「まさかとは思うが……皿屋敷の一件、何かしようなどと考えていないだろうな?」
 座敷で頼一の酒杯に酒を注いでいた咲耶は、頼一の言葉にピタリと動きを止めた。
「皿屋敷……とは何のことでしょうか?」
 咲耶は酒杯を膳に置くと頼一を見つめ、不思議そうに首を傾げてみせた。
 しかし、このような誤魔化しが頼一に通用しないことは咲耶にもわかっていた。

 頼一は目を閉じると、小さく息を吐いた。
「やはりか……。弥吉が出入りしているからか?」
 頼一はゆっくりと目を開けると咲耶を見つめた。

(さすが頼一様……)
 咲耶は困ったように微笑むことしかできなかった。
(ここは正直に話した方がいいだろうな……)

 咲耶は頼一を見つめ、口を開いた。
「その……私には何もできませんが……、弥吉が出入りしていたという噂を聞いて、気にはなっておりました。皿屋敷……と呼んでいいかわかりませんが、井戸から死体が見つかったと聞きましたし、弥吉が何か巻き込まれてしまわないかと心配で……」
 咲耶は目を伏せた。
 これは正直な気持ちだった。

 頼一は咲耶を見つめた後、小さくため息をついた。
「……何もできないという部分を言葉通りに受け取るつもりはないが……、心配しているのは事実なんだろうな」
「すべて事実です」
 咲耶は苦笑した。

 頼一は横目でチラリと咲耶を見ると微笑んだ。
「橘家の一件、私が何も知らないとでも?」
 咲耶はわずかに目を見張った。

 頼一は咲耶の顔は見ずに、酒杯に口をつける。
「怪しげな暗号の手紙を門倉に見せられただろう? 本物は咲耶が預かっていると聞いたが、門倉に手紙の内容を写したものを見せてもらった。字変四十八だろう? おまえなら読めたはずだ。その後、橘家から一人の奉公人が消え、咲耶のいた茶屋には火がつけられ、その日のうちに橘家の当主が殺された」

 咲耶は静かに目を閉じると息を吐いた。
「……頼一様は、すべてお見通しというわけですね」
 咲耶の言葉に、頼一は肩をすくめる。
「お見通しとは何のことだ? 私は知っていることをただ順を追って話しただけだ。何も知らないわけではないが、これ以上、考えるつもりもない」

 咲耶は目を開けると、頼一を見つめた。
(追求する気はない……ということか……)

「ただし……」
 頼一はそう言うと真っ直ぐに咲耶を見た。
「おまえが危険な場所に足を踏み入れるのを、黙って見ている気はもうない。このあいだの件で、私は懲りたんだよ……」
 そう言うと苦笑した。

「頼一様……」
 頼一の真剣な眼差しに、咲耶は思わず目を伏せた。

「まぁ、今回の件はおまえに危害が及ぶことはないだろうがな……」
 頼一は酒杯を見つめながら静かに言った。
「おそらく、あれは内輪の問題だ」

「内輪……ですか?」
 咲耶は視線を上げて頼一を見ると、首を傾げた。
「井戸から上がった死体は、誰も見たことがない女だったと聞きましたが……」
 咲耶の言葉に、頼一はフッと笑った。
「そんなことまで知っているのか。咲耶は私の部下より優秀だな」
 頼一は可笑しそうに言うと、再び酒杯に口をつけた。

 酒杯の酒を飲み干すと、頼一はそっと口を開く。
「咲耶……、危険を冒してまで、人の屋敷の井戸に関係のない人間の死体を捨てるやつがいると思うか? 捨てる段階でも、捨てた後でも見つかる可能性が高いうえ、良いことは何もない。皿屋敷の件と絡めているならなおさらだ。怪談に見立てたところで、事件は事件として調べられるからな。注目を集めてしまっている分、より深く調べられる。そう考えると、井戸に死体を捨てた人間は、女についてむしろ調べてほしいと望んでいるようにさえ思える」

 咲耶は目を見開く。
「それは……どういう……」

 頼一は静かに微笑んだ。
「それから、もうひとつ。井戸から引き上げた女の死体を見たのは、奉公人の中でもほんの数人だ。しかし、同心に話しを聞かれた屋敷の奉公人は全員こう答えた。『見たこともない女だった』と」

 咲耶は見開いていた瞳を静かに閉じると、息を吐いた。
「なるほど……。屋敷中の人間が口裏を合わせていると……」
「ああ」
 頼一は頷いた。
「何かを暴こうとしている人間と、何かを隠そうとしている人間がいる。どちらも屋敷の中に」

「だから、内輪の問題とおっしゃったのですね……」
「ああ。その問題に割って入っていかない限りは、おそらく危険はない。ただ……」
 頼一は酒杯を膳の上に置いた。
「弥吉が、その内輪に属する人間なら、今は関わるべきではないと思っている」
 頼一はそう言うと、咲耶を見つめた。

 咲耶は目を伏せる。
(関わるべきではない……か……)

「お教えいただき、ありがとうございます」
 咲耶は視線を上げて、頼一を見つめた。
「ただ、弥吉はもう玉屋の人間なのです。そのお屋敷の内輪の人間になってもらっては困ります。弥吉の帰る場所はここなのですから」
 そう言うと咲耶はにっこりと笑った。

 咲耶の言葉に、頼一は微笑むと軽く息を吐いた。
「咲耶ならそう言うだろうと思っていた。おまえがそうしたいなら、それでいい。ただ、くれぐれも気をつけてくれ」
「はい」
 咲耶は頼一をしっかりと見つめると、力強く頷いた。