「おや、おまえから訪ねてくるなんて珍しいな」
 薬の調合をしていた良庵は長屋の戸を開けた信を見て、顔を上げた。
「先生に聞きたいことがあってきた」
 信は相変わらずの無表情だった。
「入ってもいいか?」
「ああ、上がってちょっと待ってな」
 良庵はゆっくりと立ち上がると、調合していた薬を慎重に棚の上に置いた。
 長い時間同じ姿勢で作業していたせいか、良庵は腰に痛みを感じた。
(もう年だな……)
 良庵は江戸では有名な医者だが、五十を過ぎて往診を少しずつ減らしており、長屋で薬の調合をして過ごすことが増えていた。

「それで、聞きたいことっていうのは?」
 良庵は信に座布団を出しながら聞いた。
「これが何か教えてほしい」
 信は座布団に腰下ろし、良庵に薬包紙を渡す。
「薬か?」
 良庵は包みを開いて中を確認した。
 中には黒くきめ細かい粉が入っている。
 良庵は慎重に粉をつまむと、指先ですりつぶしながら匂いを嗅いだ。
「これは、おまえも知ってるだろう? どこで手に入れたんだ? 江戸でそんなに出回ってるもんじゃないぞ」
 良庵は不思議そうな顔で信を見る。
「ああ、このあいだ先生に言われて舐めたやつだ。味は覚えているが、これが何かわからないから来た。これは何の薬なんだ?」
「ああ、そうか。薬の名前とか効果は教えてなかったか」
 良庵は納得したように口を開く。
「これは阿片(あへん)だ。ケシから精製したもので……なんてことはいいか。まぁ、鎮痛剤だな、痛みを感じなくする効果がある」
「鎮痛剤……」
 信は黒い粉を見つめる。
「こんなもの一体どこで手に入れたんだ? 原料のケシ自体、栽培してる地域が限られてるから、江戸ではほとんど出回ってないはずだぞ」
「吉原の遊郭だ。そこで体調の悪い遊女に配ってるらしい」
「遊郭で? 配ってる?」
 良庵は眉をひそめた。
「そりゃあ……ちょっと(たち)が悪ぃな……」
「どうしてだ?」
「まぁ、薬なんてもんはみんなそうだが、阿片に関しては特に中毒性が高いからなぁ。考えてもみろ、痛みがパッと消える奇跡の粉だぞ。病気や傷が治ったみたいに感じるだろうし、依存もするだろう……。薬が切れて狂ったみたいになった人間もいたって聞くしな……。基本的には常用できるほど量が出回ってないから問題になってないが、その遊郭では配ってるんだろう? 誰が配ってるかしらねぇが、そのうち薬をくれるやつの言うことならなんでも聞くようになるぞ。そういう使い方だとしたら相当質が悪い……」
 良庵は顔をしかめた。
「そうか。わかった」
 信はそう言うと立ち上がった。
「なんだ、もう帰るのか?」
「ああ、行くところがある」
「そうか。……これは、咲耶からの頼まれごとなのか?」
 良庵は気になったことを聞いた。
「ああ」
「よくやるなぁ、おまえは」
 良庵は笑う。

「ただ……」
 信はそう言うと良庵を振り返った。
「俺の用事にもなった」
 信の瞳の奥に妖しい光を見た気がして、良庵はぞくりと体を震わせた。
 それだけ言うと信は長屋を出ていった。

「まったく……」
 良庵は頭を搔きながら、ため息をついた。
 良庵は信についてほとんど何も知らなかった。
 知っているのは一年前、死にかけたところを咲耶に助けられたことだけだ。
 咲耶に呼ばれて、玉屋の行燈部屋で信を治療したのが、まるで昨日のことのようだった。
 死んでいないのが不思議なほど全身はズタズタに切り裂かれおり、それとは別に治りきっても消えないほど深い古傷が至るところにあった。
 骨が折れても放置していたのか、骨が不自然な形につながっている箇所も多くあったほどだ。
(薬への耐性といい、一体どんな生き方してきたらあんなふうになるのかねぇ……)
 良庵はため息をついた。
 良庵にとっては心が読めるような咲耶も、過去に何をしてきたかわからない信も、得体の知れない化け物のような存在だった。
(まぁ、どっちも俺にとって利は多い存在だが……。それ以外のところは、触らぬ化け物に祟りなしだな……)
 良庵は再び棚から調合中の薬を下ろし、余計なことを頭から消し去って薬づくりに集中することにした。