「花魁、入ります」
禿の緑は、襖の前で声かけて咲耶太夫の部屋の戸を開ける。
戸を開けると、窓のへりに腰かけて外を眺める咲耶の姿が目に入った。
(綺麗……)
咲耶の姿は何度見ても見慣れることがなかった。
桜色の薄い長襦袢を着た咲耶は、朝日を浴びてまるで、地上に降り立ったばかりの天女のようだった。
いつもは結われている艶やかな髪は無造作に下され、長襦袢から覗く足は白くしなやかで、頬が熱くなるほど艶めかしかった。
「緑?」
咲耶は部屋の前で呆けている緑に気がつくと、振り返って笑った。
「入っておいで」
慌てて緑は部屋に入った。
「すみません! 花魁に見惚れて……やっぱり花魁は世界一です!」
こぶしを握りしめて言う緑に咲耶は苦笑する。
「世界一って吉原の中以外知らないだろう?」
「少なくとも吉原の世界では一番です!」
前のめりになる緑に咲耶は微笑んだ。
「はいはい、ありがとう」
「昨日の道中もすごかったです 歓声でお囃子が聞こえなかったくらいでした! 花魁が微笑むたび倒れる人もいたみたいですよ!」
「大げさな……」
「いえいえ、本当ですよ! 私は道中だと花魁の前を歩くので、見られなくて残念でした……」
少ししょんぼりとした緑の様子に、咲耶は近づいて緑の頭をなでた。
「緑は可愛かったよ。私の自慢の禿だからね」
咲耶が微笑むと、緑は顔を真っ赤にする。
「……ありがとうございます! 咲耶太夫の名に恥じないように精進します!」
緑が嬉しそうに笑った。
「あ、いけない! 伝えないといけないことがあったんでした!」
緑はそう言うと真剣な表情で咲耶を見つめた。
「昨日、道中があった頃にここのすぐ近くで辻斬りがあったらしいんです……。男性四人が首をバッサリと……」
緑は自分の首に手をあてその様子を想像し、眉をひそめた。
「まだ捕まっていないらしいので、気をつけるようにっておふれが出てます。花魁を手にかけるような大馬鹿者はいないでしょうけど、気をつけてください!」
咲耶は緑の言葉に目を伏せて、小さく呟いた。
「そうか……」
「花魁?」
心配そうに緑は咲耶を見つめる。
「いや、なんでもない」
咲耶はやわらかく微笑み、窓の外に目を向けた。
春は吉原が最も忙しくなる季節だ。
桜の咲く時期に合わせ沿道に千本近い桜の木が植えられ、花見の名所となるからである。
この時期だけは普段吉原を訪れない人間も花見を目的として足を踏み入れるため、昼夜問わず吉原は賑わいをみせる。
「あれからもう一年経つのか……」
咲耶は窓を見つめたまま小さく呟いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あああああ! また勝手に引き受けただろ! それ!!」
長屋に弥吉の声が響き渡る。声変わりする前の少年の声は木造の建物の中でよく響いた。
長屋で傘の和紙を張り直していた男はゆっくりと振り返り、長屋の入り口に立ったままの弥吉に薄茶色の目を向けた。
「ああ、頼まれた……」
男は無表情のまま再び傘に視線を戻した。
「ちゃんと金もらったんだろうな!?」
バタバタと長屋にあがり、男に詰め寄る。
「そこに」
男が指さした先には桶に入った芋が三つあった。
「これ……?」
弥吉は言葉を失う。
これから張り直すであろう傘はあと十本はあった。
「今何本目なの……?」
「二十本目だ」
「傘三十本直して芋三つ……?」
弥吉は頭を抱えた。
「信さん……、俺がいないときにもう何も引き受けんなよ……。ちなみにその後ろにあるのは何?」
弥吉はいくつも重ねれたお椀を指した。
「ああ、これは漆の塗り直しを頼まれた」
「漆!? てかそれ、素人にできるの!?」
「できる」
信は黙々と傘を直しながら答えた。
「……金は?」
信が指さす方を見ると水の入った桶の中にきゅうりが三本冷えていた。
弥吉が膝から崩れ落ちる。
「頼むから……もう何も引き受けないで……。ああ……俺だって肉や魚が食べたい……」
「肉……」
弥吉の言葉を聞くと信はおもむろに立ち上がった。
「信さん?」
弥吉が顔をあげるのと同時に、信は長屋の壁を強く叩いた。
「え!? ちょっと待っ……」
ミシっと木造の家屋が軋む音とともに、何かがカサカサと動く。
弥吉の視界の隅を黒いものが一瞬で通過する。
信はそれを信じられない速さで掴み、弥吉の前に差し出した。
「これ、焼くか?」
弥吉の目の前で、哀れなネズミが悲鳴を上げていた。
「!??」
弥吉が言葉にならない声をあげて後ずさる。
「それ食べる気なの!?」
「焼けばなんでも食べられる」
「!?」
呆気に取られていた弥吉は見開いていた目を閉じ、諦めたように首を左右に振った。
「もう……それいいから……、逃がしてあげて……」
信は無表情にネズミを見つめてから、手を開いてネズミを逃がした。
再び傘を直し始めた信を見ながら、弥吉はため息をついた。
「本当に……どうやって生きていこう……」
「虫だって焼けば食べられる。どうとでも生きていけるから大丈夫だ」
傘を直しながら信が淡々と答える。
「ああ……そうだね……」
もう反論する気も起きない弥吉は、虫を食べさせられる前に金と仕事の管理は自分がしようと心に誓った。
禿の緑は、襖の前で声かけて咲耶太夫の部屋の戸を開ける。
戸を開けると、窓のへりに腰かけて外を眺める咲耶の姿が目に入った。
(綺麗……)
咲耶の姿は何度見ても見慣れることがなかった。
桜色の薄い長襦袢を着た咲耶は、朝日を浴びてまるで、地上に降り立ったばかりの天女のようだった。
いつもは結われている艶やかな髪は無造作に下され、長襦袢から覗く足は白くしなやかで、頬が熱くなるほど艶めかしかった。
「緑?」
咲耶は部屋の前で呆けている緑に気がつくと、振り返って笑った。
「入っておいで」
慌てて緑は部屋に入った。
「すみません! 花魁に見惚れて……やっぱり花魁は世界一です!」
こぶしを握りしめて言う緑に咲耶は苦笑する。
「世界一って吉原の中以外知らないだろう?」
「少なくとも吉原の世界では一番です!」
前のめりになる緑に咲耶は微笑んだ。
「はいはい、ありがとう」
「昨日の道中もすごかったです 歓声でお囃子が聞こえなかったくらいでした! 花魁が微笑むたび倒れる人もいたみたいですよ!」
「大げさな……」
「いえいえ、本当ですよ! 私は道中だと花魁の前を歩くので、見られなくて残念でした……」
少ししょんぼりとした緑の様子に、咲耶は近づいて緑の頭をなでた。
「緑は可愛かったよ。私の自慢の禿だからね」
咲耶が微笑むと、緑は顔を真っ赤にする。
「……ありがとうございます! 咲耶太夫の名に恥じないように精進します!」
緑が嬉しそうに笑った。
「あ、いけない! 伝えないといけないことがあったんでした!」
緑はそう言うと真剣な表情で咲耶を見つめた。
「昨日、道中があった頃にここのすぐ近くで辻斬りがあったらしいんです……。男性四人が首をバッサリと……」
緑は自分の首に手をあてその様子を想像し、眉をひそめた。
「まだ捕まっていないらしいので、気をつけるようにっておふれが出てます。花魁を手にかけるような大馬鹿者はいないでしょうけど、気をつけてください!」
咲耶は緑の言葉に目を伏せて、小さく呟いた。
「そうか……」
「花魁?」
心配そうに緑は咲耶を見つめる。
「いや、なんでもない」
咲耶はやわらかく微笑み、窓の外に目を向けた。
春は吉原が最も忙しくなる季節だ。
桜の咲く時期に合わせ沿道に千本近い桜の木が植えられ、花見の名所となるからである。
この時期だけは普段吉原を訪れない人間も花見を目的として足を踏み入れるため、昼夜問わず吉原は賑わいをみせる。
「あれからもう一年経つのか……」
咲耶は窓を見つめたまま小さく呟いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「あああああ! また勝手に引き受けただろ! それ!!」
長屋に弥吉の声が響き渡る。声変わりする前の少年の声は木造の建物の中でよく響いた。
長屋で傘の和紙を張り直していた男はゆっくりと振り返り、長屋の入り口に立ったままの弥吉に薄茶色の目を向けた。
「ああ、頼まれた……」
男は無表情のまま再び傘に視線を戻した。
「ちゃんと金もらったんだろうな!?」
バタバタと長屋にあがり、男に詰め寄る。
「そこに」
男が指さした先には桶に入った芋が三つあった。
「これ……?」
弥吉は言葉を失う。
これから張り直すであろう傘はあと十本はあった。
「今何本目なの……?」
「二十本目だ」
「傘三十本直して芋三つ……?」
弥吉は頭を抱えた。
「信さん……、俺がいないときにもう何も引き受けんなよ……。ちなみにその後ろにあるのは何?」
弥吉はいくつも重ねれたお椀を指した。
「ああ、これは漆の塗り直しを頼まれた」
「漆!? てかそれ、素人にできるの!?」
「できる」
信は黙々と傘を直しながら答えた。
「……金は?」
信が指さす方を見ると水の入った桶の中にきゅうりが三本冷えていた。
弥吉が膝から崩れ落ちる。
「頼むから……もう何も引き受けないで……。ああ……俺だって肉や魚が食べたい……」
「肉……」
弥吉の言葉を聞くと信はおもむろに立ち上がった。
「信さん?」
弥吉が顔をあげるのと同時に、信は長屋の壁を強く叩いた。
「え!? ちょっと待っ……」
ミシっと木造の家屋が軋む音とともに、何かがカサカサと動く。
弥吉の視界の隅を黒いものが一瞬で通過する。
信はそれを信じられない速さで掴み、弥吉の前に差し出した。
「これ、焼くか?」
弥吉の目の前で、哀れなネズミが悲鳴を上げていた。
「!??」
弥吉が言葉にならない声をあげて後ずさる。
「それ食べる気なの!?」
「焼けばなんでも食べられる」
「!?」
呆気に取られていた弥吉は見開いていた目を閉じ、諦めたように首を左右に振った。
「もう……それいいから……、逃がしてあげて……」
信は無表情にネズミを見つめてから、手を開いてネズミを逃がした。
再び傘を直し始めた信を見ながら、弥吉はため息をついた。
「本当に……どうやって生きていこう……」
「虫だって焼けば食べられる。どうとでも生きていけるから大丈夫だ」
傘を直しながら信が淡々と答える。
「ああ……そうだね……」
もう反論する気も起きない弥吉は、虫を食べさせられる前に金と仕事の管理は自分がしようと心に誓った。