格子窓の向こうが明るくなり始めていた。
(夜が明けたか……)
 部屋で机に向かい仕事をしていた楼主は、書き物をする手を止めて顔を上げる。
(もう少ししたら客も帰る時間だな……。残りの仕事もさっさと済ませないと……)
 楼主は首を傾けて自分の肩を揉むと、ゆっくりと肩を回した。

(もう年だな……)
 楼主はひとり苦笑した。
(赤子だった咲耶があれだけ大きくなったんだから、当然か……)
 楼主は昨日の咲耶の道中を思い出していた。

「咲耶が俺に似ている……か……」
 楼主はひとり呟くと片手で顔を覆い、ため息をついた。
「あいつ……どこまでわかってて咲耶を俺に……」

 楼主はもう一度ため息をつくと、顔を上げて格子越しに空を見た。
「薄々思ってはいたけど……、あいつ、自分のこと忘れさせる気ないだろう……」

 楼主は息を吐いた。
(言いたいことはいろいろある……。桜のことを何もかも勝手に決めたことへの文句、俺と見世に桜という光を与えてくれたことへの感謝……。それから、紫苑を守れなかったこと、守ろうとさえしなかったことへの謝罪……)


「楼主様」
 そのとき、襖の向こうで声が響いた。
「ああ……、どうした?」
 楼主は振り返った。

 ゆっくりと襖が開き、遣手婆が顔を出す。
「私はそろそろ休もうと思いますが、楼主様はまだお仕事ですか? 何か手伝いましょうか」
 遣手婆の言葉に、楼主は微笑んだ。
「いや、大丈夫だ。昨日は忙しかったし、おまえも疲れただろう? 先に休んでくれ」
「ありがとうございます! じゃあ、お言葉に甘えて……」
 遣手婆が嬉しそうに目を細める。

 襖を閉めようとした遣手婆は、ふと棚の上にある薄紫色の花に目を留めた。
「ああ、もうそんな時期ですか……。この花を見ると秋って気がしますよ」
「今年は少し早く手に入ったんだ。まだまだ夏だよ」
 楼主は苦笑した。

「まぁ、まだ暑いですしね! それにしても毎年この花だけですよね、楼主様が飾るの」
 遣手婆は笑った。
「よっぽどお好きなんですね!」

 楼主はわずかに目を伏せた後、そっと紫苑の花に視線を向けた。

「……ああ。そうだな」
 楼主は花を見つめたまま、可笑しそうに笑った。
「俺は、とんでもない物好きなんだよ」

 遣手婆は目を丸くする。
「も、物好き……? 私はそんな嫌味を言ったつもりは……」
 狼狽えている遣手婆を見て、楼主は笑った。
「わかっている。俺が勝手に物好きだと思っているだけだから、気にしないでくれ。もう休め。ひと眠りしたらまた仕事だからな」

「あ、はい……。じゃあ、お先に失礼します」
 遣手婆はそう言うと、そそくさと去っていった。


 楼主は再び机に向かう。
(いろいろ言いたいことはあるが、もしあの世でまた会えるなら、そのときは……)
 楼主はかすかに微笑んだ。
(今度こそ、何より先にまず俺の気持ちを伝えるよ……)

「ああ……、伝えたら、あいつ絶対勝ち誇ったように笑うんだろうな……。想像できる……。はぁ、なんか気が重くなってきた……」

 窓から朝日が差し込み、薄紫の小さな花が明るく照らし出された。
 皆が寝静まっている見世の中で、ブツブツ呟く楼主の姿を、紫苑の花だけがただ静かに見守っていた。