「正直、こんなに早く手紙を書き切って、六日目に復帰するとは思わなかったよ」
楼主は、髪を結う咲耶の後ろ姿を見ながら呆れた顔で言った。
咲耶は鏡越しに楼主を見るとフッと笑ったが、その目はまったく笑っていなかった。
「ああ、私も想像していなかったさ。三日で書き切った結果、腕と肩が痛くて二日も寝込むとは……。おかげさまで、楼主様の思惑通り、五日もかかってしまいましたよ」
咲耶の言葉に、宗助は肩をすくめる。
「勘違いするな。俺の予想は普通に書いて七日だった。寝込むのは予想外だ」
咲耶は鏡越しに楼主を軽く睨む。
「このタヌキが……」
咲耶は小さく呟いた。
「おい、聞こえてるぞ」
楼主は腕を組み、呆れた声で咲耶に言った。
「その口の悪さはここだけにしておけよ。今日の客、あのお奉行様だろう? おまえにはもったいないくらいの出来たお客なんだから、丁重にな」
咲耶はフンと鼻を鳴らす。
「当たり前だ。そもそも頼一様と話していて、嫌味を言うような事態になるわけがないだろう」
「まぁ、それもそうか……」
楼主は苦笑した。
「ほら、もう邪魔になるだけだから一階に下りていてくれ。もう時間もないんだ」
咲耶は鏡を見たまま、虫を追い払うようにシッシッと手を振った。
(なんてやつだ……)
楼主は小さくため息をついた。
「わかったよ。一階にいるから、準備ができたら下りてこいよ」
「ああ、わかった」
咲耶は鏡を見たまま、軽く返事をした。
楼主は咲耶の部屋を出ると、階段に向かう。
(ああ、小さい時はもっと可愛かったのに……。いつからあんなに生意気になったのか……)
楼主がため息をつきながら階段を下りていると、男衆が慌てて見世の中に入ってくるのが見えた。
「おい、どうしたんだ?」
楼主が男衆に声を掛けると、男衆はホッとしたように楼主に駆け寄った。
「楼主様、見世の前にいずみ屋さんがいらっしゃっています。それと……なぜか露草太夫もご一緒で……」
男衆はほかの見世の太夫が玉屋に来たことに戸惑っているようだった。
「ああ……露草太夫が……」
楼主は少しだけ笑った。
(露草太夫がいずみ屋さんと結婚して内儀になるって噂は本当なのかもしれないな……。相手が露草太夫では、いずみ屋さんは完全に尻に敷かれそうだが……)
楼主はそんなことを考えながら、階段を下りると入口まで行き見世の戸を開けた。
戸を開けると、青い顔をしたいずみ屋の楼主と微笑みを湛えた露草太夫が立っていた。
「これはこれは、いずみ屋さん。それに露草太夫も。どうされましたか?」
楼主は笑みを浮かべて二人を出迎えると、見世の中に通した。
「玉屋さん、お忙しい時にすみません……」
いずみ屋の楼主は、青い顔に貼り付けたような笑顔で言った。
「今は咲耶太夫の道中の準備で忙しいと私は止めたんですが……、うちの露草がどうしても咲耶太夫に会いた……じゃない、咲耶太夫が心配だと言ってきかなくて……。あの……こちらお見舞いの品です……」
いずみ屋の楼主は深々と頭を下げると、手土産を差し出した。
(なるほど……、すでに尻に敷かれていたか……)
楼主はひとり納得する。
「ああ、お気遣いありがとうございます」
楼主は手土産を受け取ると、露草の方に視線を向ける。
露草は今日は見世に出ないのか髪を下ろし地味な着物を着ていたが、それでも隠せないほどの華やかな色気が溢れていた。
「露草太夫も、咲耶を心配してくださったようでありがとうございます。まもなく下りてくると思いますので、ご挨拶させますね」
「いえいえ、そんなお気遣いなく。どうしても心配で来てしまっただけですからぁ。ひと目元気そうな姿が見られれば満足ですわ」
露草はそう言うとにっこりと笑った。
(露草太夫はさすがの貫禄だな……。こういうしなやかで柔らかい対応は、咲耶も身につけてほしいものだが……)
楼主は心の中でため息をついた。
(露草太夫が内儀になったら、いずみ屋は一段と大きくなりそうだ……。うちも負けないようにしないとな……)
そのとき、露草太夫の視線が二階に向けられたのがわかった。
「咲耶ちゃん!」
露草が頬を赤らめて、階段上に姿を見せた咲耶を呼んだ。
「露草太夫……。それに、いずみ屋さん……。どうされたのですか?」
咲耶は二人に気づくと、営業用の上品な笑顔を浮かべた。
久しぶりに華やかに着飾った咲耶は、皆が思わず息を飲むほど美しかった。
優雅な動きで階段を下りた咲耶は、ゆっくりと露草のもとに歩み寄る。
「咲耶ちゃんが心配で来たの。もう大丈夫なの? 本当に火傷はなかった??」
露草は咲耶の両肩に手を置くと、不安げな顔で聞いた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。火傷はしておりませんし、体調もすっかり良くなりました。楼主様がじっっくり休ませてくださったおかげです」
咲耶は美しい微笑みを浮かべていたが、楼主は咲耶の言葉にある棘を、しっかりと感じていた。
「そう……。それならいいのだけど……。あまり無理をしてはダメよ」
露草は咲耶の肩から手を離すと、気遣うような眼差しで咲耶を見た。
「ええ、ありがとうございます」
咲耶は微笑むと、深々と頭を下げた。
「きっとこれは私の宿命だったのです」
顔を上げた咲耶は、にっこりと笑いながら言った。
「宿命?」
露草が眉をひそめる。
「ええ、私の名は木花咲耶姫からいただいたものなのですが……。あ、ご存じですか? あの花のように儚く短命の象徴のような女神です」
桜は口元に手を当てて、品よく微笑む。
楼主は咲耶の言葉に、片手で顔を覆ってうつむいた。
(あいつ……、まだ根に持っていたのか……。謝ったのに……)
木花咲耶姫の神話について楼主が知ったのは、咲耶の名を決めて数日経ってからだった。
遊女たちが『本当にそんな名にするのか』と楼主のもとにやってきて神話について教えてくれたのだ。
楼主は咲耶に名を変えようと提案もしたが、咲耶がこのままでいいと言ったため、その名のまま咲耶は禿になった。
「木花咲耶姫といえば、子を身籠った際に結婚相手に不貞を疑われ、潔白を証明するために火のついた小屋の中で出産したのが有名ですよね。私がいた茶屋が燃えたとき、楼主様は私が将来炎に包まれることを予見されていたのかと少し震えてしまいました」
咲耶は楽しそうに笑っていたが、内容が内容だけに、露草といずみ屋の楼主は複雑な表情を浮かべていた。
楼主はより深くうつむく。
(そんなこと予見しているわけがないだろう……! あいつ、相当根に持ってるな……)
「神話のように炎には包まれましたが、私はこうして無傷でした。これで宿命は乗り越えたと思っております」
咲耶はそう言うと、ゆっくりと楼主の前に足を進める。
楼主は咲耶の気配を感じて、そっと顔を上げた。
目の前で咲耶はニヤリと笑う。
「あとは……見世を守る女神としての役割を果たすだけです。ね、楼主様?」
咲耶のその表情は、以前よく目にしていた紫苑の表情によく似ていた。
(本当に……そういう顔はあいつにそっくりだな……)
楼主は思わず苦笑した。
「ああ。今日からまたよろしく頼むよ、咲耶」
「ええ」
咲耶は満足げに微笑んだ。
咲耶は、露草といずみ屋の楼主に深々と頭を下げると、高下駄を履くために男衆とともに戸の方へと歩いていった。
残された三人は顔を見合わせる。
「いやぁ、あの通り元気ですのでご安心ください……」
楼主は苦笑しながら二人に言った。
「ははは……、元気そうでなによりです。玉屋さんもこれでひと安心ですね」
いずみ屋の楼主はそう言って少しだけ笑うと、楼主の顔をチラリと見た。
「いやぁ、それにしても……、咲耶太夫は本当によく似ていらっしゃいますね……」
「……え?」
楼主の顔から笑顔が消え、思わず声が漏れる。
いずみ屋の楼主が、紫苑の顔を知っているはずがなかった。
咲耶の出生は誰にも知られてはいけない。
一瞬にして楼主の顔が青ざめた。
(いずみ屋さんは何か知っているのか……?)
「誰に……ですか……?」
楼主は絞り出すように聞いた。
いずみ屋の楼主は、不思議そうに首を傾げる。
「え? それはもちろん……玉屋さんにですよ」
楼主は目を見開いた。
「…………え?」
(俺に…………?)
「前から思っておりましたが、あの嫌味な……じゃない……! ほ、ほら、話し方とか物の言い方なんか! 玉屋さんにそっくりですよ。やはり幼いときから長く一緒に過ごしていると似てくるものなんですかね……」
いずみ屋の楼主は、高下駄を履こうとしている咲耶を見ながら、しみじみと言った。
楼主は呆然と咲耶を見る。
(咲耶が…………俺に似ている……?)
楼主が何も応えられずにいると、隣にいた露草がクスリと笑った。
「楼主様」
露草に呼ばれ、楼主は露草に視線を向ける。
「当たり前ですが、人は血だけですべてが決まるわけではありません。生きていく中で、触れたものに染まりながらゆっくりと育っていくものです」
露草はそう言うと、楼主に向かってにっこりと微笑んだ。
「咲耶太夫は、素晴らしい染まり方をしていると、私は思いますわ」
楼主はわずかに目を見張った後、そっと目を閉じた。
「そうですか……。そう言っていただけると私も少し……救われます」
楼主の言葉に、露草は微笑んだ。
三人は咲耶を見つめる。
咲耶の道中の準備が整いつつあった。
しばらくして玉屋の見世の戸が開け放たれた。
「咲耶太夫、おね~り~」
見世の外で歓声が上がった。
咲耶は背筋を伸ばし、視線を上げる。
多くの人々が見守る中、咲耶は高下駄で確かな一歩を踏み出した。
楼主は、髪を結う咲耶の後ろ姿を見ながら呆れた顔で言った。
咲耶は鏡越しに楼主を見るとフッと笑ったが、その目はまったく笑っていなかった。
「ああ、私も想像していなかったさ。三日で書き切った結果、腕と肩が痛くて二日も寝込むとは……。おかげさまで、楼主様の思惑通り、五日もかかってしまいましたよ」
咲耶の言葉に、宗助は肩をすくめる。
「勘違いするな。俺の予想は普通に書いて七日だった。寝込むのは予想外だ」
咲耶は鏡越しに楼主を軽く睨む。
「このタヌキが……」
咲耶は小さく呟いた。
「おい、聞こえてるぞ」
楼主は腕を組み、呆れた声で咲耶に言った。
「その口の悪さはここだけにしておけよ。今日の客、あのお奉行様だろう? おまえにはもったいないくらいの出来たお客なんだから、丁重にな」
咲耶はフンと鼻を鳴らす。
「当たり前だ。そもそも頼一様と話していて、嫌味を言うような事態になるわけがないだろう」
「まぁ、それもそうか……」
楼主は苦笑した。
「ほら、もう邪魔になるだけだから一階に下りていてくれ。もう時間もないんだ」
咲耶は鏡を見たまま、虫を追い払うようにシッシッと手を振った。
(なんてやつだ……)
楼主は小さくため息をついた。
「わかったよ。一階にいるから、準備ができたら下りてこいよ」
「ああ、わかった」
咲耶は鏡を見たまま、軽く返事をした。
楼主は咲耶の部屋を出ると、階段に向かう。
(ああ、小さい時はもっと可愛かったのに……。いつからあんなに生意気になったのか……)
楼主がため息をつきながら階段を下りていると、男衆が慌てて見世の中に入ってくるのが見えた。
「おい、どうしたんだ?」
楼主が男衆に声を掛けると、男衆はホッとしたように楼主に駆け寄った。
「楼主様、見世の前にいずみ屋さんがいらっしゃっています。それと……なぜか露草太夫もご一緒で……」
男衆はほかの見世の太夫が玉屋に来たことに戸惑っているようだった。
「ああ……露草太夫が……」
楼主は少しだけ笑った。
(露草太夫がいずみ屋さんと結婚して内儀になるって噂は本当なのかもしれないな……。相手が露草太夫では、いずみ屋さんは完全に尻に敷かれそうだが……)
楼主はそんなことを考えながら、階段を下りると入口まで行き見世の戸を開けた。
戸を開けると、青い顔をしたいずみ屋の楼主と微笑みを湛えた露草太夫が立っていた。
「これはこれは、いずみ屋さん。それに露草太夫も。どうされましたか?」
楼主は笑みを浮かべて二人を出迎えると、見世の中に通した。
「玉屋さん、お忙しい時にすみません……」
いずみ屋の楼主は、青い顔に貼り付けたような笑顔で言った。
「今は咲耶太夫の道中の準備で忙しいと私は止めたんですが……、うちの露草がどうしても咲耶太夫に会いた……じゃない、咲耶太夫が心配だと言ってきかなくて……。あの……こちらお見舞いの品です……」
いずみ屋の楼主は深々と頭を下げると、手土産を差し出した。
(なるほど……、すでに尻に敷かれていたか……)
楼主はひとり納得する。
「ああ、お気遣いありがとうございます」
楼主は手土産を受け取ると、露草の方に視線を向ける。
露草は今日は見世に出ないのか髪を下ろし地味な着物を着ていたが、それでも隠せないほどの華やかな色気が溢れていた。
「露草太夫も、咲耶を心配してくださったようでありがとうございます。まもなく下りてくると思いますので、ご挨拶させますね」
「いえいえ、そんなお気遣いなく。どうしても心配で来てしまっただけですからぁ。ひと目元気そうな姿が見られれば満足ですわ」
露草はそう言うとにっこりと笑った。
(露草太夫はさすがの貫禄だな……。こういうしなやかで柔らかい対応は、咲耶も身につけてほしいものだが……)
楼主は心の中でため息をついた。
(露草太夫が内儀になったら、いずみ屋は一段と大きくなりそうだ……。うちも負けないようにしないとな……)
そのとき、露草太夫の視線が二階に向けられたのがわかった。
「咲耶ちゃん!」
露草が頬を赤らめて、階段上に姿を見せた咲耶を呼んだ。
「露草太夫……。それに、いずみ屋さん……。どうされたのですか?」
咲耶は二人に気づくと、営業用の上品な笑顔を浮かべた。
久しぶりに華やかに着飾った咲耶は、皆が思わず息を飲むほど美しかった。
優雅な動きで階段を下りた咲耶は、ゆっくりと露草のもとに歩み寄る。
「咲耶ちゃんが心配で来たの。もう大丈夫なの? 本当に火傷はなかった??」
露草は咲耶の両肩に手を置くと、不安げな顔で聞いた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。火傷はしておりませんし、体調もすっかり良くなりました。楼主様がじっっくり休ませてくださったおかげです」
咲耶は美しい微笑みを浮かべていたが、楼主は咲耶の言葉にある棘を、しっかりと感じていた。
「そう……。それならいいのだけど……。あまり無理をしてはダメよ」
露草は咲耶の肩から手を離すと、気遣うような眼差しで咲耶を見た。
「ええ、ありがとうございます」
咲耶は微笑むと、深々と頭を下げた。
「きっとこれは私の宿命だったのです」
顔を上げた咲耶は、にっこりと笑いながら言った。
「宿命?」
露草が眉をひそめる。
「ええ、私の名は木花咲耶姫からいただいたものなのですが……。あ、ご存じですか? あの花のように儚く短命の象徴のような女神です」
桜は口元に手を当てて、品よく微笑む。
楼主は咲耶の言葉に、片手で顔を覆ってうつむいた。
(あいつ……、まだ根に持っていたのか……。謝ったのに……)
木花咲耶姫の神話について楼主が知ったのは、咲耶の名を決めて数日経ってからだった。
遊女たちが『本当にそんな名にするのか』と楼主のもとにやってきて神話について教えてくれたのだ。
楼主は咲耶に名を変えようと提案もしたが、咲耶がこのままでいいと言ったため、その名のまま咲耶は禿になった。
「木花咲耶姫といえば、子を身籠った際に結婚相手に不貞を疑われ、潔白を証明するために火のついた小屋の中で出産したのが有名ですよね。私がいた茶屋が燃えたとき、楼主様は私が将来炎に包まれることを予見されていたのかと少し震えてしまいました」
咲耶は楽しそうに笑っていたが、内容が内容だけに、露草といずみ屋の楼主は複雑な表情を浮かべていた。
楼主はより深くうつむく。
(そんなこと予見しているわけがないだろう……! あいつ、相当根に持ってるな……)
「神話のように炎には包まれましたが、私はこうして無傷でした。これで宿命は乗り越えたと思っております」
咲耶はそう言うと、ゆっくりと楼主の前に足を進める。
楼主は咲耶の気配を感じて、そっと顔を上げた。
目の前で咲耶はニヤリと笑う。
「あとは……見世を守る女神としての役割を果たすだけです。ね、楼主様?」
咲耶のその表情は、以前よく目にしていた紫苑の表情によく似ていた。
(本当に……そういう顔はあいつにそっくりだな……)
楼主は思わず苦笑した。
「ああ。今日からまたよろしく頼むよ、咲耶」
「ええ」
咲耶は満足げに微笑んだ。
咲耶は、露草といずみ屋の楼主に深々と頭を下げると、高下駄を履くために男衆とともに戸の方へと歩いていった。
残された三人は顔を見合わせる。
「いやぁ、あの通り元気ですのでご安心ください……」
楼主は苦笑しながら二人に言った。
「ははは……、元気そうでなによりです。玉屋さんもこれでひと安心ですね」
いずみ屋の楼主はそう言って少しだけ笑うと、楼主の顔をチラリと見た。
「いやぁ、それにしても……、咲耶太夫は本当によく似ていらっしゃいますね……」
「……え?」
楼主の顔から笑顔が消え、思わず声が漏れる。
いずみ屋の楼主が、紫苑の顔を知っているはずがなかった。
咲耶の出生は誰にも知られてはいけない。
一瞬にして楼主の顔が青ざめた。
(いずみ屋さんは何か知っているのか……?)
「誰に……ですか……?」
楼主は絞り出すように聞いた。
いずみ屋の楼主は、不思議そうに首を傾げる。
「え? それはもちろん……玉屋さんにですよ」
楼主は目を見開いた。
「…………え?」
(俺に…………?)
「前から思っておりましたが、あの嫌味な……じゃない……! ほ、ほら、話し方とか物の言い方なんか! 玉屋さんにそっくりですよ。やはり幼いときから長く一緒に過ごしていると似てくるものなんですかね……」
いずみ屋の楼主は、高下駄を履こうとしている咲耶を見ながら、しみじみと言った。
楼主は呆然と咲耶を見る。
(咲耶が…………俺に似ている……?)
楼主が何も応えられずにいると、隣にいた露草がクスリと笑った。
「楼主様」
露草に呼ばれ、楼主は露草に視線を向ける。
「当たり前ですが、人は血だけですべてが決まるわけではありません。生きていく中で、触れたものに染まりながらゆっくりと育っていくものです」
露草はそう言うと、楼主に向かってにっこりと微笑んだ。
「咲耶太夫は、素晴らしい染まり方をしていると、私は思いますわ」
楼主はわずかに目を見張った後、そっと目を閉じた。
「そうですか……。そう言っていただけると私も少し……救われます」
楼主の言葉に、露草は微笑んだ。
三人は咲耶を見つめる。
咲耶の道中の準備が整いつつあった。
しばらくして玉屋の見世の戸が開け放たれた。
「咲耶太夫、おね~り~」
見世の外で歓声が上がった。
咲耶は背筋を伸ばし、視線を上げる。
多くの人々が見守る中、咲耶は高下駄で確かな一歩を踏み出した。