「今日からここで暮らすのね……」
 女は目を輝かせて、長屋を見つめた。
「ああ、旦那様は屋敷に住んでもいいって言ってくださったんだけどな」
 男は女の横に並ぶと、女に向かって微笑んだ。
「この子もいるし、ご迷惑をお掛けするわけにはいかないから」
 男は女のお腹に手を当てた。
 女のお腹はまだ何の膨らみもなかったが、触れるとなぜか温かな鼓動を感じる気がした。

「まだまだ先ですけどね」
 女は男の手に、自分の手を重ねるとそっと微笑む。
「そんなことない。もうすぐだ」
 男はお腹を見つめながら、目を細めた。
「ふふ、そうですね」
 女は楽しそうに笑うと、再び視線を長屋に移した。

「あら」
 女は長屋の前に植えられた木に目を留めた。
「これは何の花かしら?」
 木の枝の先には、たくさんの白い花が咲いていた。

「ああ、南天の花だな。江戸では火災避けとして長屋の前に南天を植えるらしい」
 男も長屋の方に視線を向けた。
「火災ですか……。江戸は多いと聞きますものね。まぁ、これだけ人が密集して暮らしていれば、火事は起こりやすいのでしょうけど……」
 女は目を伏せた。
「俺たちも気をつけないとな。これからはお腹の子も一緒だから」
 男はそっと女の肩を抱いた。
「そうですね……」
 女は自分のお腹をそっとさすった。

「この南天が赤い実をつける頃には、お腹の子にも会えるかな?」
 男が嬉しそうに笑った。
「え!? 南天といえば十一月や十二月ですよね? まだ生まれていませんよ! 気が早いです! 生まれるのは早くても年が明けてからですよ」
 女は苦笑した。
「そうか……。まだ先だな……」
 男は少し残念そうに呟く。
「ふふ、きっとあっという間ですよ。南天が実をつけるのも、この子が生まれるのも……」
「そうだな……」
 男は南天を見つめながら微笑んだ。

「まぁ、まずは俺がしっかり働かないとな。旦那様に満足いただけるものを作れるよう努力するよ。こっちは土も水も違うだろうから……」
「あなたならできますよ。しっかり旦那様のご期待に応えてくださいね」
 女は柔らかく微笑んだ。
「ああ、おまえとこの子のためにもな……」
 男も女を見つめて微笑んだ。

 そのとき、風が吹いた。
 二人は心地よい風に目を閉じ、南天の花はそんな二人を見守るように、静かに長屋の前で揺れていた。