
「私のことはもういいんです! 放っておいてください!! もう……大丈夫ですから」
鈴は顔を上げて将高を見る。
涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。
「鈴……、私は……」
将高が鈴の手に触れようとすると、鈴がサッと身を引く。
傷ついたような将高の瞳に、鈴は思わず顔をそむけた。
「私は……もう将高様に触れるような人間ではないんです」
鈴はなんとかそれだけ口にした。
「鈴は……私は……」
将高はまっすぐに鈴を見て言った。
「……好きなんだ。鈴のことが……」
将高が絞り出すように言った。
鈴は言葉が出なかった。
(私には、そんなふうに言ってもらう資格はないのに……)
鈴は目を閉じ、意を決したように将高に背を向けた。
「将高様……」
鈴は背を向けたまま将高の名を呼ぶと、長い髪を前に流して着物の帯を解き始める。
「鈴、何を……!?」
襟元を開き、着物を腰までおろすと鈴の背中が露わになった。
背中には一面にただれた赤い斑点があった。
将高が息を飲む。
「……梅毒です」
鈴は振り向いて将高を見た。
「わかりましたか? これが今の私です」
美津にはまだ首元しか見られていなかったが、鈴の皮膚のただれはすでに背中一面に広がっていた。
鈴は目を閉じる。
「私は大丈夫ですから。もう私のことは忘れて自由になってください。将高様はこれからどのようにでも生きていけるのですから」
鈴はそう言うと、着物を羽織り直そうと襟元をつかんだ。
その瞬間、鈴は温かいものに包まれる。
将高に抱きしめられたのだと気づいたとき、鈴は思わず声をあげた。
「将高様!?」
将高は鈴の背中に頬をつけるように、鈴を抱きしめていた。
「や、やめてください! 私……汚いですから」
鈴が身をよじると将高は鈴をより強く抱きしめる。
「汚くなどない……。本当にすまない……。こんなに苦しめてしまって」
「あの、私は本当に大丈夫なので…」
「何が大丈夫なんだ?」
将高は鈴の言葉を遮り、顔を上げて鈴を見つめた。
「一体どこが大丈夫なんだ? 今も二年前も、まったく大丈夫ではないだろう? どのようにでも生きていけるなら、私は鈴と生きていきたい! ……鈴が嫌なら無理にとは言わないが、それでも鈴が自由に選んで生きていけるようにしたいんだ……」
将高の真剣な眼差しに、鈴の心が揺らぐ。
(やめて……。優しくしないで……)
鈴は顔をそむけた。
(助けてとすがってしまいたくなる……)
鈴はきつく目を閉じる。
鈴は今になって気づき始めていた。
鈴が菊乃屋にいるは、すべて鈴自身が選んだ道の結果だった。
最初から叔母に泣いてすがる道があった。
そもそも叔母は鈴が泣き喚いて許しを請う姿が見たかったのだと、鈴は最近になって気づいた。
それなのに鈴はすべてを受け入れるように何も言わず、ただ叔母に従った。
気を晴らすどころか、ただ子どもをいたぶっているような状態は、叔母を罪悪感でさらに苦しめていた可能性さえある。
女衒に鈴を引き渡すとき、最後に見せた叔母のためらった顔は今でも鈴の記憶に新しい。
(あれはきっと売らないでほしいと泣いて懇願することを望んでの行動だったんだ……)
鈴は自嘲的な笑みを浮かべる。
女衒に引き渡された後も、泣いてすがれば菊乃屋ではなく大見世に売られ、今よりは良い環境にいたかもしれない。
(幸せになる資格がないなんて言いながら、不幸になる覚悟なんてまったくできていなかった……)
鈴は涙とともに笑いがこみ上げてくるのを感じた。
(私はどこまで愚かなんだろう……。すべてを受け入れるふりをして、何ひとつ受け入れられていない。大丈夫と言いながら、何ひとつ大丈夫にできていない)
将高は鈴の様子を見て、抱きしめる腕に力を込めた。
「大丈夫だ。必ず私がなんとかするから……」
鈴は将高の腕にそっと触れる。
背中に感じる将高はとても温かかった。
鈴の視界が涙で歪む。
(どうあがいても、この人を不幸にしてしまうなら、このちっぽけな誇りなど捨てよう……。心のままに最後まで…。最後だけはちゃんと生きよう……)
鈴は将高の腕の中で声をあげて泣いた。
檜屋で将高と別れた後、鈴はしっかりとした足取りで菊乃屋に帰った。
涙が涸れるまで泣いたため、瞼が重く体にも疲労感があったが、不思議と心は晴れやかだった。
(いい天気だな……)
菊乃屋の入り口で鈴は空を見上げた。
(ちゃんと空を見たのはどれぐらいぶりだろう……)
澄み切った青を見ていると、自然と鈴の瞳に再び涙が滲んだ。
「どうした?音羽」
声がした方を見ると、菊乃屋の入り口が楼主が腕組みをして鈴を見ていた。
「なんでもありません」
鈴が微笑んで楼主の横を通り過ぎようとすると、楼主は鈴の腕をつかんだ。
「おまえ、いい面構えになったな。なんだ、間夫でもできたのか?」
鈴は楼主を見てにっこりと微笑む。
「そんなわけないじゃないですか。見世のお客だけで手一杯です」
「そうか?」
楼主は下卑た笑みを浮かべる。
「音羽、ちょっと俺の部屋に来い」
鈴の顔が引きつる。
「いえ……、そのもうすぐ夜見世なので準備しないと……」
楼主から笑顔が消え、鋭い眼差しが鈴を捉えていた。
「聞こえなかったのか?」
鈴の足が震え始める。
「あ、大丈夫です……けど、私は今梅毒にかかっているので……」
「大丈夫だ。俺はかかってもすぐ治るから」
楼主はそう言うと、鈴の手首をつかんで部屋に連れていく。
鈴の顔から血の気が引いた。
部屋に入ると、鈴はすぐに着物を脱がされた。
部屋の低い天井はいつもより暗く、目の前に迫ってくるようで鈴は思わず顔をそむけた。
楼主の着物が乱れ、左肩に入った刺青の不気味な鬼と目があった。
鬼は嘲笑うかのように、鈴をずっと見下ろしていた。
着物を直した楼主は上機嫌で鈴の頭をなでた。
「梅毒の発疹、広がってきてるからツラいだろ。大丈夫か?」
鈴は何も答えなかった。
「おまえにはまだまだ働いてもらわないといけないからなぁ」
楼主はそう言うと部屋の隅にあった箪笥の中から粉末の入った包み紙を取り出した。
「薬だ。これを飲めば少しはラクになるはずだ」
鈴は薬包紙を受け取りながら、困惑したように楼主を見た。
「いただいていいんですか……?」
「もちろんだ。遊女はみんな俺の家族だからな」
楼主はニヤリと笑ってそう言うと鈴に背を向けた。
「おまえも少し休んだら、夜見世の準備始めろよ」
楼主が部屋を出ていくと、鈴は手の中の薬包紙を見つめた。
鈴はうずくまり、薬包紙を強く握りしめる。
手の中で薬包紙がクシャリと小さな音を立てた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
吉原の出入り口である大門が閉まる頃、菊乃屋の裏口の戸を叩く音が響いた。
「俺だ」
男の声を確認すると、楼主が戸を開けた。
「ちょっと早いんじゃないか?」
楼主は顔をしかめた。
「もう表はほとんど誰も歩いちゃいねぇよ」
男は引いていた荷車を戸口の陰に隠した。
「最近多いんじゃないか? さすがに数が多いと怪しまれる」
楼主は片手で頭をかきながら、面倒くさそうに呟く。
「まぁ、そう言うなよ。金は払ってるだろ?」
楼主はため息をついた。
「仕方ねぇ。ちょうど始末したいのがあったから、帳尻は合うんだけどな」
楼主は荷車に近寄り、掛けてあった布を上げてのぞき込む。
そこには土気色の若い男が横たわっていた。
「おお、綺麗なもんだな」
楼主が感心する。
「死体に特徴が出ない毒で殺してるからな。綺麗なもんさ」
「いつも通り、お歯黒どぶでいいか?」
楼主は男を振り返って聞いた。
「ああ、でも女の準備はあるのか?」
「ちょうど片付けたい遊女がいるから、それと一緒に沈めとくよ。ただ、最近ちょっと数が多いからな……。怪しまれないようにせいぜい気をつけるよ」
楼主は肩をすくめた。
男はそんな楼主の様子を見て、不思議そうな顔をする。
「なんだ、おまえ今日はずいぶん機嫌が良さそうだな。いいことでもあったか?」
「まぁな、音羽とちょっとな」
楼主はおかしそうに笑った。
「音羽っておまえのとこの売れっ妓か。相当なべっぴんだけど、おまえ今まで興味なさそうだっただろ? 急にどうした?」
「ああ、お人形みたいでつまらなそうだったからなぁ。でも、なんか急に雰囲気が変わったんだよ。ありゃ、惚れた男でもできたんだろうよ」
楼主はニヤリと笑う。
「俺はさ、希望みたいなキラキラしたもんを濁らせて踏みにじるのが大好きなんだよ。そういう意味で今の音羽は最高だ」
楼主はぺろりと唇を舐める。
男はそんな楼主の様子にため息をついた。
「まぁ、ほどほどにしとけよ。じゃあ、俺はこれ置いていくから、後は頼んだぞ」
そう言うと男は背を向けると、片手をあげて去っていった。
楼主は男が去ると、菊乃屋の一番奥にある行灯部屋に向かう。
「さてと……」
楼主は行燈部屋の戸を開けた。
中は暗く、楼主の影だけが部屋に伸びている。
「……く…すり……」
暗闇の中で女の声が響く。
「く…すり……、薬をください……」
楼主は暗闇に向かって、優しく微笑む。
「ああ、今ラクにしてやるからな」
楼主は部屋に入ると、行燈部屋の戸が静かに閉まった。
「おや、おまえから訪ねてくるなんて珍しいな」
薬の調合をしていた良庵は長屋の戸を開けた信を見て、顔を上げた。
「先生に聞きたいことがあってきた」
信は相変わらずの無表情だった。
「入ってもいいか?」
「ああ、上がってちょっと待ってな」
良庵はゆっくりと立ち上がると、調合していた薬を慎重に棚の上に置いた。
長い時間同じ姿勢で作業していたせいか、良庵は腰に痛みを感じた。
(もう年だな……)
良庵は江戸では有名な医者だが、五十を過ぎて往診を少しずつ減らしており、長屋で薬の調合をして過ごすことが増えていた。
「それで、聞きたいことっていうのは?」
良庵は信に座布団を出しながら聞いた。
「これが何か教えてほしい」
信は座布団に腰下ろし、良庵に薬包紙を渡す。
「薬か?」
良庵は包みを開いて中を確認した。
中には黒くきめ細かい粉が入っている。
良庵は慎重に粉をつまむと、指先ですりつぶしながら匂いを嗅いだ。
「これは、おまえも知ってるだろう? どこで手に入れたんだ? 江戸でそんなに出回ってるもんじゃないぞ」
良庵は不思議そうな顔で信を見る。
「ああ、このあいだ先生に言われて舐めたやつだ。味は覚えているが、これが何かわからないから来た。これは何の薬なんだ?」
「ああ、そうか。薬の名前とか効果は教えてなかったか」
良庵は納得したように口を開く。
「これは阿片だ。ケシから精製したもので……なんてことはいいか。まぁ、鎮痛剤だな、痛みを感じなくする効果がある」
「鎮痛剤……」
信は黒い粉を見つめる。
「こんなもの一体どこで手に入れたんだ? 原料のケシ自体、栽培してる地域が限られてるから、江戸ではほとんど出回ってないはずだぞ」
「吉原の遊郭だ。そこで体調の悪い遊女に配ってるらしい」
「遊郭で? 配ってる?」
良庵は眉をひそめた。
「そりゃあ……ちょっと質が悪ぃな……」
「どうしてだ?」
「まぁ、薬なんてもんはみんなそうだが、阿片に関しては特に中毒性が高いからなぁ。考えてもみろ、痛みがパッと消える奇跡の粉だぞ。病気や傷が治ったみたいに感じるだろうし、依存もするだろう……。薬が切れて狂ったみたいになった人間もいたって聞くしな……。基本的には常用できるほど量が出回ってないから問題になってないが、その遊郭では配ってるんだろう? 誰が配ってるかしらねぇが、そのうち薬をくれるやつの言うことならなんでも聞くようになるぞ。そういう使い方だとしたら相当質が悪い……」
良庵は顔をしかめた。
「そうか。わかった」
信はそう言うと立ち上がった。
「なんだ、もう帰るのか?」
「ああ、行くところがある」
「そうか。……これは、咲耶からの頼まれごとなのか?」
良庵は気になったことを聞いた。
「ああ」
「よくやるなぁ、おまえは」
良庵は笑う。
「ただ……」
信はそう言うと良庵を振り返った。
「俺の用事にもなった」
信の瞳の奥に妖しい光を見た気がして、良庵はぞくりと体を震わせた。
それだけ言うと信は長屋を出ていった。
「まったく……」
良庵は頭を搔きながら、ため息をついた。
良庵は信についてほとんど何も知らなかった。
知っているのは一年前、死にかけたところを咲耶に助けられたことだけだ。
咲耶に呼ばれて、玉屋の行燈部屋で信を治療したのが、まるで昨日のことのようだった。
死んでいないのが不思議なほど全身はズタズタに切り裂かれおり、それとは別に治りきっても消えないほど深い古傷が至るところにあった。
骨が折れても放置していたのか、骨が不自然な形につながっている箇所も多くあったほどだ。
(薬への耐性といい、一体どんな生き方してきたらあんなふうになるのかねぇ……)
良庵はため息をついた。
良庵にとっては心が読めるような咲耶も、過去に何をしてきたかわからない信も、得体の知れない化け物のような存在だった。
(まぁ、どっちも俺にとって利は多い存在だが……。それ以外のところは、触らぬ化け物に祟りなしだな……)
良庵は再び棚から調合中の薬を下ろし、余計なことを頭から消し去って薬づくりに集中することにした。
「また心中だって……」
「でも、鞠姐さんに間夫なんていた?」
「いないでしょ。ずっと行燈部屋にいて、いつ間夫なんて作るのよ」
「じゃあ、やっぱり……」
張見世の中で遊女たちがひそひそと言葉を交わす。
今朝早くに菊乃屋の遊女、鞠の遺体がお歯黒どぶで見つかってから、見世の中は騒然としていた。
間夫と思われる男と縄で手首をつないだ状態で見つかったため心中とみられていた。
「ねぇ、鈴はどう思う?」
美津は鈴の方を見て聞いた。
「ちょっと多すぎるよね……」
最近、菊乃屋の遊女の身投げや心中が続いていた。
亡くなった遊女は皆、病を患っていたり、素行が悪かったりした者だったため、逃げ出そうとして亡くなった可能性はあったが、それでも数が多かった。
「なんだか怖いね……」
美津は不安げな顔でうつむいた。
鈴はそんな美津の背中を優しくなでる。
「蜜葉、客だ」
男衆が美津を呼んだ。
美津はため息をついて立ち上がる。
「ちょっと行ってくるね」
美津は鈴にそう言うと張見世を出ていった。
鈴は自分の手の甲を見つめる。
赤い発疹が手の甲にまで広がっていた。
鈴は苦笑する。
梅毒は治るどころか悪化の一途をたどっていた。
体には硬いしこりのようなものもある。
(私ももうダメなのかな……)
心のままに生きようと決めてから、将高と鈴は定期的に裏茶屋で会っていた。
ここ一年、楼主との関係はあるものの鈴の心は不思議と満ち足りていた。
将高に会えると思えば、目が覚めて同じような朝が来ることも悪くないと思えた。
(あと三日で会える……)
鈴は乾いた咳をした。
梅毒よりも鈴にはひどくなってきた胸の痛みの方が問題だった。
鈴は楼主からもらった薬包紙を取り出して飲む。
楼主からもらった薬は不思議なほどよく効いた。
鈴はそれほど薬を飲んでいなかったため、楼主から定期的にもらう薬はまだたくさんある。
楼主のことは快く思っていなかったが、薬に関してだけは鈴は楼主に感謝していた。
(まぁ、それもいつまで続くかわからないけど……)
広がった発疹に加えて、咳がひどくなるにつれて、鈴の客は少しずつ減っていた。
楼主が鈴に優しいのは、鈴の稼ぐ金額が大きいためだった。
客がとれなくなれば、あっさり切り捨てられるのは簡単に予想できる。
鈴はため息をついて、目の前に広がる格子越しに空を見た。
(今さら自由に焦がれるなんて、本当に愚かだ……)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「一緒に逃げないか?」
将高は真剣な顔で口を開いた。
「最近、咳もひどい……。私の元服まで待っていたら鈴が……。ちゃんと治療してもらおう」
鈴は微笑んで首を振った。
「見世からは逃げられないから……」
(それにおそらく私は……)
鈴は静かに目を閉じた。
将高とは会うたびに何気ない日常の話しをしていた。
一緒に過ごした屋敷での思い出話や菊乃屋の美津のことなど、他愛もない話ばかりだったが、その時間がどうしようもなく鈴には愛おしかった。
将高の気遣うような言葉に鈴は目が潤むのを必死で隠す。
「しかし……」
将高は心配そうに鈴を見る。
「今のままで十分だよ」
鈴は将高を見つめて微笑む。
鈴の本心だった。
将高が諦めたように肩を落とす。
将高に声をかけようと口を開いた瞬間、鈴が咳き込んだ。
「鈴!」
駆け寄ろうとした将高を鈴が手を伸ばして止める。
梅毒も、咳の原因の病も、将高には絶対にうつしたくなかった。
「……すぐ……お、…おさまるから……」
こんな状態でも将高に会い続けているのは、人生最期のわがままのつもりだった。
(どうか最期くらい許してください……)
「鈴……」
鈴は呼吸を整える。
「今日は……もうそろそろ帰るね……」
鈴は将高を安心させるように微笑む。
「本当に……大丈夫か?」
将高が不安げに鈴を見る。
鈴は立ち上がると将高を見て笑った。
「将高……、愛してる!」
将高の頬がサッと赤く染まる。
鈴はそんな将高を見て、いたずらっぽく微笑むと手を振って部屋から出ていった。
菊乃屋に戻ると、鈴は夜見世の準備を始めた。
鏡の前で、鈴は自分の顔を見つめる。
顔色は以前よりずっと悪くなってしまったが、顔つきは今の方がずっといい気がした。
鏡に向かって微笑んだ瞬間、鈴は激しく咳き込んだ。
(胸が痛い……)
咳はなかなか治まらなかった。
何かがこみ上げてきて、鈴は口を手で覆う。
ゴボッという音とともに、鈴の口から何かこぼれた。
苦しい中で恐る恐る目を開けると、手のひらは血で真っ赤に染まっていた。
「あ~あ、おまえもう壊れちゃったの?」
鈴がハッとして顔をあげると、鏡ごしに楼主と目が合った。
慌てて振り返ると、楼主はおかしそうに笑う。
「梅毒なうえに労咳ねぇ。さすがにもう、うちじゃ無理かなぁ」
楼主は頭を掻きながら、鈴の目の前でしゃがみ込んだ。
「でも、安心しな。おまえならまだいけるよ! 何、心配するな! 俺の大事な家族のためだ。俺に任せておけ」
楼主は鈴の顔をのぞき込んで言った。
「だからおまえも家族のために、最期まで頑張れよ」
楼主の冷めきった瞳に、鈴は血の気が引いていくのを感じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
次の約束の日、将高は裏茶屋にいた。
窓の外を見ると、すでに日が暮れ始めている。
(鈴に何かあったんだろうか……)
将高は日が沈むまで待ったが、鈴はとうとうやって来なかった。
美津は張見世で格子越しに見覚えのある男を見つけた。
(あれは前に鈴の名を呼んでいた男か?)
男は元服したのか以前見かけたときと違い、髷を結っており雰囲気は変わっていたが、確かにあのときの男だと美津は思った。
男はゆっくりとした足取りで張見世の中を端から端まで見て歩いている。
(鈴を探しているのか?)
美津は目を伏せた。
鈴が菊乃屋からいなくなって、すでに一年近く経っていた。
鈴のことで楼主に反抗した美津は、それから仕置きとして行燈部屋に入れられ、その後体調も崩していたため、張見世に出始めたのはつい最近のことだった。
(ずっと鈴を探していたんだろうか……)
美津は再び男を見た。
男の顔には暗い影が差している。
美津は周囲に男衆がいないことを確認すると、格子の外に腕を伸ばした。
「お兄さん、ちょっと寄っていってよ」
美津は男に声をかける。
男はそれに気づき、近づいてきた。
美津は男が手の届く距離まで来るのを待ってから、男の着物の裾をつかむと力いっぱいに引いた。
男は体勢を崩して、格子に顔を打ちつける。
美津はそんな男の耳元に顔を寄せた。
「鈴は、もうここにはいないよ」
周囲に気を配りながら、美津が呟く。
男は目を見開いた。
「どういうことだ!?」
声を大きくした男を、美津が人差し指を立てて止める。
「鈴は間夫と逃げようとしたってことにされて、切見世に売られたの」
美津は声をひそめて早口で話す。
「何を!? 鈴は逃げようとなんて……」
男が言葉を失う。
「けど、実際はそうじゃなくて、労咳がひどくなったから最後に儲けるために楼主に売られたの。うちではもう見世に出るのは無理だけど、鈴は綺麗だし切見世ならまだまだ客がつくから……」
美津の目に涙が溢れた。
「お願い! 鈴を探して! 私も探してるんだけど、見つけられないの……」
そこまで言うと、美津は男衆が近づいてきているのに気づき、男に商売用の笑顔を向けた。
「お目当ての子がいるなら仕方ないね。じゃあね、お兄さん」
男は美津の意図に気づいたのか軽く頷くと張見世の前から去っていった。
「頼んだよ……」
美津は男の背に向かって小さく呟いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
美津と話した将高はその足で、吉原の端にある切見世に向かった。
(鈴が切見世に売られているなんて……)
将高は怒りに震えていた。
裏茶屋に現れなくなってから一年近く、将高は鈴を探し続けていた。
元服もしていない身では菊乃屋のほかの遊女に声をかけることもままならなかったため、ひたすら菊乃屋に足を運んだ。
何度足を運んでも張見世に鈴の姿がなかったため、鈴は病が悪化して療養しているのだと将高は考え始めていた。
今日、元服して初めて菊乃屋を訪れ、ようやくほかの遊女から話しが聞けると思った矢先、美津に引き止められたのだ。
(私は呑気に一年も一体何をしていたんだ!)
将高は自分の愚かさに舌打ちをした。
切見世の長屋に着くと、将高は辺り一体を見渡した。
切見世とひと言で言っても、その数は多い。
長屋の戸を一つひとつ確認して回るわけにもいかず、将高は途方に暮れていた。
すると、ひとつの戸が乱暴に開け放たれ、中から男が飛び出してきた。
「なんだおまえ! それ労咳だろ!? ふざけやがって……」
男は中に向かって怒鳴ると、足早に去っていった。
将高はゆっくりと開け放たれた戸に近づく。
薄暗い部屋の中で頭巾を被った女が激しく咳き込んでいるのが見えた。
女がいる布団は血で赤く染まっている。
女が咳き込みながら口元まで覆っていた頭巾を外す。
将高は息を飲んだ。
「鈴……」
頬は腫瘍で赤く腫れ上がっていたが、確かに鈴だった。
将高はおぼつかない足で、戸口から中に入った。
「……鈴?」
鈴は弾かれたように将高の方を見た。
「将高……」
鈴の瞳が見開かれ、同時に顔が歪んでいく。
「どうして……ここに……」
将高は赤く染まった布団を見た。
吐き出された血の量や梅毒の進行を見れば、将高にも鈴がもう長く生きられないとはっきりわかった。
(どうして鈴がこんな目に遭わないといけないんだ……)
将高の瞳に涙が溢れた。
ふらふらと将高は鈴に近づく。
鈴の体は今にも折れそうなほど痩せてしまっていた。
(何もできなかった……。最初から私がもっとしっかりしていれば……)
将高は鈴の横に座ると、ゆっくりと鈴を抱きしめた。
見た目以上に細くなっている鈴の体に、将高の腕が震える。
将高は壊れものに触れるように優しく鈴を包む。
「将高……うつるから……」
鈴のか細い声が将高の耳に響く。
「鈴……、一緒に死のうか……?」
鈴の体がビクリと震えた。
将高は体を離すと、鈴の目を見つめた。
鈴の瞳は大きく見開かれていた。
「すべて片付けてくるから……、四日後……一緒に死のう。もう二度とひとりにしないから……」
鈴の唇がわずかに動く。
「将高……」
涙を流し続ける将高の目を見つめながら、鈴はそれ以上何も言えなかった。
吉原の大門が閉まる少し前、信は吉原に入った。
信が向かったのは玉屋でも菊乃屋でもなく、吉原の端にある切見世の長屋だった。
いつもは賑っている吉原も、大門がまもなく閉まる時間とあって人影は少ない。
信は切見世のひとつの戸の前で足を止めた。
中からは激しく咳き込む音が聞こえている。
信は静かに戸を開けて中に入った。
座敷の奥で布団に横たわる人影が気配を感じて息を止めたのがわかる。
「あの……、今日は…もう休ませていただいていて……」
息を整えながら、女が言った。
「鈴か?」
信が戸口に立ったまま聞いた。
鈴はゆっくりと体を起こす。
「どなた……ですか?」
「おまえの兄が探している」
「お兄様が!?」
鈴は声を大きくした途端にまた激しく咳き込んだ。
「大丈夫か?」
信は鈴に近づいて、横にしゃがみこむ。
「は……はい……」
鈴は顔を上げる。
鈴の左頬は腫瘍によって赤く盛り上がっていた。
口元と手のひらは血で染まっている。
「お見苦しいところを……お見せして……」
鈴は力なく微笑み、枕元にあった布で手のひらと口元の血を拭った。
「見苦しくない。大丈夫か?」
鈴は信を見て微笑むと首を縦に振った。
「とりあえず、ここを出るぞ」
信が立ち上がる。
「ここをですか? ……私はまだここで働かないと……」
鈴は目を伏せる。
信はただ静かに鈴を見ていた。
「いいのか?」
信は抑揚のない声で聞く。
「おまえ、もうすぐ死ぬぞ。悔いはないのか?」
鈴は弾かれたように顔を上げた。
唇をかみしめて信を見る。
「……行くか?」
信は手を差し出した。
鈴はしばらくためらった後、そっと信の手を取った。
ゆっくりと立ち上がると信に手を引かれて長屋の外に出た。
「あ、待って」
鈴は足を止める。
「あの明日、私に会いに人が来ることになっていて……」
「ああ、美津という女から聞いている。明日俺から説明しておく」
鈴は目を見開く。
「美津に会ったんですか? 美津は……元気でしたか?」
鈴は縋るように信を見た。
「ああ、おまえよりはだいぶ元気そうだった」
信は淡々と答えた。
鈴は少し笑う。
「そうですか。よかった……」
信は長屋の裏に置いてあった荷車を持ってくると、荷台を指して鈴に横になるように言った。
鈴はためらいながら、荷台に横たわる。
「あの……これはもしかして……」
信は何も言わず上からゴザのようなものをかけた。
「あ、やっぱり……」
「おい! そこで何してる!?」
男が声を荒げて信に近づく。
「なんだこれは!?」
男は荷車を指差して言った。
「あそこの女が死んだんで、投げ込み寺に捨ててこようかと」
信はいつも通りの口調で答える。
男が少したじろぐ。
「おまえ……、よくそんな淡々と……」
「見ますか?」
信が鈴にかかったコモをめくろうとする。
「いや! いいよ! 見たくはない!!」
男が全力で止める。
「もうすぐ死ぬだろうとは思ってたし、捨ててきてくれるなら有難い……。もう行っていいぞ!」
信は頭を下げると荷車を引いて大門に向かう。
大門に着くと信は門番に止められた。
「その荷はなんだ?」
門番は怪訝な顔で荷台を見る。
「遊女が労咳で死んだので、投げ込み寺に捨ててくるように言われました」
門番はコモをめくる。
そこには着物や口元を血で汚し、髪を振り乱した土気色の顔の女が横たわっていた。その頬は腫瘍で赤く腫れ上がっている。
「こりゃ、ひどいな……」
門番は顔をしかめ、コモを元に戻すと、荷台に向かって手を合わせた。
「行っていいぞ」
信は頭を下げると荷車を引き、大門を出た。
吉原を出てしばらく進むと、鈴がコモをどけて顔を出した。
「こんなに簡単に出られるなんて……」
鈴は天を見たまま呟いた。
「おまえ、上手いな。本当に死んだかと思った」
鈴はふふっと笑う。
「本当に死にかけてますからね。咳き込んで血が出てたので、ちょうどよかったです」
「そうか」
信はそれだけ口にした。
「生きて……大門を出られるとは思っていなかったです」
「そうか」
「ああ……、風が気持ちいい……。あ、朧月……。明日は雨でしょうか?」
信も空を見上げた。
そこには雲ひとつかかっていない綺麗な満月があったが、信は何も言わなかった。
「綺麗……」
鈴の瞳からこぼれた一筋の光が、そっと荷台を濡らした。
「え……何それ?」
真夜中に叩き起こされた良庵は、戸口で信に問いかける。
視線の先にはコモが被せられた荷車があった。
「患者だ」
「え……死体だろ、それ……?」
「夜遅くに……すみません……」
どこからともなく女の声が聞こえ、良庵は辺りを見回す。
するとコモが捲れ、荷車の上で女がゆっくりと体を起こした。
着物は血で汚れ、髪は乱れ、頬を赤く腫れ上がらせた女は、申し訳なさそうに微笑んだ。
薄暗い夜道でその風貌に浮かんだ笑顔は、良庵にとって恐怖でしかなかった。
「ひぃ!!」
良庵が尻餅をついた。
「あ、すみません! 不用意に……声をかけない方がよかったですよね……」
女の慌てた声が聞こえた。
良庵は腰をさすりながら立ち上がると、もう一度そっと荷台を見る。
「何……生きてるの?」
「はい……、まだ生きてます……」
鈴は申し訳なさそうに微笑んだ。
良庵は信に視線を移すと、ため息をついて頭を掻いた。
「とりあえず、入れ。目立つから……」
良庵がそう言って促すと、信は鈴に肩を貸して長屋の中に入った。
良庵が敷いた布団の上に信が鈴を寝かせると、良庵は視線で信を呼んだ。
良庵と信は戸口まで移動する。
「おいおい、誰なんだよ、あれ! 俺は厄介ごとは御免だぞ! それに患者って、ありゃもう……いつ死んでもおかしくないだろ! 治療なんてできる段階じゃねぇよ」
良庵は声をひそめながら言った。
そのうちに死体になるだろう見ず知らずの女を置いていかれるなど冗談でも嫌だった。
信は表情を変えずに、懐に手を入れる。
「なんだ、金か? 金なんかいらねぇから、早く女を……」
良庵が言い終える前に、信が懐から手紙を出して差し出す。
「先生がそう言ったら渡せと、咲耶が」
良庵は怪訝な顔をしながら手紙を受け取ると読み始める。
しばらく文字を目で追っていた良庵は、しだいに自分の手が震え始めるを感じた。
(あり得ない! あの薬の葉が手に入ったって!? どれだけ手を回しても無理だった薬なのに……。しかもタダでくれる!? 条件は…………)
目を見開いて手紙を読んでいた良庵は、読み終えると静かに手紙を閉じた。
良庵は先ほどとは打って変わった爽やかな笑顔で信を見る。
「患者を診るのは医者の当然の仕事だ。喜んで受け入れるよ。信は疲れただろ? 茶でも飲んでいくか?」
「いや、俺は大丈夫だ。ありがとう」
「そうか。じゃあ、俺は女を診察してくる」
良庵はそう言うと軽い足取りで女の方へ歩いていった。
鈴は良庵が近づいてくる気配を感じて、布団から体を起こした。
「ごめんなさい……。ご迷惑を…おかけしてしまって……」
「ツラいだろ? 寝たままでいい。ちょっと具合だけ診させてくれ」
鈴は言われたとおり、再び布団に横になる。
「ありがとうございます……。ただ、私はもう……。今もこれがなかったらたぶん…話せる状態でもないと思うので……」
鈴はそう言うと胸元から薬包紙を取り出した。
(ああ……、そういうことか)
良庵は薬を見て、今の鈴の状態もおおよその事情も理解した。
(信が言ってた遊郭の件ね……)
良庵は静かに息を吐いた。
「あの……ご迷惑だと思うので、治療は必要ありません……。ただ少しだけ置いておいてもらえれば……。もうすぐ死ぬのは……わかっているので……」
良庵は鈴を見つめる。
良庵も人並に人間の情は持ち合わせているつもりだった。
再び息を吐いた後、良庵は鈴の乱れた髪をそっとなでる。
「……人間はみんないつか死ぬんだ。最後は死ぬのに、なんで医者なんてものが存在すると思う?」
鈴は不思議そうに良庵の顔を見つめた。
「最期の最後までちゃんと生きるためだよ。まだ会いたい奴や話したいことがあるんじゃないのか? あんまりお上品に生きてると最後に後悔するぞ。人間なら泥臭くても足掻いて生きて、薄汚くても笑って死にな」
鈴の見開かれた瞳にみるみる涙が溢れていく。
鈴は涙をこぼさないように歯を食いしばって頷いた。
「はい……!」
(あ~あ、本当にガラにもねぇ……)
良庵は頭を掻きながら、鈴の診察を始めた。
(まぁ、人生の最期に見るのが見ず知らずの薄汚いおっさんじゃ可哀そう過ぎるからな……。時間稼ぎくらいはしてやるよ……)
信はそんな二人の様子を眺めていたが、しばらくすると二人に気づかれないようにそっと長屋を後にした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
明け方、咲耶は客を大門まで見送っていた。
客に小さく手を振っていた咲耶は、客の姿が見えなくなると手を止め微笑みを消した。
「間に合ったか?」
咲耶は前を向いたままひとり呟く。
「ああ」
大門の影で信が答えた。
「そうか……」
咲耶はそっと息を吐いた。
「今は良庵が診ているのか?」
「ああ。ただ、いつまでもつかはわからない」
「……そうか」
咲耶は目を伏せた。
(約束の日が早まったのはよかったかもしれないな……)
「今日の昼……もし会えたらあいつも連れてきてくれ」
「わかった」
咲耶は信の返事を聞くと、身をひるがえして玉屋に戻っていった。
長屋の戸口にひとりの男が立ち尽くしていた。
昨夜まで鈴のいた長屋だった。
信はゆっくりと男に近づき声をかける。
「鈴を探しているのか?」
男がゆっくりと振り返った。
「……あなたは?」
鈴ほどではなかったが、男の顔色はひどく悪かった。
「一緒に死ぬつもりだったのか?」
信は男の問いかけに答えず聞いた。
男の目が見開かれる。
「どうして、それを……?」
「美津という女に聞いた」
「彼女から……?」
男は戸惑った表情を浮かべる。
「おまえは鈴の恋人なんだろう?」
「恋人……と呼べるかどうか……」
「鈴のために一緒に死のうとしたんだろう?」
将高は悲しげに微笑んだ。
「……自分のためです……。鈴を亡くして生きていく自信がなかったから……」
「そうか」
信は淡々と言った。
「生きるのも死ぬのも好きにしたらいい。ただ、鈴はまだ生きたいようだったぞ」
将高は弾かれたように顔をあげる。
「鈴は今どこにいるんですか? ……亡くなったんですか?」
将高は顔を歪める。
「まだ生きている。鈴のところに案内するから一緒に来てくれ」
信は将高に背を向けて歩き出す。
「ただ、その前に寄るところがある」
将高はとまどいながらも鈴に会うため、何も聞かず信の後を追った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
叡正は緑に案内され、咲耶の部屋に足を踏み入れた。
案内を終えた緑は、一礼して部屋を出ていく。
咲耶は窓辺に腰かけて、窓の外を見ていた。
まだ見世に出るのに時間があるためか、咲耶は長い髪を軽く後ろで束ね、長襦袢を着ていた。
「ああ、来たか」
咲耶は視線だけ叡正の方に向けて言った。
「もう少しだけ待ってくれ。……もう少しで役者が揃う」
咲耶は視線で叡正に座るように促した。
「妹は……妹は生きているのか……?」
緊張のせいか叡正の声がかすれる。
咲耶はゆっくりと立ち上がると、叡正の前に腰を下ろした。
「ああ、まだ生きている」
「……まだ?」
かすれる声で叡正が聞いた。
咲耶は少し困ったように目を伏せる。
「……生きてはいるんだな……。……会えるのか?」
叡正はすがるように咲耶を見た。
「ああ、これから案内する。詳しくは今から来る男に聞いてくれ」
「男……? 誰が来るんだ?」
咲耶は悲しげに微笑む。
「おまえがいないあいだ、妹を支え続けた恩人だ……」
咲耶がそう告げるのと同時に、咲耶の部屋の襖が開いた。
「来たか」
咲耶が小さく呟く。
そこには薄茶色の髪をした男と髷を結った若い男が立っていた。
髷を結った男は叡正の姿を見つけると、目を大きく見開く。
「永世様……?」
叡正は名を呼ばれ、髷を結った男を見つめ返した。
「……将高……なのか?」
叡正の家が取り潰しになる前に、たまに屋敷に遊びに来ていた可愛らしい少年の顔と、目の前の男の顔が重なった。
「永世様……」
将高の顔はみるみる青ざめていく。
「永世様……、誠に……誠に申し訳ありません!」
将高は崩れるように叡正の前に膝をつくと、頭を座敷にすりつけた。
「お、おい……」
訳がわからない叡正は、顔をあげてもらおうと将高の肩に手をかけた。
「鈴を守れず、誠に申し訳ありません……。母上がしたことも……私がしようとしたことも許されないことだとわかっています……。本当に、本当に申し訳ありません……」
将高は涙で声を詰まらせながら言った。
叡正はその姿に何も言えず、ただ将高を見つめる。
「将高といったか……」
落ち着いた声で咲耶が名を呼ぶと、将高は少し顔をあげた。
「こいつはまだ何も知らないんだ。妹の七年間のこと教えてやってくれ」
将高はハッとしたように叡正を見る。
将高は涙を着物の袖で拭うと、今度は真っすぐに叡正を見た。
「わかりました。私の知る範囲のことになりますが、すべてお話しします」
叡正はただ静かに将高の話しを聞いていた。
(将高は何も悪くない……。むしろ悪いのは七年も何も気づかなかった俺だ……)
将高の話しを聞き終えた叡正は、自分への怒りで震えていた。
「おい」
静まり返った部屋に咲耶の声が響く。
「後悔はあとにしろ。妹はまだ生きてるんだ。今できることをちゃんとしろ。時間はあまりないぞ」
咲耶はそう言うと信に視線を移した。
信は静かに頷くと、座り込んでいる叡正と将高の腕をとる。
「行くぞ」
信はそれだけ言うと部屋を出ていった。
将高と叡正はなんとか立ち上がると信の後を追う。
(そうだ……まだ生きている……)
叡正は顔を上げ、今度こそしっかりとした足取りで信の背中を追った。